一. 幸福な皇女
蘇 琴華は、自身がこの国で最も恵まれた女性であることを自覚している。
右の爪先で力強く踏み込み、宙に伸び上がる。
そのまま肩の高さに上げた腕を振り、勢いをつけ、二度、三度と旋回。
宙を舞う間も背を伸ばして軸を真っ直ぐに保ち、身体がぐらつかないように制御する。音もなく着地し、間髪入れずに再び宙へ。優雅にしなやかに、何度も地を蹴り、身体を反らせて飛び上がりながら、縦横無尽に駆け回る。
やがて唐突に動きを止め、かざした両腕で顔を隠すような姿勢をとる。風を孕んでたなびいていた袖と被帛が、ふわりと身体に降りてくる。空間がしんと静まりかえった。
しばらくして顔を上げた琴華は、不意ににこりと微笑んだ。
息を飲んで見入っていた侍女たちが、わっと歓声を上げ、手を叩いて沸き立つ。
「素晴らしいですわ、琴華様!」
「再現出来る者がいないと言われていた古の舞を、こんなにも美しく……!」
「さすがは、芸事の女神に愛される琴華公主様です!」
興奮が冷めやらぬ様子で言い募る彼女たちに、琴華は汗を拭いながら苦笑した。
「言い過ぎよ。……練習に懲りずに付き合ってくれる、皆のおかげだわ」
謙虚なその物言いに、侍女たちは恍惚とした表情を浮かべている。涙を浮かべている者さえいた。
ここは礼国第五代皇帝・蘇 冽然の長年の寵妃である王雅妃に与えられた、朱香殿の一室。彼女の娘の琴華は、そこで舞の鍛錬を行うことを日課としていた。
舞だけではなく、楽器に絵画に詩作にと、琴華は幅広い芸術に親しんできた。料理や刺繍も難なくこなし、皇都の令嬢や、後宮勤めの女官たちの尊敬の眼差しを、一身に集める存在だった。
性格は朗らかで、天真爛漫。洗練された上品な身のこなしが与える印象とは裏腹に、笑顔が気さくな親しみやすい皇女だ。ただし、礼儀を弁え控えるべき時には相手を立て、厳しくすべき時には威厳を漂わせて相手と対峙する。皇帝の理想的な長女であると、周囲から絶賛されていた。
さざめくように何事かを言い交わす侍女たちに、琴華は再び朗らかに笑いかけた。
「汗を拭いたいの。悪いけれど、湯浴みを手伝ってくれる?」
「もちろん! すでに湯は用意しておりますわ」
「まあ。さすがね」
誇らしげに答えた侍女たちに、琴華は目を丸くして見せる。歩み寄ってきたそのうちの一人に、顔を拭っていた布を手渡し──汗と白粉で汚れた部分は、きちんと内に折り畳んでいる──、琴華は豪奢な装飾の施された扉へ向かう。
敷居を跨ぐ寸前、彼女は思い出したように振り返った。
「──そうそう、お父様から茘枝をいただいたの。深港の今年の初物ですって。皆で食べてね」
きゃあ、と女官たちは嬌声を上げる。深港は皇帝への献上品として、様々な珍しい果物を育てている地域だ。特に彼の地の茘枝は絶品とされ、簡単には手に入らないという。
「よろしいのですか?」とはしゃぐ女官たちを、微笑ましいものを見るように眺め、琴華は笑顔で告げた。
「お母様と私は、既にお父様と一緒にいただいたもの。全く、あの二人ときたら、年甲斐もなくイチャイチャと。
……何でもないわ。ここの皆でこっそり食べるんじゃなく、殿舎の皆で平等に分けるのよ?」
わざと顔を顰めて琴華が言うと、女官たちの笑いが弾ける。声を揃えて良い返事をした彼女たちに手を振りながら、琴華は部屋を後にした。
景清十七年、春。当時の皇太子、蘇 冽然に、第三子である長女が生まれた。願っていた女児の誕生に、冷厳で知られる皇太子も珍しく相好を崩していたと、当時を知る官僚たちは語る。
彼が目に入れても痛くないほどに可愛がる娘は、昭琳と名付けられた。後の字は、琴華という。
側妃ではあるが、皇太子の寵愛を一身に受ける王氏を母に持つ昭琳は、父母や同母兄に深い愛情を注がれ、すくすくと育った。
幼いながらも母譲りの華やかな面差しに、人見知りとは無縁の性格、種々の芸事に才を見せる彼女を、周囲も暖かい目で見守っている。
彼女が五つとなった年の春の初め頃、祖父である第四代皇帝・昇寂が、急な病でこの世を去った。既に皇太子として政務に携わり、名君の片鱗を見せていた父の冽然は、万民に推しいただかれて玉座に登った。
皇太子の娘から皇帝の娘となり、周囲の接し方も随分と変わった。
物怖じしない性格の昭琳も、そのあまりの変わりように、当初はかなり戸惑った。だが、二月も経過すると、すっかり慣れた。彼女はすぐに礼儀作法の学習や舞の稽古に夢中で打ち込む、従来通りの生活を送り始めた。
やがて父帝の即位から、半年が経過した。
昭琳はその日、覚えたばかりの舞の振りを父母に披露していた。
皇后の座こそは皇太子の正妃であった趙氏に譲ったものの、最上級妃の雅妃の位に就いた王氏は、夫と並んで座り、穏やかな表情で娘を見守っている。皇帝となった冽然は、度々彼女の殿舎に通っては、息子や娘と戯れ、時に夫婦の時間を楽しんでいた。
舞を終えた昭琳は、得意満面の様子で顔を上げる。
目が合った母はおっとりと笑い、娘の頭を撫でた。
「──もうこんなに難しい振りを覚えたのね。素晴らしいわ。……ねぇ、陛下?」
「まったくだ。お前のような娘を持てて、父皇は誇らしいぞ」
父母に手放しで褒められた少女は、くすぐったそうに笑ってみせる。
顔を見合わせ微笑みを交わす若い夫妻を慮ってか、部屋の脇に控えていた侍女が、そっと彼女に退出を促した。彼女は朱香殿付きの侍女の一人で、昭琳の世話を主立って担当してくれている。かつては彼女の乳母も務めた。
昭琳は侍女の言葉に素直に頷き、父と母に頭を下げる。五歳とは思えぬその礼の完璧な美しさに、母は目を細めていた。
父母の前を辞した後、昭琳は侍女と並んで歩き出した。その足取りは軽い。昭琳が転ぶことのないよう、慎重に足元に目を配りながら、母と同年輩の侍女は穏やかに微笑んだ。
「素晴らしい舞でした、昭琳様。芸事を愛した創世の女神も、貴女様の鍛錬への熱意と成果に、目を丸くしておいででしょう」
「ありがとう!」
花が咲くように笑い、昭琳は湧き上がる感情のままに、でたらめに駆け出した。お転婆なその振る舞いに、呆れたように後を追ってくる侍女だが、表情は柔らかい。
昭琳は幸せ者だ。父母の仲睦まじさは周囲が羨むほどで、二人はいつも子どもたちを慈しんでくれる。三つ上の兄の熙衡とは、時に喧嘩することもあるが、兄妹仲はすこぶる良い。仕えてくれる女官たちや宦官たちも皆、仕事熱心で親切だ。昭琳は彼らが大好きだった。
きょうだいは、兄の他にも居る。
兄の更に四つ年──十二歳になる熙承は、皇后・趙氏の子で、父の嫡男だ。大人びた彼は、熙衡と昭琳をよく構ってくれ、二人も義兄を慕っている。
もうひとりは、昭琳の三月あとに生まれた、第二皇女の昭瑶だ。だが、彼女は外に出ることを好まない性格なのか、共に過ごす機会はあまりなかった。
昭琳には難しいことは分からないが、父が皇帝となり、「妃」の数もぐっと増えた。彼女たちのうちの何人かには、子が出来たそうだ。きょうだいがどんどん増えることを、昭琳は素直に喜んでいた。
(きょうだいみんなで、なかよく暮らせたらいいな)
そんな願いを抱きながら、舞に琴に詩に礼儀作法にと、彼女は毎日を忙しく過ごしていた。




