第7話 木の上で ①
正午の鐘が鳴る。
女学校の午前の授業が終わると同時に、昼休憩の合図でもある。
伊織の周辺を終始監視している朔太郎にとって、昼休憩の合図は全く関係のないものであるが、今日は違った。
昨日の帰り道で、朔太郎が昼食を食べていないことを知った伊織が、今朝弁当を作って持たせてくれたのだ。伊織は「おむすびだけですが」と行き道に申し訳なさそうに言っていたが、気に掛けておむすびを作ってくれたことが純粋に嬉しかった。決められた時間に食事をとることをしてこなかった朔太郎にとって、食事が確約されているというのは新鮮だった。午前中は、早くお昼になってほしいと胸が弾みすらした。
朔太郎が風呂敷包みを解くと、竹の弁当かごが出てきた。かごの蓋を開けると、三角形の塩結びが三つと、たくあんが入っている。きれいな正三角形なのにふっくらと結ばれた塩結びは、時間が経ったのにまるで作りたてのような瑞々しさを感じさせる。
「朔太郎、見つけた!」
下から伊織の声がした。
「お昼ごはん、ご一緒しても?」
「はい」
開けた弁当に蓋をして、降りようとした。学校を目隠しするかのように校門周りを囲んでいる木々。その中でも特段背が高く、大きな木の上の枝に朔太郎は座っていたのだ。
「わたくしがそちらに行きます」
そう言って伊織は木をよじ登る。
(待て待て。僕が座っている場所は地上から五メートルはあるけど? ……いや喜多二暗殺を企てた満月の夜、三階建ての屋根まで上ってきた彼女なら問題ないか)
朔太郎が考えを巡らせているうちに伊織は木の突起に足をかけて、朔太郎が座っている枝近くまで来ていた。手を伸ばして伊織の手を掴み引っ張り上げる。
「ありがとう。木登りなんて何年ぶりかしら」
「前から気になっていたんですが、並み外れた身体能力ですね」
「ふふ。褒められてしまいました。それを言うなら朔太郎こそ一般の比ではありませんよ」
「僕は、こうでないと生きていけませんから」
朔太郎は何の気なく言った後、まずい、と思った。自分にとっては当たり前なことが、伊織にとってはそうじゃない。朔太郎にとっての当たり前は世間から遠くかけ離れている。
朔太郎は、重くなりかけた空気を払うように話の流れを変えた。
「そういえば伊織さんは毎晩剣術の稽古を?」
「ええ。祖父が剣術を教えてくれてたの。祖父も近衛の軍人で勲章をもらったこともある立派な方だったのですよ。祖父は五年程前に亡くなったのだけど、それからもずっと稽古はかかさずしています」
「立派ですね。学業に生け花に琴。それだけでも大変なのに、皆が寝静まった後に人知れず剣術ですか」
朔太郎の言葉は本心から出たものだ。朔太郎も訓練は欠かさないが、それは任務のため、ひいては自身が生きていくためである。しかし伊織は違う。生きていくために剣術など不要だ。伊織の人生は ―― 本位かどうかは別として ―― 頼綱が言っていたように、明日見家の長女として地位や権威のある男と結婚し、子を成し、一家を繁栄させていくことにあるだろう。そのために教養や芸能のスキルは必要だと言えるが、ましてや睡眠時間を惜しんでまで剣術の腕を磨く理由はない。
「実はわたくし、明日見家の正妻の子ではないの」
朔太郎は驚き、目を見張った。
「本当は妾の子で、母が亡くなったのをきっかけに、明日見家に引き取られたんです。三歳くらいだったから記憶は曖昧なのですが」
「そう、だったんですか……」
突然の打明け話に、どういった返しをしたらいいか分からず、言葉が見当たらない。
「でも引き取られた時は、子供ながらに不安だった。いじめられたりすることはなかったけれど、ほとんど家に居ない父、目を合わせてくれない継母。遠巻きにひそひそ何かを言っている当時の女中たち。当然と言えば当然の対応です。虐げられずここまで育ててくれたのだから本当に感謝しています。だけど、わたくしは「邪魔者」なんだって思えて、家の中には居づらくて一人お庭で過ごすことが多かったんです」
空を見ながら語りだした伊織は話を一旦区切り、気を遣ってか「おむすび食べてくださいね」と朔太郎に向けて微笑んだ。
「そしたら祖父が話しかけてくれたんです。剣術を教えてやる、と。嬉しかった。明日見家で初めて私と真正面から接してくれた。おじい様は頑固で厳しかったけど、心根の温かい優しい方だった。おじい様に教わる剣術の稽古は楽しかった。打ち身とか擦り傷とか沢山できたけど、その度に成長できてるんだって思えば嬉しくって。わたくしにとっては、無視されることの方がよっぽど痛かったから」
目を輝かせて伊織は話を続ける。
「おじい様は、わたくしによく『強くあれ』と仰っていました。「お前は剣術の才と度胸がある。だがこれから先、女であるお前に剣術等必要ないと言われる日が来るだろう。しかし剣は手段の一つにすぎない。遠慮などするな。身体も心も強くあれ。そして明日見家の人間として、いずれ誰かを護れるような人になりなさい」と」
祖父に思いを馳せる伊織の横顔は、いつも以上に凛々しく美しい。