第5話 大根おろしと大根の甘煮
寒くて、怖くて、心細い――。
朔太郎は暗い山道を一人で走っていた。お腹がすいて、喉が渇いた。
気づけば山道ではなく、薄暗く狭い部屋の中に居た。
部屋の中には朔太郎と同じ年頃の子供たちが十人近くいる。みんなボロボロの服を着て痩せている。その身なりに親近感を感じ、隣にいた男の子になんて声を掛けようか悩んでいた。そうこうしていると、一人の大人が入ってきた。
「一人だ。ここから脱出できるのは一人だ。意味わかるよな? 餓死するか、殺されるか、自分以外を殺して生き延びるか、だ」
――――――
目を開けると、白い天井。窓から入る朝日の眩しさで朔太郎は目を覚ました。
昔の夢を見るのは珍しいことではない。べっしょりした返り血、汗まみれの手で慣れない刀を握り、落さないように必死だった。人の肉体を刺した感触。相手の「死」の気配。
その都度場面は違うが、何回も、何十回もこの日のことは夢に現れる。それはまるで彼らが朔太郎を「許さない」と地獄に手招きしているようだった。
悪夢を振り払うように、身支度を整えて外に出る。
夢で見た光景とは正反対の、明るく空気が澄み切った早朝。
朔太郎は東側の奥にある菜園の方へ歩いていく。そこには、ほんの五時間程前に一戦交えた相手が土いじりをしていた。
「あら、朔太郎。おはようございます」
「おはようございます」
伊織は本当に何事もなかったかのように明るく挨拶をした。大きな白い布袋を抱きかかえている。
「重たそうですね、手伝いましょうか」
「大丈夫ですわ。大変なことも含めて畑仕事の醍醐味ですから」
伊織の趣味は家庭菜園。八畳程のこの菜園で、野菜を育てている。あくまで「趣味」の菜園であるため、女中たちの仕事の範囲外だ。はじめは女中たちも手伝おうとしたらしいが、お気遣い不要だと伊織が止めたのだとか。
「朔太郎ー! ちょっとこっちに来てもらえます?」
「はい」
伊織がいる菜園へと足を踏み入れる。まるで土足で人の寝室に踏み入れているような感覚を覚え、朔太郎はそろり足になった。
「見てくださいっ。この大根! 下の方がお尻みたいにプリっとしていて可愛くないですか?」
「んー。可愛いかなあ」
「こんなに肥えているのだもの。きっと食べごろです。この大根、朝ごはんに使いましょう」
朔太郎は伊織に連れられて、台所へとやってきた。台所では女中のたつが朝食の仕込みをしているところだった。
「おはようございます。今日はたつが朝餉当番なのね。邪魔にならない程度に台所借りさせてね」
「朝からどうされたのですか? お嬢様だけでなく松永さんまで」
「おはようございます」
怪訝そうなたつに、朔太郎も挨拶をする。
「育てている大根を何本か収穫したの。せっかくだから、大根の甘煮にでもしようと思って」
「なるほど。それはよろしゅうございますね。借りるもなにも、この台所は私たちが借りているものですから」
伊織は腕まくりをして割烹着を着用した。まな板に向かい、迷いなく大根をすぱっと切っていく。その姿が、刀で構えをとった彼女の姿と重なる。
(背筋、きれいだなあ)
台所なる場所と無縁だった朔太郎は、どうしていいか分からずその場に立ち尽くしていた。
「せっかく新鮮な大根が採れたのでしたら、大根おろしも作ってみてはどうでしょうか?」
たつが伊織に提案すると、伊織は目を輝かせた。
「まあまあまあ! それは名案ですわ。大根おろしは新鮮さが命ですものね」
伊織とたつは、事前に打合せしていたかのようなタイミングで同時に朔太郎を見た。
「朔太郎、お手伝いをお願いしても?」
「ええ」
朔太郎は、たつから小さな穴が沢山空いた木製の板を渡された。この板の上で大根の断面を滑らせるように擦っていけば、大根おろしが作れるらしい。はじめはぎこちない動きをしていた朔太郎だが、次第にコツが掴めてきたのか最小限の力と力まない姿勢で大根を下ろせるようになった。ふわふわと雪のような大根おろしが出来上がっていく。
「松永さん、もうそんなに沢山下ろされたのですか?」
後ろからたつがのぞき込んだ。
「朔太郎は手際がよろしいですね。せっかくだから、おろしたて、食べてみては? 大根おろしはおろしたてが一番栄養豊富なのですよ」
伊織はそう言って朔太郎に小皿と箸を渡す。
「真っ先に僕が食べてもいいんでしょうか?」
「一番初めに食すのはそれを作った方の権利ですわ。ね、たつ」
「もちろんです」
「じゃあ、いただきます」
大根おろしを小皿にとりわけてから、大根おろしを箸で口に運ぶ。
「っつ! 辛っ! なんだこれ」
辛みか苦みか分からないが、鼻奥がツーンとして朔太郎は顔をしかめた。
そんな朔太郎を見て、伊織とたつは楽しそうに笑っている。
「ふふっ。朔太郎、大丈夫ですか?」
「大根おろしってこんなに辛かったでしたっけ?」
朔太郎は涙目になりながら、まだツーンとしている鼻を押える。
「おろしたての大根おろしは、とっても辛いのですよ。その分栄養価はとっても高いのですが」
「もしかして謀りました?」
「謀ったなんて滅相もない。現にわたくし、おろしたての大根おろし大好きです」
そう言って伊織は横から小皿の上の大根おろしを箸でつまみ、食す。
「んー。この辛さ!癖になりそう」
「では私も」
伊織に続き、たつも無表情ではあるが黙々と大根おろしを食べた。
もぐもぐ食べる二人の姿を見ていると、自身の反応が過剰だったのか……慣れれば、そこまで辛くないのかもしれないと思った朔太郎は、懲りずにもう一口大根おろしを食べた。
「ふぐっ!」
鼻の穴がツーンとした。無意識に痛みを緩和させるためか手で鼻を覆う。
その姿を伊織はお腹を抱えて笑っていた。
「ごめんなさい、ふふっ。意地悪をするつもりは全然ないのですよ?」
「笑ひながら言われても説得力ないれすよ」
「まあまあ。本当はもう少し煮た方がいいでしょうけど、これを食べて機嫌を直して?」
そう言って伊織は、大根の煮物をよそったお椀を朔太郎に渡した。
(……本当に大丈夫か?これ)
大根の煮物を凝視し、中々食べない朔太郎を見かねたのか、「大丈夫。これは甘く煮たものですから」と言って伊織は朔太郎の前で一口食べた。
「んー。やはりもう少し煮た方がいいとは思うのですが……、わたくし、ぜんぜんいける!」
伊織は美味しそうに顔を綻ばせる。
その様子を確認した朔太郎もひとつ、大根の煮物を食べた。
「ん! ……美味しい」
同じ大根なのに、この煮物はホクホクしていて、甘くて美味しい。おそらく醤油の加減が絶妙なのだ。甘すぎず、優しい味わい。
箸が止まらず、もう一つ口に入れる。
「ふふふ。朔太郎は本当に美味しそうに食べてくれるのですね」
伊織は嬉しそうに優しく微笑んだ。
「え? そうですか?」
「ええ。今まで出会った誰よりも、美味しそうに物を食べる方です」
肌寒くなった早朝の台所には、楽しげな話し声と無数の白い湯気が立ち昇っていた。