第4話 満月の夜
満月の夜。
頼綱と西園寺が去り、皆が寝静まったであろう丑の刻を回った頃に、草履を履き脇差を帯刀した朔太郎は、二階の西側にある寝室の窓から物音を立てないように屋根に登った。
今晩で今回の任務は終わる。
美味しい食事に、西洋かるた遊び。案外悪くない三日間だったなと思いながら、ちょうど喜多二の寝室の真上に差し掛かった矢先、朔太郎は窮地を迎えることとなった。
「朔太郎、何をしているの?」
そう、伊織に現場を目撃されてしまったのだ。
「実はわたくし、幼い頃から剣術を嗜んでおりまして、皆が寝静まった頃合を見て庭の蔵で稽古をしていたのです。稽古を終えて蔵を出たら……ほら、今日は綺麗な満月の夜でしょう? 屋根の上に朔太郎が見えたので登ってきたのです」
確かに朔太郎は油断していた。満月の夜は明るいため暗殺には向かない。頼綱と西園寺が去った後、明日見家に残る男は喜多二だけで、残りは女だけだと甘く見てしまった。
だが、それにしてもこんなことがあるのかと朔太郎は思わずにはいられない。否、目撃されてしまった以上、理由はどうでもいい。朔太郎の選択肢は三つ。目撃者を殺す、目撃者を脅して口封じをする、撤退する、のいずれかだ。
――どうする?
撤退は任務失敗を意味する。撤退すれば暗殺計画が漏れ、喜多二はガードを強めるだろう。
だとしたら……。
――なるべく恐怖と痛みを感じさせないように、頸動脈を一瞬で切る。
その選択肢が浮かぶと同時に朔太郎は脇差を抜き、伊織の首元を狙う。
「きゃっ」
その刃は首をかすり、伊織ではなく空を切った。避けられた?! と驚きを感じながらも朔太郎は再び伊織の首元を狙う。
「ひょっ」
だがその攻撃は再びかわされた。朔太郎の額に冷や汗が浮かぶ。
「わっ、ととと……。屋根裏を歩くのは初めてゆえ、勝手が分からず」
朔太郎の一刀をかわした伊織は少しだけふらついてる。
「恐ろしく早い剣さばき。お見事ですわ。やはり貴方の目的は父を殺すことなのでしょうか?」
伊織はまっすぐに澄んだ瞳で朔太郎を見た。その瞳を見た朔太郎は、伊織相手に誤魔化すことはできないと悟る。だからと言って伊織に脅しは通じないだろう。となればやはり、伊織にはここで消えてもらうしかない。
朔太郎は一歩間合いを取り、体勢を立て直す。
「その気なら、わたくしも受け応えしなければ」
そう言って伊織は右手に持っていた刀の柄を両手で握り、構えた。"受け"の構え。
呼吸を正し、右足を踏み込む。それに呼応するかのように伊織も動いた。
その瞬間――。
「危ない!」
朔太郎は頭で考えるより先に、足を踏み外して屋根から落ちそうになった伊織の背中に腕をまわして身体を支えていた。
――え?
驚いたような顔で伊織は朔太郎を見上げる。
そして伊織以上に、朔太郎は自身の咄嗟の行動に驚愕した。
「本気で殺しに来たように見えたのに、落ちそうになった私を助けてくれるなんて……。ふふっ、面白い方」
満月の灯りに照らされて微笑む伊織はまるで仙女のようだった。気付けば朔太郎の、伊織に対する戦気が削がれている。
「誰の命令ですか?」
美しく澄んでいて、迷いのない強い意志を持った瞳。その瞳から朔太郎は目を逸らすことができなかった。
「僕は暗殺組織の人間です。明日見家に潜入して明日見喜多二を暗殺しろ、と上から命令されたからここへ来た。それだけです。依頼主が誰なのか、その理由が何かまでは知らされていません」
「まあ、話して頂けて嬉しいです」
――任務は完全に失敗した。
俯く朔太郎とは対照的に、伊織は満月の空を仰いだ。
「その若さで、ここまでの太刀筋。暗殺者として生きてきた貴方の人生は、私が想像する以上に壮絶で過酷なものだったのでしょう……」
「朔太郎、」
伊織は優しく朔太郎の名前を呼んだ。
「わたくしと交渉しませんか?」
「交渉?」
「今日ここで見たことと知ったこと。つまり貴方が父上を暗殺しようとここに来たことを私は誰にも口外しません。だから貴方は何事もなかったよう今まで通り、わたくしの護衛を務めてください。その代わり、次の父上の帰宅時まで、父上とわたくしを殺さないこと」
朔太郎には伊織が何故こんな交渉を持ちかけるのか全く意味が分からなかった。
「それは、伊織さんにとって何の得もないのでは?」
「朔太郎はわたくしの利益のことを心配してくれるのですか? 優しいのね。大丈夫、それだけ時間があれば、事を収めてみせましょう。今宵の満月のように、まあるく、ね?」
夜風に髪を靡かせた伊織は、満面の笑みで朔太郎にそう言った。