第2話 喜多二の帰宅
「朔太郎、どうぞ、一思いに引いてください」
伊織は裏向けた二枚のカードを朔太郎の方へと向ける。
「じゃあ右で」
朔太郎はカードを引き抜き、裏返した。
「あ」
「お嬢様の勝ちですね!」
朔太郎が伊織の護衛人になってから三日が経った。その間ターゲットである明日見喜多二は一度も自宅に帰ってきていない。朔太郎の表向きの業務は、一日中伊織に付いて護衛するという至ってシンプルなものだった。伊織は日中女学校に通っているので、通学時はもちろん、授業が終わるまでは校舎付近で待機して、共に帰宅する。帰宅してからは伊織から少し離れた所で邪魔にならないよう立っていたが、いつの間にか西洋かるた遊びに呼ばれるようになった。
「それにしてもお嬢様、よかったですね。松永さんが加わったことで、かるたも一層手応えがでました」
たつが伊織に微笑む。
「もともと三人でしていたババ抜きではあっさり勝敗がついてしまってましたものね」
ナツが明るく快活に言った。
「朔太郎、もしかして…… わざと負けているのではありませんよね?」
伊織は気掛かりな様子で朔太郎をのぞき込む。
伊織がそう思うのも当然であろう。なぜなら先ほどから五戦して五回とも朔太郎が最下位だからだ。
「いえ。そんなことありませんよ」
「ならいいのですが。遠慮などなさらないでね」
実際にわざと負けているのではない。ルールを知ったのは昨日なので、手加減しようにもできない。朔太郎はこのゲームに全く適正がなかった。
「お嬢様。もうすぐ十七時です」
「あらまあ、もうこんな時間。お稽古をしなくては」
女学校と自宅の往復しかしていない伊織だが、一日のスケジュールはびっしりと詰まっている。
朝五時半に起床し、庭にある家庭菜園を手入れし、勉強の予習をした後に朝餉を食べ、女学校へ通学。学校が終われば自宅に直帰し、少し休憩を置いてから、舞踊や琴の稽古。その後夕飯を食し、明日の用意をして二十二時に就寝。一日の決められたルーティンがない朔太郎からすれば、息が詰まりそうな生活だが、伊織は自然にそれをこなしている。
「お嬢様、失礼します」
そう言って、女中頭のフキ子が居間へと入ってきた。
「先ほど旦那様からお電話があり、仕事がひと段落したので今晩こちらに戻る、とのことです」
「まあ、お父様とお会いするのは一ヶ月ぶりかしら」
朔太郎にとっては好機だ。近衛師団幹部である明日見喜多二はあまり自宅に帰ってこないと聞いていたが、潜入して三日目に接触するチャンスが来るとは。
「お夕飯には頼綱様と西園寺さんも同席されるそうです」
「兄上と西園寺様まで。にぎやかな夕食会になりそう」
「ではお嬢様。腕によりをかけて晩御飯の支度をしてまいります。たつ、ナツ、一緒に着て頂戴」
「わたくしも共に支度いたします」
「いいえ、お嬢様は座っていてください」
「でも夕飯まで時間もないことですし人手は多い方が……」
伊織とフキ子が押し問答をしていると、すっとドアが開いた。
「相変わらず賑やかだな」
「お父様!」
「旦那様!」
「びっくりさせようと思って早く帰ってきたよ」
「あらお父様ったら人が悪い」
目の前に現れた軍服を着た中年男性。姿勢の良さ、気品ある佇まい。この男性がターゲットの明日見喜多二で間違いないだろう。
「おや、君が例の護衛人かな。思っていたより若そうだ」
喜多二は朔太郎を一瞥した。
「はい。松永朔太郎と申します」
「そうだ、お父様。なぜわたくしに護衛を? 善良な市民として平和な日々を送っておりますのに」
「最近帝都で、通学途中に貴族の娘が襲われた事件があっただろう。私の一人娘にも何かあってはと心配でな。それに、お前の通う女学校付近でも不審者の目撃情報があるそうじゃないか。お前も怖がっていると頼綱から聞いたんだ」
「兄上が?」
「意外か? あいつなりにお前のことを心配しているんだよ。お前は気丈に振舞うところがあるからな。じゃあ私は夕食まで自分の部屋で休むとするよ」
喜多二は居間を後にし、階段をあがって行った。住居とは思えないほど広いこの館は三階建てである。一階は中央に広い居間、通路、和室が二部屋、台所、厠、三階まで続く吹抜けの階段、二階には住込み女中達の寝室がいくつかある。(朔太郎も二階の一部屋を寝室として使わせてもらっている。)そして三階には明日見家の人間の寝室や書斎がある。潜入してからの三日間で確認したが、喜多二の寝室は階段を登って左側の最奥のようだ。
(今夜皆が寝静まった後、折を見計らって任務を早々に遂げさせてもらう)
朔太郎は、今日で任務を終わらせることを決めた。