プロローグ
ひとりでも多くの方に読んでいただけますように…
丑の刻を回った頃。
草履を履き脇差を帯刀した松永朔太郎は、二階の西側にある寝室の窓から物音を立てないように屋根に登った。
夜空には大きな満月が青白く輝いている。
朔太郎が居るのは、明日見家の屋敷の屋根の上。
朔太郎はターゲットである明日見喜多二を為とめるべく、三日前に喜多二の一人娘である伊織の護衛人として明日見家へ潜入することに成功した。
そう、朔太郎は暗殺組織に所属する暗殺者なのである。
喜多二の寝室は三階の南側最奥。屋根から窓を開けて侵入し、寝首をかいたら任務は終了だ。喜多二が自宅に帰ってくるのは不定期だと聞いていたため、もう少し時間がかかるかと思ったが、案外あっさり終わりそうだ。
朔太郎がちょうど喜多二の寝室の真上に差し掛かった頃だった。
「朔太郎、何をしているの?」
背後からの声にはっとして振り返ると、そこには明日見家の一人娘・伊織が立っていた。朔太郎は驚きのあまり絶句し、数秒間その場に立ち尽くす。
伊織か何故この場にいるのか皆目見当がつかないが、いずれにせよ暗殺(未遂だが)の現場を目撃されたことには変わらない。
「実はわたくし、幼い頃から剣術を嗜んでおりまして、皆が寝静まった頃合を見て庭の蔵で稽古をしていたのです。稽古を終えて蔵を出たら……ほら、今日は綺麗な満月の夜でしょう? 屋根の上に朔太郎が見えたので登ってきたのです」
(登ってきた? 三階建ての屋根に? しかもこの僅かな時間で僕に気配を気取られずにここまでやって来たのか……)
腕が立つ朔太郎は、今まで任務を失敗したことがない。もちろん、その現場を第三者に目撃されたこともなかった。
ターゲットが雇った用心棒や同業者に感づかれるならまだしも、目の前の可憐なお嬢様に気付かれて任務を阻まれようとは、ゆめにも思わなかった。
――どうする?
予期せぬ事態に動揺を隠せない朔太郎は、額に汗をかきながら後退った。
――――――
時は四日前に遡る。
大正二年、師走上旬。
朔太郎は行きつけの甘味処「甘味茶屋 ミツハシ」を訪れていた。朔太郎は無類の甘い物好きで、特に任務の後は無性に甘い物が食べたくなる。今日も例のごとく甘味処に立ち寄っていた。
注文した甘味を目の前にして、朔太郎は息を呑んだ。
琥珀色に煌めく蜜が贅沢にかけられたみたらし団子。
ふっくらときめ細かな白生地に餡子が巻かれた大福。
艶やかで丁寧に四角く整えられた羊羹。
どれから食べても至福。悩むのはどれを最期に食べるか、だ。好物を最後に残しておきたい派の朔太郎にとって、それは重要事項である。
朔太郎はとりあえず一番食べやすいみたらし団子を一粒ずつ食べた。あまりの美味しさに自然と笑みがこぼれる。次は大福を手掴みで、大胆に一口で食す。これまた美味しくて、自然に笑みがこぼれる。
小休止として、温かい茶を二口飲んだら、一瞬で胃が温まっていくのが伝わった。
その瞬間、視線を感じた朔太郎はその方を見る。
向かいの席に座っていた客の女学生と目が合った。女学生はふふっと笑って会釈をしたので、朔太郎も会釈を返した。
「おい」
背後から野太いで声をかけられる。朔太郎が先ほど感じた視線は一つではなかった。向かいの席に座る女学生と、茶屋に入る前から後ろをつけてきていた男の二つの視線だ。
「なんでしょう?」
男から返事はない。だが朔太郎は男の用件におおよそ目途がついていた。
「仇討ちですか?」
「わかってんじゃねぇか」
「ここで揉め事を起こしたくないので場所を変えましょう」
「いいだろう。ついてこい」
朔太郎は勘定を置いて立ち上がった。
名残惜しそうに視線を下へと落とす。そこには黒々とした羊羹が艶やかに煌めいていた。
(羊羹、残ってたんだけどな……)
男について歩いていくと、少し離れた所にある人気のない竹藪の中で男は立ち止まった。それが合図だったようで、木の影からガサガサと屈強な体躯の男たちが五人、姿を現した。全員物々しい武器を手にしている。
「やっちまえ!」
仲間の待ち伏せは想定内。
朔太郎は一気にこちらに突っ込んでくる男たちを軽々とかわす。
「チッ、てめえ!」
野太い声と共に拳を降りあげる男の首を狙い、朔太郎は忍ばせていた脇差を抜いた。刃で頸動脈を突き刺して抉ると、血しぶきが宙に舞う。巨躯が地面に倒れ、鈍い振動が地に響く。
「ひっ、こいつやべぇ」
朔太郎にかかれば、一人一太刀浴びせれば十分である。そのまま残り五人の急所を切りつけ、男たちは地面へと倒れ込む。
この男たちが一体何者なのか分からない。だが、どこかで恨みを買われることは想像に難くない。
「こんなところにいたか。"申"」
「ゲンゾウさん」
初老の男が木の影から現れた。
木の葉が囁くかの如く静かな気配と足運びに、朔太郎はたじろぐ。気づけば半径五メートルに入っているのだから、侮れない。
「相変わらず鮮やかな身のこなしだったな」
「ありがとうございます。ゲンゾウさんも相変わらずここまで気配が読めませんでした。“鵺”の仕事ですか?」
「ああ。次の任務を頼みたくてな」
朔太郎は暗殺組織“鵺”の一員であり、ゲンゾウもその一員だ。暗殺術を朔太郎に教えたのも外ならぬこの温和そうで小柄なおじいさんである。
「近衛師団中尉の明日見喜多二。そいつの暗殺を頼みたい」
「明日見喜多二……。今から近衛師団本部に行って殺してくればいいですか?」
「待て待て。いくらお前でも一人で大日本帝国陸軍近衛師団司令部庁舎に乗り込んでみろ。無傷で済まないどころか、目論見自体が露と消えるだろう。狙うなら職場以外だ。そこでお前には明日見の一人娘の護衛人として明日見家に潜入し、機を見て暗殺を実行してほしい」
「ちょっと面倒くさそうですね」
「まあそう言うな。段取りはつけてある」
気が乗らないが仕方ない。朔太郎は深く考えないようにしている。今回も淡々と任務をこなすだけだ。
朔太郎の脳裏には後悔の念と共に食べ損ねた羊羹がうっすらと焼き付いていた。
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