越後やさしい捜査日誌 ― 泥だらけの長靴と、小さな約束
新潟市郊外。
田んぼに張られた水が、午後の光をやわらかく跳ね返している。
風はゆるく、どこか眠くなるような時間。
本間菜帆は、いつものように畦道を歩いていた。
長靴のまま、土の様子を見て、水の流れを確かめて、
一人でぽつりと呟く。
「んー、今日は水の入り、いいですねえ」
その声は、誰に聞かせるでもない。
ただ、土地と会話するみたいな調子だ。
そのときだった。
「……ぐすっ……」
小さな泣き声。
菜帆は立ち止まる。
耳を澄ませる。
もう一度。
「……ひっく……」
間違いない。
菜帆はゆっくり声の方へ歩く。
田んぼの脇、草の影に、
小さな女の子がしゃがみ込んでいた。
片方の足は裸足。
もう片方にはピンクの長靴。
「どうしたんですか」
菜帆は、すぐにしゃがみ込む。
目線を合わせる。
女の子は驚いたように顔を上げるが、
すぐにまた下を向く。
「……ながぐつ、ないの……」
震える声。
「そっかあ……それは困りましたねえ」
菜帆は、やわらかく笑う。
責めない。
急かさない。
ただ、隣に座る。
「大丈夫ですよ」
その一言で、女の子の肩の力が少し抜ける。
「どこらへんでなくしました?」
女の子は指さす。
田んぼの中だ。
泥に足を取られながら遊んでいて、
そのまま抜けてしまったらしい。
「じゃあ、一緒に探しましょっか」
菜帆は立ち上がる。
迷いなく田んぼに入る。
水が揺れる。
泥が沈む。
「ちょっと冷たいですねえ」
笑いながら、手で探る。
女の子も、少しだけ近づいてくる。
さっきまでの泣き顔が、少しだけ和らいでいる。
「ここらへんですかねえ……」
ゆっくり、丁寧に探す。
焦らない。
やがて、
「……あ、これかな」
泥の中から、ピンクの長靴が顔を出す。
「ありましたよ」
菜帆が差し出す。
女の子の目がぱっと明るくなる。
「……あった」
小さな声。
「よかったですねえ」
菜帆も一緒に笑う。
だが、ふと気づく。
「おうち、分かります?」
女の子は、少し迷ってから首を横に振る。
遊びに夢中で、どこから来たか分からなくなっていた。
迷子だ。
菜帆は、慌てない。
「大丈夫ですよ」
もう一度、同じ言葉を言う。
今度は、少しだけ優しく。
「一緒に帰りましょっか」
そっと手を差し出す。
女の子は少し躊躇してから、その手を握る。
小さな手。
泥がついていても、気にしない。
「お名前、なんていうんですか?」
「……ゆい」
「ゆいちゃん、ですね。いい名前です」
ゆっくり歩く。
子供のペースに合わせて。
途中で転びそうになれば、自然に支える。
「田んぼ、楽しかったですか?」
ゆいは少しだけ笑う。
「……たのしかった」
「それはよかったです」
その笑顔を見て、菜帆も安心する。
やがて、近くの農家に声をかける。
「すみません、この子、知ってる人いませんか」
何気ない調子で。
「お、ゆいちゃんじゃねえか」
一人の農家が声を上げる。
「向こうの集落の子だて」
場所が分かる。
菜帆はゆいの手を握り直す。
「じゃあ、もうちょっとだけ歩きましょっか」
やがて家に着く。
母親が飛び出してくる。
「ゆい!」
抱きしめる。
怒る前に、安心が勝っている。
「すみません、本当に……」
菜帆は軽く手を振る。
「いえいえ、大丈夫ですよ」
少し笑って、
「戦隊ヒロインですから」
いつもの一言。
そのあと、ゆいの方を見る。
しゃがんで、目線を合わせる。
「ゆいちゃん」
「今度、この近くでイベントステージやるんです」
ゆいがきょとんとする。
「歌ったり、踊ったりするので」
「よかったら、観に来てくださいね」
やさしく、ゆっくり言う。
ゆいは大きく頷く。
「……いく」
「ほんとですか。じゃあ約束ですね」
指切りするみたいに、小さく指を合わせる。
帰り道。
菜帆はまた一人、畦道を歩く。
泥のついた長靴のまま。
特別なことは何もしていない。
長靴を探して、
手をつないで、
家まで送っただけ。
でもそれで、
一人の女の子は泣き止んで、
一つの家に笑顔が戻った。
それでいい。
「まあ、こういうのも、いいですねえ」
ぽつりと呟く。
風が吹く。
田んぼが揺れる。
その中で菜帆は、
またいつものように歩いていく。
誰にも気づかれないまま、
誰かの一日を、やさしく支えながら。




