オレンヂか、オレンジか。それが問題だ。〜三十路前アイドル、しゃもじの海へ〜
新橋のヒロ室会議室。
空気はやたらと整っている。
壁には全国地図。机の上には資料。コーヒーはぬるい。
待っているのは三人。
遥室長。穏やかな駿河弁の理性。
ブラックキャププロダクション社長・野村吉彦、通称ノムさん。暴走機関車。
そして広島支部長・江波のどか。ツッコミ担当。
ドアが開く。
「失礼します」
入ってきたのは、松山ベテラン地下アイドル、越智美晴――みーちゃん。
すでに愛媛県当局から話は通っている。面談は形式。今日はほぼ「ようこそ」の会である。
ノムさんが立ち上がる。
「みーちゃん! いやぁ嬉しいのぉ! 一緒に安芸高田でやった仲じゃろ!」
上機嫌である。ヒロヒロを県外に拡大したい野望を抱く男にとって、松山で少しは知名度のあるみーちゃんの加入はありがたい。
「ヒロヒロは世界に羽ばたくけぇの!」
のどかが横から冷静に言う。
「まずは四国じゃ」
遥室長は静かに微笑む。
「広島中心で活動する形になりますが、よろしいですか」
「ヒロヒロ所属……ですか?」
みーちゃんが首をかしげる。
ヒロヒロは正式には存在しない。組織図にもない。だが誰もがそう呼び、遥室長も半ば公認している謎の勢力である。
「便宜上、ヒロヒロでええんじゃ」
のどかが即答する。
こうして、みーちゃんはヒロヒロを中心に活動することが決まった。
――ここで改めて、みーちゃんの紹介である。
愛媛県松山市出身。
年齢は秘密。公式には「永遠の二十代」。実際は二十九歳。言わなければバレないと思っている。
松山を中心に活動してきたご当地地下アイドル「オレンヂ☆ステップ」の元センター。十数年活躍したベテランだ。
「オレンヂ☆ステップ」はメンバーを入れ替えながら二十年続く老舗グループ。新潟の某ご当地アイドルを彷彿とさせる持久力である。
ここで重要なのは名前だ。
「オレンジ☆ステップ」ではない。
「オレンヂ☆ステップ」である。
ジではない。ヂである。
イベントのパンフレットや看板がうっかり「オレンジ」と表記されようものなら、古参ヲタがざわめく。
「ヂやろ!」
「ジはにわか!」
「踏み絵や!」
ジとヂの違いが新規ファンの通過儀礼。正しく書けなければライブ会場の隅で正座である。
ヒロ室の資料にも「オレンジ」と印字されていたが、みーちゃんは無言で赤ペン修正した。
「ヂです」
それだけは譲れない。
小柄で小顔の童顔。フリフリ衣装が似合う、教科書通りのアイドルステレオタイプ。
だが寄る年波には勝てない。
目尻の小じわ。ほうれい線。
肌の荒れはファンデーションで隠す。照明は味方。
確かに可愛い。二十九歳には見えない。だが本人は数年前から感じていた。
(可愛いだけじゃ、もう限界や)
それでもキャラは変えられなかった。
十年前から同じ芸風。妹キャラ。
加入当初は最年少、小柄、童顔で爆発的に人気だった。
だが三十路手前で「みんなの妹」はさすがに厳しい。
ファンも正直飽きていた。
イベント会場では心無い野次が飛ぶ。
「いつまでやるの?」
「そろそろ卒業では?」
「妹、何歳やねん」
マンネリ化していた。
だからこそ今回の卒業は、ファンにとっても事務所にとっても朗報だった。
古参ヲタは満足げに言う。
「やっと卒業か。これで真のファンや」
何が真なのかは不明だが、全員が納得していた。
そのみーちゃんが、今ここにいる。
ノムさんは資料を叩く。
「松山の知名度は武器じゃ! しゃもじも柑橘色にするかの!」
「やめんさい」
のどかが即止める。
遥室長は穏やかに言う。
「ご経験を活かして、イベント構成にも関わっていただければ」
みーちゃんは笑った。
「十年以上やっとるけん、場の空気読むのは得意です」
地下アイドルは、酸いも甘いも知っている。
ヒロヒロのバカげたイベントが、実は少し楽しかったことも認める。
「最後にもう一花、咲かせましょか」
三十路前、再出発。
妹キャラは卒業。
今度はベテラン地下アイドルヒロイン。
しゃもじを振るのか、柑橘を投げるのかは未定だが、少なくとも舞台は広がった。
ノムさんが両手を広げる。
「ヒロヒロは世界に羽ばたくぞ〜!」
のどかがため息。
「まずは松山じゃろ」
みーちゃんは心の中でつぶやく。
(オレンヂはヂ。ヒロヒロは公認非公認。人生、わりとカオスやな)
こうして、松山のベテラン地下アイドルは、瀬戸内海を越えてしゃもじの海へ漕ぎ出した。
世界か四国か。
それはまだ誰も知らない。
だが一つだけ確かなのは、
ジとヂの戦いは、これからも続くということである。




