接客は戦場で覚えました――紗耶、静かに場を制圧する
ヒロ室は、その日も微妙な緊張感に包まれていた。
原因はもちろん、ビーチ隼人補佐官である。
「……あの、蛯沢さん、今日のスケジュールですが」
隼人補佐官は慎重に言葉を選びながら話しかける。
名前を間違えれば千円。
呼び方を誤れば笑い者。
ここはもはや官僚の職場ではない。地雷原だ。
それを、少し離れた場所で美月と小春が腕を組んで観察している。
「今の呼び方、70点やな」
「“さん”付けは逃げだよね~」
みのりは黙って頷き、麗奈はニヤニヤしている。
詩織と陽菜は相変わらず何が起きているのか半分も理解していない。
そんな中で、
当の蛯沢紗耶は――
「補佐官」
と、あっさり声をかけた。
その瞬間、空気が変わった。
「はい?」
隼人補佐官は反射的に背筋を伸ばす。
「今日の確認事項、三点で合ってます。
それと、さっきの言い回しで大丈夫です」
静かで、落ち着いていて、無駄がない。
まるで修羅場慣れしたベテラン店長の声だった。
美月が目を瞬かせる。
「……なんか今、空気変わらんかった?」
「変わりましたね」
みのりが即答する。
小春は小声で言った。
「紗耶さん、強い……」
隼人補佐官は一瞬、言葉を失った。
いつもの“守る・守られる”構図が、完全に崩れている。
「……あの」
彼が恐る恐る口を開く。
「ご不快でしたら、今後は距離感を――」
「いえ」
紗耶は即座に遮った。
「補佐官、気を遣いすぎです」
そして、にこっと微笑む。
「私は大丈夫です。
仕事は仕事、ですから」
この一言で、
場に漂っていた“妙な含み”が、音を立てて崩れた。
麗奈が思わず拍手する。
「うわ、大人~!」
「線、引いたな」
美月が感心したように言う。
「しかも嫌味ゼロや」
若いヒロインたちがざわつく。
「こういう言い方できるんだ……」
「なんか安心する……」
遥室長は少し離れた位置から、その様子を見ていた。
穏やかな表情のまま、しかし目は真剣だ。
(……なるほど)
これまで“苦労人”“守られる側”というイメージで見ていた紗耶が、
今は場を整える側に回っている。
「国分町と堀之内で鍛えた接客力、か」
小さく呟き、思わず苦笑する。
隼人補佐官は、完全に子ども扱いだった。
「補佐官は、真面目で優秀です」
紗耶は続ける。
「でも、全部背負おうとしなくていいです。
ここ、チームですから」
その瞬間、
ヒロ室の空気が一段階、柔らいだ。
「……はい」
隼人補佐官は、素直に頷いた。
誰も冷やかさない。
誰も罰金を数えない。
“ビーチ”というあだ名すら、今は聞こえない。
詩織がぽつりと呟く。
「紗耶さん、かっこいいですね」
陽菜が元気よく頷く。
「うん!なんか安心する!」
遥室長は静かに息を吐いた。
(見直した、どころじゃないわね)
その日のヒロ室は、
久しぶりに穏やかな笑いに包まれた。
蛯沢紗耶は、
過去を語らず、
媚びず、
一線をきっちり引いた。
それだけで、
場は自然と和んだ。
――そしてビーチ隼人補佐官は、
初めて「守られない安心」を知ったのだった。




