守るつもりはなかったのに――紗耶、無意識ディフェンス発動
ヒロ室は今日も平和だった。
少なくとも表向きは。
実際には、
ビーチ隼人補佐官 vs 一部人気ヒロイン陣営
という、世界で一番生産性のない冷戦が静かに続いていた。
発端は単純だ。
隼人補佐官が、うっかり蛯沢紗耶を「さゆりさん」と呼びかけそうになったこと。
それを遥室長が見逃さなかった結果、「言ったら罰金千円」というルールが、口コミという名の恐怖政治で瞬く間に広がった。
以来、隼人補佐官は紗耶に話しかけるたび、名前を完全に見失っている。
「……蛯沢さん」
「……紗耶さん」
「……えっと、蛯沢……さん?」
そのたび、美月が腕を組んでニヤニヤする。
「今の、危なかったなあ?」
「セーフ判定ですね」
みのりが冷静に頷く。
隼人補佐官は無言で背筋を正す。
もはや戦場に立つ兵士の顔だった。
そんな空気を、麗奈が笑いながら崩しに来る。
「ねえねえ、美月もみのりんもさ~
もうビーチ補佐官からかうのやめなよ~」
「何言うてんねん」
美月は即答した。
「ビーチ補佐官が“さゆりさん”言うたびに、
ヒロ室のおやつ豪華になるんやで?」
「……あっ」
麗奈は一瞬考え、すぐに納得した。
「そうだよね~」
あまりに軽い掌返しだった。
そこへ、詩織が首を傾げながら割り込む。
「……あの、質問してもいいですか?」
「なんや?」
「どうして隼人補佐官は“ビーチさん”と呼ばれているのでしょうか?
それと……紗耶さんは、さゆりさんではないですよね?」
空気が一瞬で凍る。
美月は詩織の肩に手を置き、にっこり笑った。
「しおりんはな」
「はい?」
「知らんでええねん」
詩織はますます混乱した顔で黙った。
そのやり取りを、隼人補佐官は少し離れた場所で聞いていた。
書類を整理しながら、心の中でため息をつく。
(俺、何もしてないのに……)
その時だった。
「……あの」
控えめな声が、空気を割った。
蛯沢紗耶だった。
全員の視線が集まる。
「皆さん……」
紗耶は少し困ったように笑いながら続ける。
「隼人補佐官、そんなに悪いことしてないと思います」
一瞬、全員が固まった。
「えっ?」
美月が間の抜けた声を出す。
「その……」
紗耶は慌てて言葉を探す。
「特別扱いされてるつもりもないですし……
差し入れも……たまたまだと思いますし……
あんまり責められると、ちょっと……」
言い切る前に、麗奈が吹き出した。
「ちょっと待って、これ……
完全に無意識ディフェンスじゃない?」
「やな」
美月がニヤリと笑う。
「紗耶さん、あんた優しすぎるわ」
「えっ、えっ?」
紗耶は一気に赤くなる。
「いえ、私は別に……庇ってるとかじゃなくて……」
「庇ってますね」
みのりが淡々と断じた。
隼人補佐官は、その光景を呆然と見ていた。
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
思わず口を開く。
「……ありがとう、蛯沢さん」
その瞬間、
美月とみのりの目が鋭く光った。
「今、“ありがとう”言うたな?」
「名前は言ってませんが、気が緩んでいますね」
「……チッ」
隼人補佐官は即座に口を閉じた。
結局その日、
「さゆり」という禁断の名前は出なかった。
ヒロ室のおやつは豪華にならず、
冷戦は終わらなかった。
だが一つだけ変わったことがある。
ビーチ隼人補佐官は、
この戦争に優しすぎる第三勢力が参戦したことを、
はっきりと理解していた。
そして紗耶は、
自分が無意識に火に油を注いだことを、
まだ知らない。




