言うなと言われるほど、口が勝手に動く――ビーチ隼人・名前縛り地獄絵図
ヒロ室に奇妙な空気が流れ始めたのは、掲示板でも会議でもなく、お昼休みの雑談からだった。
発端は、遥室長の何気ない一言である。
「そうそう……これ、まだ正式な通達じゃないんだけどね」
穏やかな駿河弁、やわらかい笑顔。
だがその場にいた真帆、琴音、みのりは、全員が“これは来る”と察知した。
「藤堂補佐官が、もし今後……蛯沢さんのことを“さゆり”って呼んだら」
一拍。
「一回につき千円、フロントに入れるってことで」
「え?」
「はい?」
「……千円?」
遥室長は首を傾げて付け足す。
「口コミでいいから、広めといてくれる?」
それは“お願い”の形をした布告だった。
■口コミ、秒速で拡散する
その五分後。
「聞いた?ビーチ補佐官、名前縛りらしいで」
「“さゆり”って言ったら千円やて」
「え、マジで?罰金制!?」
美月が尾ひれをつける。
「しかも回数制限ナシらしいで」
彩香が煽る。
「累積型?破産するやつやん」
小春はもう計算している。
「一日三回言ったら……」
「言わせる気満々やん!」
隼人はその場で崩れ落ちた。
■第一波:呼び方が崩壊する
午後のミーティング。
資料を配る紗耶が近づいてくる。
「こちら、今日の進行表です」
「ありがとう……ええと……」
隼人の脳内では、警報が鳴り響いていた。
(言うな、言うな、絶対言うな)
「……蛯沢……さん」
「はい」
後方で、真帆が無言で小さな封筒を机に置く。
美月が囁く。
「今のセーフ?」
「ギリやな」
「でも“蛯沢”って呼び慣れてないのが怪しい」
隼人、汗だく。
■第二波:監視が娯楽になる
いつの間にか、監視がイベント化していた。
「今、“紗”って口動いた」
「“ゆ”の準備してたやろ」
「千円準備しとこか」
「お前ら仕事しろ!!」
詩織と陽菜は首を傾げる。
「ねえ……“ビーチ”って何?」
「海?」
「バカンス?」
「説明すんな!!」
美月と彩香が同時に止めた。
■第三波:紗耶、逆に気を遣う
当の紗耶はというと、申し訳なさそうに小声で言った。
「……私、気にしませんから」
その瞬間。
遥室長の笑顔が一段階だけ深くなる。
「うん、紗耶ちゃんは何も悪くないよ」
その“ちゃん”に、隼人の心拍数が跳ね上がる。
(今の呼び方、セーフだよな!?)
■副作用:ヒロ室のおやつが進化する
数日後。
ヒロ室フロントの休憩スペースに、異変が起きた。
・有名パティスリーのプリン
・限定マカロン
・なぜか高級フルーツサンド
「……増えてない?」
隼人の声が震える。
真帆が即答する。
「罰金」
「俺、そんなに言った!?」
「言いかけました」
「言いそうになりました」
「目が“さゆり”って言ってました」
「意味わからん!」
■最終局面:本人登場
ある日の夕方。
隼人が、つい口を滑らせた。
「さ……」
一瞬、世界が止まる。
「さ……」
「さ……や……さん!」
歓声。
「回避!」
「今のはセーフ!」
「惜しかったな!」
隼人は机に突っ伏した。
「俺、何の仕事してるんだっけ……」
その背後で、紗耶が小さく微笑む。
「……大変ですね」
遥室長は紅茶を一口飲み、穏やかに締めた。
「学習って、反復が大事だからね」
こうして今日もまた、
ビーチ隼人の罰金は積み上がり、
ヒロ室のおやつは豪華になり続ける。
そして誰も、
この“名前縛り”がいつ終わるのか知らない。




