名刺一枚で世界が崩れる夜 ――蛯沢紗耶・修羅場編「スーパー銭湯は川崎にある」――
蛯沢紗耶という人生は、もともと暗く始まったわけではなかった。
むしろ逆だ。
父が蒸発する、その日までは。
八戸の中学校では、
明朗快活、声が通り、前に出るのが好き。
行事では率先してマイクを握り、
「目立つの、好きだべ?」と笑うタイプ。
アイドルになりたい、と本気で思ったこともある。
人前で拍手を浴びるのが、心底好きだった。
だが、父が消えた。
水道局勤めで真面目一筋だった父は、
いつの間にか借金を抱え、
ある朝、家から姿を消した。
残ったのは、
借用書と、沈黙。
紗耶は一気に“大人”になった。
それでも成績は良かった。
奨学金を使い、仙台の大学へ進学。
「勉強さえしていれば、なんとかなる」と信じて。
だが現実は容赦がなかった。
学業、生活費、アルバイト。
削れるものは睡眠しかない。
やがて講義に出なくなり、
フェードアウトするように国分町へ。
優しくしてくれる人がいる場所。
「大丈夫?」と言ってくれる人がいる場所。
――ホストだった。
気づけば借金。
気づけば中退。
おまけに、父の借金まで肩代わり。
人生は、坂道どころか崖だった。
その崖の底で出会ったのが、
藤堂隼人補佐官だった。
話を聞いた隼人は、
静かに、しかし真顔で言った。
「……ボクが、何とかします」
紗耶は笑った。
「やめてください。そういうの」
だが隼人は本気だった。
弁護士を紹介し、
債務整理を進め、
ひとつひとつ“過去”を切り分けていく。
「身をきれいにしてから、次を考えましょう」
そして、
なぜか自信満々に続けた。
「キミなら、まだ輝ける。
今からでも、絶対に」
「……えっ? 私が?」
「うん。戦隊ヒロイン、向いてます」
なぜそこで戦隊ヒロインなのか、
紗耶自身も理解できなかった。
だが、
“もう一度表に立てる”
その言葉だけが、胸に刺さった。
――その頃。
東京都港区の自宅で、
遥室長は洗濯物を畳んでいた。
隼人のワイシャツ。
ポケットに、何か入っている。
名刺だった。
オンザビーチ
さゆり
(……あら?)
遥室長の目が、すっと細くなる。
その夜。
「ねぇ、隼人くん」
「はいっ」
「川崎の“オンザビーチ”ってお店、何なのら?」
駿河弁が、柔らかい。
だが、怖い。
「えっと……」
隼人は一瞬考え、
官僚時代でも使ったことのない回答をひねり出した。
「……スーパー銭湯です」
「ふーん?」
「はい。ええ。えっと……健康的な」
「じゃあ、この“さゆりさん”って名刺は?」
「マッサージ師のおばさんです」
一拍。
「川崎のスーパー銭湯、
私も行きたいから連れてって」
「えっ……」
隼人の顔から、
いつもの舌鋒鋭さが消えた。
「その……えっと……」
完全に官僚答弁モード。
「現在、利用実態の精査中でして……」
「へぇ」
遥室長は、にこっと笑った。
「精査、終わったら教えてね?」
その笑顔は、
昼ドラで言えば“次回予告が不穏になるやつ”だった。
隼人は悟った。
――これは修羅場だ。
だが同時に、
紗耶を戦隊ヒロインに導く道は、
もう引き返せないところまで来ていた。
地獄の入口は、
完全に開いていた。




