忘れたはずの名前は、川崎で静かに呼ばれた ――再会編――
時は流れた。
藤堂隼人は、いまや霞ヶ関の書類に埋もれていた頃の自分とはまるで別の場所にいた。
戦隊ヒロインプロジェクト――その司令補佐官として、現場と調整と根回しに追われる毎日。
ヒロイン達は元気すぎるし、スタッフは個性が強すぎる。
会議は長く、イベントは多く、トラブルはなぜか同時多発する。
忙しい。
本当に、どうしようもなく忙しい。
国分町で出会った「さゆり」という源氏名の女性のことなど、
いつの間にか記憶の奥に沈んでいた。
忘れようとしたわけではない。
ただ、思い出す暇がなかっただけだ。
そんなある日。
珍しく何も予定のない夜、隼人は川崎にいた。
知る人ぞ知る歓楽街――堀之内。
「たまには、息抜きも必要だろ」
そう自分に言い訳しながら、彼は静かな路地を歩いた。
選んだのは、外観からして一線を画す高級店だった。
店名は――
「オンザビーチ」。
落ち着いた照明、過剰な装飾のない内装。
この時点で、隼人の官僚的感覚は「当たり」を確信していた。
部屋で待っていると、ノックの音。
「失礼します」
扉が開いた、その瞬間。
隼人の中で、何かが微妙に引っかかった。
手足が長い。
色白で、派手さはないが整った顔立ち。
そして――どこか、寂しげな雰囲気。
(……どこかで)
理屈ではなく、感覚が先に動いた。
女性もまた、一瞬だけ視線を彷徨わせた。
ほんのわずか、時間が止まったような沈黙。
その沈黙を破ったのは、隼人だった。
「……失礼かもしれませんが」
声が、自分でも驚くほど慎重だった。
「国分町の……さゆりさん、ですよね?」
女性は、驚いたように目を見開き、
それから、ふっと視線を落とした。
「……そう」
小さな声だった。
否定もしないし、誤魔化しもしない。
「久しぶり……ですね」
その一言で、すべてが繋がった。
国分町の夜。
牛タンの後にふらりと入った店。
清楚で、どこか寂しげだった「さゆり」。
「……川崎に?」
隼人がそう尋ねると、彼女は小さく笑った。
「いろいろ、あって」
その「いろいろ」の重さを、隼人は聞かなかった。
聞かなくても、なんとなく分かってしまう気がしたからだ。
二人の間に流れる空気は、妙に穏やかだった。
気まずさも、照れもあるはずなのに、不思議と居心地がいい。
「お互い、変わりましたね」
隼人がそう言うと、彼女は首を傾げた。
「そう……かな」
「僕は……仕事が増えました」
「それは、見れば分かります」
その返しに、隼人は思わず笑ってしまった。
「さゆり」は、国分町にいた頃と同じだった。
同じようで、少しだけ違う。
そして、同じように――
“何かを抱えたまま、前に進んでいる”人だった。
(これは……偶然か?)
いや、偶然にしては出来すぎている。
国分町で出会い、
互いに名前も本当の素性も深く知らないまま別れ、
数年後、川崎の堀之内で再会する。
どんなドラマ脚本でも、少しやりすぎだ。
隼人は、心のどこかで思った。
――これは、運命というより
――「まだ終わっていない話」なんじゃないか。
別れ際、彼女は静かに言った。
「……今日は、ありがとうございました」
国分町の時と、同じ言葉。
だが、今度は意味が違って聞こえた。
扉が閉まり、隼人は一人になった。
「……まいったな」
司令補佐官として、冷静であるべき頭が、
久しぶりに、完全に仕事を放棄していた。
この再会が、何を意味するのか。
この先、どこへ向かうのか。
まだ、何も分からない。
だが一つだけ、はっきりしている。
――蛯沢紗耶という女性は、
――まだ、自分の人生から退場していない。
川崎の夜は、静かに更けていった。
次の章が始まることを、何も知らないふりをしながら。




