「ワシャ知らん」が誰よりも詳しい──高岡の奇跡、凱旋帰郷
「高岡の奇跡」。
そんな大層な呼び名が、いつの間にか定着していた。
本人は相変わらず地味で、控えめで、どこか落ち着かない笑顔のままだというのに。
晩夏から初秋にかけて、仕事の合間にぽっかり時間ができた氷見ゆりえは、久しぶりに故郷へ帰ることになった。
東京駅の喧騒を抜け、新幹線に揺られ、見慣れた日本海側の空気に包まれると、胸の奥が少しだけ軽くなる。
高岡の駅に降り立つと、母と姉が迎えに来ていた。
「おかえり」
「ちょっと痩せたんじゃない?」
そう言われて、ゆりえは慌てて首を振る。
「そんなことないよ」
家に帰ると、そこに父がいた。
腕を組み、テレビを見ているようで、画面はついていない。
「……おう」
それだけ。
だが、間髪入れずに続く。
「メシは、ちゃっと食っとるがか?」
「東京で、変なことしとらんやろな?」
相変わらずの素っ気なさに、母と姉は顔を見合わせてニヤリとする。
「大丈夫よ。元気そうじゃない」
「むしろお父さんの方が心配してる」
「ワシャ知らん」
即答。
だが、その夜。
食卓で何気なく姉が言った。
「そういえば、この前の番組、編集よかったね」
すると父が、箸を止めずに言う。
「……衣装が派手すぎる」
一瞬、時が止まった。
母がゆっくり顔を上げる。
「見てるじゃない」
「しかも細かい」
「ワシャ知らん言うとるやろ!」
声が裏返る。
ゆりえは、思わず笑ってしまった。
翌日。
父の漁船に乗せてもらった。
港の潮の匂い、エンジン音。
子どもの頃から変わらない風景。
ふと、船室の壁を見ると――
あった。
貼ってある。
どう見ても、ゆりえのグラビアポスター。
しかも、少し日焼けしている。
「……あの」
ゆりえが指を差すと、父は一瞬だけ視線を泳がせる。
「知らん」
「誰かが貼ったんや」
「漁船に?」
「誰が?」
「……知らん」
母と姉は爆笑。
港にいた漁師仲間もニヤニヤしている。
「船出る前に、必ず拝んどるやないか」
「安全祈願やろ?」
父は耳まで真っ赤だ。
「縁起もんや!」
「それだけや!」
帰郷最終日。
玄関で靴を履くゆりえに、父が背中越しに言った。
「……高岡の奇跡とか、持ち上げられとるらしいが」
「いい気になるな」
ゆりえは振り返る。
「……知ってるんだ?」
父は一瞬、沈黙。
「ワシャ知らん」
「ただ、漁師仲間が言っとった」
だが、どう考えても詳しすぎる。
雑誌名も、時期も、全部合っている。
母が小声で言う。
「誰よりもチェックしてるのよ」
「帰りの新幹線の時間も調べてたし」
「言うな!」
父は声を荒げ、そして小さく付け足す。
「……体だけは、壊すな」
それだけだった。
ゆりえは深く頭を下げた。
「うん」
新幹線が動き出す。
ホームに立つ家族の中で、父は最後まで手を振らなかった。
だが――
帽子のつばを、何度も直していた。
「ワシャ知らん」。
そう言いながら、
誰よりも娘を見て、
誰よりも心配している昭和の頑固オヤジ。
高岡の奇跡は、
そんな不器用で優しい背中を背負って、
また東京へ戻っていった。
次に帰ってくる頃には、
船室のポスターがもう一枚増えているかもしれない。




