雪の下で大笑い――野村ラッパが鳴り止まない日
氷見ゆりえの売り出しプロジェクトは、拍手もファンファーレもなく、静かに始まった。
場所は都内のレッスンスタジオ。
鏡張りの壁、白い床、そして場違いなほど緊張した空気。
真ん中に立つのは、越中富山から出てきたばかりの少女、氷見ゆりえ。
小柄で童顔、清楚な黒髪。
その体躯に不釣り合いな胸元だけが、やけに目立っている。
「じゃあ、まず歩いてみましょう」
講師の一言で、ゆりえは一歩踏み出した。
……おかしい。
歩幅が安定しない。
視線は泳ぎ、腕の振りは迷子。
モデルウォークどころか、体育館の避難訓練のようだった。
講師が一瞬、言葉を失う。
「……もう一回、お願いします」
二回目。
三回目。
結果は変わらない。
次はポージング。
カメラを向けられた瞬間、体が固まり、表情が消える。
「はい、止まって」
止まった姿勢は、なぜか前屈み。
自信はどこにも見当たらない。
演技、発声、表情筋。
試せば試すほど、泥沼だった。
ついに講師の一人が、ため息をつく。
「正直……どこから直せばいいのか……」
空気が凍る。
ゆりえは深く頭を下げた。
「……すみません……」
真面目な性格ゆえ、自分が“期待外れ”であることを理解するのも早かった。
胸の奥が、じわじわと痛み始める。
――やっぱり、私なんかが。
――どうして、私だったんだろう。
心が折れかけた、その瞬間。
「ガハハハハハ!」
場にそぐわない豪快な笑い声が響いた。
振り返ると、ノムさんがいた。
腕を組み、腹を抱え、大笑いしている。
「いやあ、最高やな!」
講師もスタッフも、唖然。
「……何がですか?」
ノムさんは、ゆりえを指さして言った。
「それってなぁ、伸びしろしかないってことやろ!」
一同、静止。
「今この時点で完成しとったら、つまらん。
何もできん? ええやないか。
ゼロやから、全部足せるんや」
ノムさんは、急に真顔になり、語り出す。
「ええか、お前ら。
ゆりえはなぁ、今は雪の下のチューリップみたいなもんだ」
スタッフの誰かが、小声でつぶやく。
「……また始まった」
だがノムさんは止まらない。
「冬の間は誰も見向きせん。
地味や、目立たん、華がない言われる。
でもな、春が来たら一気に咲き乱れる」
講師が恐る恐る聞く。
「……本当に、そう思われますか?」
「思うも何も、そうや」
即答だった。
「世間が“あれ?”って気づく頃には、もう満開や。
追いついたと思った時には、時代が遅れとる」
スタッフたちは内心で肩をすくめる。
「野村ラッパが吹き荒れると、ロクなことが起きない」
「また大風呂敷だ」
冷ややかな視線。
期待ゼロに近い空気。
だがノムさんは、そんなことは気にも留めない。
「焦らんでええ。
雪は勝手に溶ける。
花は、その時に咲く」
そう言って、ゆりえの肩を軽く叩いた。
ゆりえは、顔を上げた。
誰も信じていなくても、
一人だけ、自分を信じ切っている大人がいる。
その事実が、心の奥で、静かに力をくれた。
スタジオを出る頃、東京の空は薄暗く、まだ冷たい。
それでも、ゆりえは少しだけ背筋を伸ばして歩いていた。
雪の下で、まだ見えない花が、確かに息をしている。
そして今日も――
野村ラッパは、止まる気配もなく鳴り響いていた。
「なぁ、見とけよ。
春は、すぐそこや」




