雪解け線路、春行き。――越中から東京へ、氷見ゆりえの出発
三月。
越中富山の春は、いつも一拍遅れてやって来る。屋根の影にはまだ雪が残り、潮の匂いを含んだ冷たい風が、港町の朝をきりりと引き締めていた。
氷見ゆりえは、新高岡駅のホームに立っていた。
薄手のコートの内側で、胸の鼓動がやけに大きく聞こえる。これから先のことを考えようとすると、期待と不安が同時に押し寄せてきて、頭の中が忙しくなる。それでも、足元は不思議と落ち着いていた。
「ほんとに行くんだなぁ」
声をかけてきたのは、同級生の友人たちだった。
卒業式からまだ数日。制服姿の名残を引きずるように、皆で集まって見送りに来てくれたのだ。
「行ってこいよー!」
「東京でも、ゆりえはゆりえだからな!」
「困ったら、いつでも帰ってこい!」
笑顔で手を振る声の中に、少しだけ滲む寂しさ。
ゆりえはそれを見て、胸の奥がきゅっとなった。泣かない、と決めていたのに、目の奥が熱くなる。
「ありがとう。……行ってきます」
短い言葉に、これまでの十八年分の時間が詰まっていた。
少し離れたところで、母がハンカチを目に当てていた。
もう、声をかけるたびに涙が溢れてしまうらしく、何も言えずに首を縦に振るだけだ。中学校教諭の姉は、そんな母の肩を支えながら、落ち着いた声で言った。
「大丈夫。ゆりえなら、ちゃんとやれる」
その言葉は、いつも通り淡々としていたけれど、確かな温度があった。
ゆりえは深くうなずいた。
父は、少し離れた場所で腕を組んだまま、こちらを見ていた。
相変わらずぶっきらぼうで、表情も硬い。だが、目だけはじっと娘を追っている。
「……体、壊すなよ」
それだけ言って、視線を逸らす。
それが、精一杯だったのだと、ゆりえには分かった。
「うん。行ってきます」
その一言で、十分だった。
発車ベルが鳴る。
ゆりえは荷物を持ち直し、新幹線のドアをくぐった。窓際の席に座り、シートに身を沈めると、急に現実味が増してくる。
――本当に、東京へ行くんだ。
新高岡駅がゆっくりと後ろへ流れていく。
見慣れた景色。雪解けの田畑。遠くに霞む山並み。港町の風景。
すべてが、少しずつ遠ざかっていく。
胸の奥に、ぽっかりと穴が開いたような気がした。
それでも、その穴の向こう側には、まだ見ぬ世界が待っている。そう思うと、不思議と背筋が伸びた。
ゆりえは、膝の上で手をぎゅっと握りしめる。
怖くないと言えば嘘になる。でも、逃げたいとは思わなかった。
東京。
何が待っているかは分からない。
うまくいく保証もない。
それでも――。
「行ってみなきゃ、始まらないよね」
小さく呟くと、車内のガラスに自分の顔が映った。
少し緊張した表情。だけど、その奥には、確かな決意があった。
列車は速度を上げ、越中の景色をぐんぐんと置き去りにしていく。
春へ向かう一本の線路の上で、氷見ゆりえの新しい物語が、静かに動き出していた。
彼女はまだ、原石のままだ。
磨かれるかどうかは、これからの選択次第。
けれど――
この日、確かに一歩を踏み出した。
雪の国から、春の都へ。
期待と不安を抱いたまま、それでも前を向いて。
新幹線は、東京を目指して走り続けていた。




