晩秋の港で、『もう好きにせえ』と言われた日
越中富山の晩秋は、静かで重い。
朝の港には霧が立ちこめ、日本海の波音だけが低く響いている。
冬を前にしたこの季節は、何かを始めるには少しだけ覚悟が要る。
高岡市内、漁港のすぐそばにある氷見家では、その夜、久しぶりに家族全員が揃っていた。
囲炉裏代わりの古いストーブが鳴り、外では風が戸を叩く。
東京から来る“あの男”――ノムさんの訪問は、もう珍しい出来事ではなくなっていた。
最初は門前払い。
次は無言。
その次は短い会話。
そして、いつの間にか父は、彼を「話を聞く相手」として受け入れ始めていた。
晩秋。
漁が一段落し、港に出る回数も減る頃。
氷見家では、自然と「家族会議」と呼べる空気が生まれた。
母が湯呑を両手で包みながら言う。
「お父さん。
若い時くらい、夢を見てもええがじゃない?」
姉も、教師らしい落ち着いた口調で続ける。
「中学校で毎年たくさんの子を見るけどね。
目立つ子より、地味でも踏ん張れる子の方が、あとで強いこともあるよ」
父は腕を組んだまま、黙っていた。
怒鳴らない。
反論もしない。
だが、簡単に首を縦にも振らない。
その沈黙が、この家では何より重い。
「……ゆりえ」
娘が背筋を伸ばす。
「おまえ、漁協に就職する言うとったがやないか」
「……うん」
それ以上、何も言わなかった。
責めもしない。
理由も聞かない。
父は視線を外し、ストーブの火を見つめたまま、ぽつりと呟く。
「もう……好きにせえ」
氷見家では、それが最大限の許しだった。
反対しない。
だが、全面的に背中を押すわけでもない。
それでも、ゆりえには十分だった。
こうして、高校卒業後の上京が、晩秋の夜に静かに決まった。
しかし――決断のあとに待っていたのは、祝福だけではなかった。
学校では、噂が広がる。
「え? ゆりえが芸能界?」
「地味じゃなかった?」
「なんか裏あるんじゃない?」
「どうせ枕やろ」
誰かが面白半分に投げた言葉は、思った以上に冷たい。
ゆりえは反論しなかった。
ただ、黙って受け止めた。
強いからではない。
逃げないと決めたからだ。
家に帰れば、母は何も聞かずに夕飯を出し、姉はいつも通り「おかえり」と言う。
父は相変わらず口数が少ないが、以前より少しだけ視線が優しくなった。
ある夜、父が酒を一口飲んで、ぽつりと言った。
「……海に出りゃ、理由もなく叩かれることもある。
けどな、船を降りる理由は、自分で決めりゃええ」
励ましでも説教でもない。
日本海で生きてきた男なりの、不器用な餞別だった。
晩秋の空は低く、冷たい風が吹く。
だが、その向こうに冬があり、春があることを、誰もが知っている。
氷見ゆりえは、まだ何者でもない。
けれど、港を離れる覚悟だけは、もう出来ていた。
物語は、静かに東京へ向かって動き出す。




