『なして、あの子なんや』――日本海と芸能界が盃を交わした夜
越中富山の夜は、音が少ない。
高岡市内、漁港近く。
潮の匂いが家々の壁に染みつき、
夜になると、遠くで船のロープがきしむ音だけが聞こえる。
その一角にある、
年季の入った民宿の一室。
畳は少し波打ち、
卓の傷は数えきれない。
そこで、
二人の男が向かい合って座っていた。
一人は、
日本海で生きてきた漁師。
氷見ゆりえの父。
もう一人は、
東京から来た芸能プロダクションの社長、ノムさん。
「……まあ、座れ」
父はそう言って、
乱暴に徳利を卓に置いた。
「これは正式な話やない」
「公に認めたわけでも、
許したわけでも、ねぇ」
ドぎつい富山弁だった。
語尾が荒く、
言葉が短い。
「はい」
ノムさんは落ち着いて頷いた。
「今日は、
父親と、男同士で話ができれば」
「ふん……」
父は鼻を鳴らし、
盃に酒を注ぐ。
酒は、
地元の辛口。
「何度も言うがな」
父は盃を持ったまま言った。
「芸能界なんてもんは、
色モンの世界や」
「うちの娘は、
あんなとこに出す子やない」
「地元で働いて、
真っ当に生きりゃええ」
ノムさんは、口を挟まない。
「……それでも、
あんたは何度も来た」
父は、じっとノムさんを見る。
「普通なら、
二度目で引く」
「はい」
「三度目で、
常識ある人間なら諦める」
「ええ」
「それを……」
父は盃を置いた。
「まだ来る」
「しつこいにも程があるちゃ」
ノムさんは、少し笑った。
「この業界では、
それが普通なんです」
父は舌打ちした。
「……ほんなら、
聞かせてもらう」
ついに、本題だった。
「なして、
うちのゆりえなんや」
「もっと派手な子、
もっと目立つ子、
東京にはなんぼでもおるやろ」
「うちの娘は地味や」
「大人しいし、
前に出る性格やない」
「東京の荒波に放り込んだら、
一発で沈む」
父の声は、
低く、重かった。
「それでも、
なして、ゆりえや」
ノムさんは、
一拍も置かずに答えた。
「――ゆりえさんじゃないと、ダメなんです」
父の目が、鋭くなる。
「理由を言え」
「地味だからです」
「……は?」
父の眉が跳ねた。
ノムさんは、静かに続ける。
「派手な子は、
派手な世界に溶けていきます」
「でも、
ゆりえさんは違う」
「自分を主役だと思っていない」
「だからこそ、
見る人が主役にできる」
父は黙って聞いている。
「芸能界で長く残るのは、
声の大きい人間じゃない」
「静かに、
折れずに立ち続ける人です」
父は、ふっと笑った。
「……口は達者やな」
「日本海は知っとるか」
「静かな日に限って、
底でうねっとる」
ノムさんは頷いた。
「ええ。
だからこそ、強い」
一瞬、
部屋に沈黙が落ちた。
「……もしや」
父が低く言う。
「もし、
あの子が壊れたら」
「その時は、
私が責任を持って返します」
「壊れたまま、
放り出すことはせん」
父は、立ち上がり、
部屋の隅に立てかけてあった
古い日本刀を手に取った。
抜かない。
ただ、持つ。
「芸能界は、
生き馬の目を抜く世界やろ」
「万が一、
あの子に何かあったら」
「……わかっとるな」
ノムさんは、
一切動じなかった。
まっすぐに、父を見る。
「覚悟の上です」
父は、
しばらく刀を見つめ、
そして――そっと戻した。
「……あんた、
厄介な男や」
「よく言われます」
二人は、
もう一度盃を交わした。
この夜、
約束は交わされなかった。
だが、
高岡の漁港から東京へと続く道は、
確かに、静かに開き始めていた。
氷見ゆりえの未来は、
まだ決まっていない。
だが、
“拒絶”ではなく、
“選択”の段階へと移った。
次は、
娘自身の番だ。
物語は、
まだ終わらない。




