人気の自覚ゼロ――“一般人枠”が一番刺さる日
高島里奈は、その日もいつも通りだった。
会場入りは誰よりも早く、音響卓の横でケーブルをまとめ、ガムテープの端をきれいに折る。折り目は四十五度。剥がしやすさ重視。ヒロインである前に、完全に現場の人間である。
「里奈、もうすぐ開場だよ」
遥室長の声に、里奈は小さく頷いた。
「はい。列整理は十時五分からで大丈夫です。あ、ベビーカーの導線、少し広げたほうがいいかと」
「……臨時ヒロインの発言とは思えないね」
その評価を、里奈は深く受け止めない。
なぜなら彼女は、自分が“評価されている”という自覚を一切持っていないからだ。
問題が起きたのは、開場三分後だった。
「すみません、高島里奈さんって、もういらっしゃってますか?」
受付スタッフが、困惑気味にインカムで連絡を入れてくる。
その瞬間、近くにいたヒロインたちの空気が、一斉に変わった。
「……来たわね」
理世が、氷点下の声で呟く。
「また“ピンポイント指名”ら」
美音は遠州弁でため息をついた。
「え? どこ? 里奈ちゃん今日どこに出るん?」
澪は状況が分かっていない。
当の本人は、折り畳み椅子の脚を調整していた。
「高島里奈さん、いらっしゃいますか?」
スタッフが改めて声をかけると、里奈はきょとんと顔を上げた。
「……はい。私ですが」
その瞬間、受付前にいた中年男性が、深々と頭を下げた。
「いつもありがとうございます!」
里奈は完全にフリーズした。
「……え?」
「今日も資料、完璧でした! 前回のイベントの注意事項、全部活かされてて!」
「あ、あの……それは業務ですので……」
「それがもう、ファンサービスです!」
横で見ていた美音が、思わず口を挟む。
「それファンだら!!」
気づけば、里奈の前に小さな列ができていた。
「写真、一緒にいいですか?」
「サインってお願いできます?」
「今日も現場安定してました!」
里奈は完全に混乱していた。
「……えっと、写真は……演者の方が……」
「いえ、里奈さんで」
「サイン……あの、私、名前書くだけですが……」
「それがいいんです!」
理世が、遠くから冷静に分析を始める。
「恐らく、“無害”“安心”“生活感”の三要素が――」
「分析やめるら!!」
美音が遮る。
澪は首を傾げていた。
「ねえ、これって……人気?」
「そうよ」
真帆が淡々と言った。
「しかも一番厄介なタイプの」
ステージが始まる直前、里奈はようやく状況を理解し始めていた。
「……あの、皆さん。私、今日は裏方で……」
「それがいいんだって」
理世が即答する。
「“出しゃばらない”という行為が、最大のアピールになっている」
「意味が分かりません……」
「分からないままでいいら」
美音が肩をすくめた。
「自覚した瞬間、壊れるタイプだで」
イベントは無事に終了した。
観客アンケートの速報が、控室に貼り出される。
【印象に残ったヒロイン】
一位:高島里奈(静かで安心した/現場が落ち着いていた)
それを見た瞬間、里奈は椅子に座り込んだ。
「……私、何かしましたか?」
全員が一斉に答えた。
「何もしてない」
「それが一番怖いのよ」
帰り支度をしながら、里奈はぽつりと呟いた。
「臨時ヒロインなのに……迷惑じゃないでしょうか」
真帆が、少しだけ笑った。
「迷惑なら、ここまで静かに広がらない」
「……そうですか」
里奈はそう言って、いつも通りカーテンを畳んだ。
角を揃え、空気を整えるように。
誰よりも目立たず、
誰よりも記憶に残る――
そんな存在になっていることに、最後まで気づかないまま。
控室の隅で、美音が小さく呟いた。
「……あれが“玄人受け”ってやつら」
理世は無言で頷いた。
そして次のイベントの申込書には、こう書かれていた。
「出演者希望:高島里奈(できれば裏方兼任)」
里奈は、その紙を見て首を傾げる。
「……業務内容、増えてます?」
誰も答えなかった。




