静かに売れた女と、静かに拗ねた女──誰も悪くない昼下がり
その日、ヒロ室のミーティングスペースは、いつになく静かだった。
いや、正確には音はあるが温度がない。
高島里奈は、いつものように資料をホチキスで留めていた。
無表情。
正確。
丁寧。
そして、彼女の机の端には──
完売報告書が一枚、そっと置かれていた。
「……また?」
誰かが呟いた。
里奈は顔を上げ、困ったように小さく首をすくめた。
「すみません……」
その瞬間、空気が一段下がった。
一番先に反応したのは、美音だった。
「ま、ええんじゃない?」
遠州弁特有の、力の抜けた口調。
「人気って、来るときは来るもんだら?」
その声は穏やかで、どこか諦観があった。
不人気歴が長い者にだけ許される、悟りの境地。
「私なんて、売れんのが通常運転だし」
そう言って、カップのお茶をすする。
完全に受け入れている。
むしろ清々しい。
だが、その横で。
理世は、黙っていた。
腕を組み、背筋を伸ばし、視線は斜め下。
まるで思考中のAIのような沈黙。
誰もが分かっていた。
これは――来る。
「……理解は、しています」
理世が口を開いた。
声は冷静。
感情の起伏はない。
「高島さんの人気は、偶発的ではなく、必然です」
「現場安定性、信頼性、安心感。いずれも数値化すれば高評価でしょう」
美音が目を丸くする。
「数字で来たか……」
理世は続ける。
「一方で、私の不人気も、構造的問題ではありません」
「単に、需要と供給のミスマッチです」
誰も反論できない。
だが。
「……しかし」
その一言で、全員が身構えた。
「感情は、理屈では処理できない場合があります」
理世の視線が、ほんの一瞬だけ里奈に向いた。
責めてはいない。
だが、比べてはいる。
「私は、努力してきました」
「数字も、役割も、責任も、すべて背負ってきたつもりです」
淡々とした声。
だからこそ、重い。
里奈は慌てて立ち上がった。
「いえ! 私、何も……!」
「何もしていない、という点も含めてです」
ピシャリ。
空気が、凍った。
だがその直後、美音が割って入った。
「理世さぁ」
ゆるい遠州弁で、しかし核心を突く。
「それ、拗ねとるだけだら?」
一瞬、沈黙。
理世は、わずかに眉を動かした。
「……否定はしません」
正直すぎて、誰も笑うしかなかった。
「拗ねる権利くらい、あると思います」
理世は続ける。
「誰も悪くない状況ほど、人は行き場を失う」
「それが、今です」
論文の結論みたいな拗ね方だった。
美音は肩をすくめる。
「拗ねるなら、もっと分かりやすく拗ねりゃいいじゃん」
「感情表現が得意ではありません」
「知っとる」
即答だった。
里奈は、完全に居場所を失っていた。
「……あの……」
「高島さんは、悪くありません」
理世が先に言った。
「それは、明確に断言します」
「ただ……」
全員が身構える。
「静かな人気は、周囲をざわつかせる」
「それが、問題なのです」
理世の視線が宙を泳いだ。
自分でも整理しきれていない感情。
美音は、ふっと笑った。
「ま、ええじゃん」
「人気って、奪い合うもんじゃないし」
「売れん私が言うのもなんだけどさ」
「売れない側にも、意地ってもんはあるけど」
理世が小さく頷いた。
「……あります」
二人の間に、奇妙な連帯感が生まれた。
その日の結論は、出なかった。
出るはずもなかった。
ただ一つ、全員が理解した。
・里奈は悪くない
・美音は諦めが早すぎる
・理世は拗ねている
・そして、誰も悪くない
里奈は、その夜、日報にこう書いた。
「本日も特記事項なし」
嘘である。
だが、彼女らしい嘘だった。
静かな人気は、
静かに、周囲を揺らし続ける。
次に揺れるのは、
きっと、本人だった。




