休暇明け五分、秘書ヒロインは火を消す ――静かな机上戦争――
宇部での短い休暇を終え、安岡真帆がヒロ室に戻ってきたのは、月曜の朝九時ちょうどだった。
山口の空気を肺いっぱいに吸い、頭も心も整理してきたはずだったが、ヒロ室のドアを開けた瞬間、その静けさは音を立てて崩れた。
「……おはようございます」
挨拶を返す前に、小宮山琴音が青ざめた顔で駆け寄ってくる。
「真帆さん、戻って早々ですみません。ちょっと、これは……」
机に置かれた資料は、イベント構成表とスポンサー要望書。
ぱっと見は、よくある大型自治体イベントだ。しかし真帆は一瞬で“違和感”を拾った。
出演時間が、陽菜だけ異常に長い。
休憩が削られ、医療チェックのタイミングがずらされている。
「……誰が決めました?」
「スポンサー側です。“象徴だから”って」
真帆は何も言わず、自分の席に座った。
カバンを開け、ペンを一本取り出す。その動作はあまりにも落ち着いていて、周囲の緊張感が逆に際立つ。
「まず、陽菜本人には?」
「まだです。今日は別件でリハーサルだけと聞いています」
「それでいいです」
真帆は端末を立ち上げ、淡々と入力を始める。
その背中を見て、ヒロ室スタッフは知っていた。
――この人、怒っている。
怒鳴らない。声も荒げない。
だが、この状態の真帆は一番危ない。
ほどなくして、紗絢と美紀が呼ばれた。
「最近の陽菜の状態で、この構成は可能ですか?」
二人は即答した。
「無理です」
「明確にアウトです」
「ありがとうございます。では“医療判断”として、表に出しましょう」
「スポンサーは?」
「私が処理します」
その言い方があまりに軽いので、美紀が思わず聞き返す。
「……処理、ですか?」
「はい。事務的に」
数分後、真帆はスポンサー企業の窓口に電話を入れた。
声は丁寧で、にこやかですらある。
「確認ですが、出演時間延長の根拠は?」
相手は、いかにも慣れた口調で答える。
「多少無理をしても、“象徴”には出てもらわないと困るんですよ」
真帆はメモを取る手を止めない。
「その発言、公式見解ですか?」
「え? まあ……そうなりますかね」
「承知しました」
電話を切った瞬間、空気が変わった。
真帆は新しいタブを開き、スポンサー企業の過去の政治献金、自治体との契約履歴、過去の不祥事リストを並べていく。
速度は異常だった。
横で見ていた隼人補佐官が、思わずつぶやく。
「……休暇、ちゃんと取ってきました?」
「はい。頭が冴えてます」
「それが一番怖いんですが」
その後の動きは、あまりにも静かだった。
イベント構成は「自治体判断」で即時変更。
スポンサー名は資料から消え、代替企業が差し込まれる。
数日後、その企業の責任者は“別件”で更迭された。
誰も「安岡真帆」の名前を口にしない。
だが、関係者の間では共通認識が生まれていた。
――あの人に触れると、何も起きない代わりに、すべて終わる。
ヒロ室は、何事もなかったかのように通常運転に戻る。
陽菜は元気に帰宅し、本人は何も知らない。
それでいい、と真帆は思う。
デスクに戻り、報告書に一行だけ打ち込む。
「リスク排除、完了」
それを後ろから覗いた波田顧問が、べらんめえ口調でぼやいた。
「ったくよ……休暇明け五分でこれか。血も出ねぇし、煙も立たねぇ。江戸じゃ一番怖ぇやり口だぜ」
真帆は、少しだけ口角を上げた。
だがその目は、すでに次を見ている。
――戦隊ヒロインプロジェクトは、もう“表の仕事”じゃない。
――これは、静かな戦場だ。
そして彼女は知っている。
次に来る圧は、今日よりも露骨で、直接的だ。
それでも、前に立つのは――
このフロント兼ヒロイン、安岡真帆である。




