言えないことを持ち帰る街、宇部 ――秘書ヒロインは今日だけ娘に戻る――
安岡真帆が休暇を取る――その事実だけで、ヒロ室は軽くざわついた。
「体調不良?」「国会解散?」「どこかで事件?」と憶測が飛び交ったが、真帆本人は淡々と「帰省です」とだけ言った。余計な説明はない。彼女はそういう人だ。
東京駅から新幹線、さらに在来線を乗り継いで山口県宇部市へ。列車内でスーツを脱ぎ、ようやく肩の力が抜けた気がした。
駅を出た瞬間、真帆は思わず足を止める。空が広い。音が少ない。人の動きが、驚くほどゆっくりだ。
宇部市は瀬戸内海に面した工業都市で、日本を代表する化学メーカーの巨大な工場群が街の背骨のように並んでいる。昼間は白い煙が空に溶け、夕方になると港が柔らかな橙色に染まる。働く街だが、どこか穏やかで、主張が強すぎない。
「……静かすぎる」
思わず漏れた一言に、運転手が笑った。
実家は代々続く土建屋。玄関を開けた瞬間、母の第一声は容赦なかった。
「その顔、東京で何人分の仕事しよるん?」
「三人分くらいです」
「少なっ」
父は新聞を畳みながら、ぼそりと「秘書いうのは、休みも秘書顔なんか」と言った。真帆は苦笑いする。ここでは役職も肩書きも関係ない。ただの娘だ。
翌日、買い物に出ると案の定、あちこちで声をかけられる。
「真帆ちゃん帰っとったんか!」
「テレビ出とるねぇ」
「次は市議か?」
情報が勝手に未来へ飛躍していく。真帆は笑顔でかわす。
「今日はただの帰省です」
本当のことは、何ひとつ言えない。
夜、幼なじみと居酒屋に入ると、遠慮のない言葉が飛んだ。
「お前、戦隊ヒロインとか言うて、怪しい組織に入っとらん?」
「国が絡んでます」
「余計怪しいわ」
このやり取りだけで、真帆は少し救われた。東京では誰も、こんな雑な心配をしてくれない。
帰省最終日、縁側で父が言った。
「言えんこと、増えたな」
真帆は一瞬、黙ってからうなずいた。
「ええ。守るために黙るなら、それは立派な仕事じゃ」
その一言が、胸の奥に静かに落ちた。
空港へ向かう車の中、母は前を向いたまま言った。
「無理はせんでええけぇ」
「でも逃げるんは違う」
「……分かってます」
「ほんなら大丈夫」
東京に戻った真帆は、またフロントに立つ。重たい秘密も、政治の圧も、すべて胸に抱えたまま。それでも、宇部の空気を吸った分だけ、少し強くなれた気がした。
「秘書ヒロイン、業務に戻ります」
その声は、以前よりわずかに柔らかかった。
言えないことを持ち帰り、言えないまま戻ってきた――それでも彼女は、前に立つ。




