出て行く気か? ばってん出す気はなか ― 産業バス、必死の熊本会議
西里香澄が会社の応接室に呼ばれたのは、
その日三本目の観光案内を終えた直後だった。
「香澄、ちょっと来なっせ」
呼びに来た事務の女性の声が、
いつもより妙に重たい。
応接室の扉を開けた瞬間、香澄は悟った。
――あ、これは“ただ事じゃなか”。
中には営業部長、観光事業課長、
そしてなぜか専務まで座っとる。
三人とも、表情が一様に険しい。
「……座りなっせ」
部長が低い声で言った。
香澄が腰を下ろすと、
専務が腕を組んだまま、ドンと一言。
「で。
戦隊ヒロイン?
なんば言いよっとか、そりゃ」
いきなり直球だった。
「聞いたばい」
「東京の偉か人たちが来て、
“香澄さんを借りたか”とか言いよったろ?」
課長が畳みかける。
「冗談かと思ったばってん、
どうも本気らしかな」
香澄は、背筋を伸ばした。
「……まだ決めとらんです」
「ばってん、話は聞きました」
その瞬間。
「聞くだけで済む話じゃなかろが!!」
営業部長の声が一段上がった。
「香澄、あんた自分の立場、分かっとるとや?」
「今、うちの観光バスがどげん評価されとるか!」
専務が机を軽く叩く。
「“産業バスに乗るなら、
西里香澄のガイドがよか”
そう言われとるとばい!」
「冗談じゃなか」
「実際、あんた目当てで予約が入っとるツアーが何本あると思っとる」
課長の熊本弁は、もう遠慮がなかった。
「若かガイドは育てとる」
「ばってん、あんたの代わりはおらん」
香澄は、思わず苦笑した。
「そんな……大げさですたい」
「大げさじゃなか!!」
三人同時に来た。
「香澄」
専務が少し声を落とす。
「うちは、あんたを“商品”として見とるわけじゃなか」
「ばってん、柱ではある」
「ここまで育てた」
「ここまで一緒にやってきた」
「そいを、東京の訳分からんプロジェクトに
“はい、どうぞ”って渡せると思っとるとね?」
その言葉は、重かった。
香澄はしばらく黙ってから、
静かに口を開いた。
「……熊本、嫌いになったわけじゃなかです」
「知っとる」
部長が即答した。
「熊本が好きやけん、
この仕事が好きやけん、
悩んどるとです」
課長が顔をしかめる。
「なら、なんで出て行く話が出るとや!」
香澄は、まっすぐ前を見た。
「もっと、広い世界も見てみたかです」
一瞬、空気が止まった。
専務が、ふっと息を吐く。
「……欲張りか女ばい」
「はい」
香澄は笑った。
「熊本も好きで、外も見たか」
「どっちも、手放したくなか」
沈黙。
やがて営業部長が、頭をかいた。
「……ほんに、困った女たい」
「こんな事、言われたら、頭ごなしに止めきれん」
課長も小さく舌打ちする。
「ばってん、簡単に行かせる気はなか」
「条件は、山ほど出す」
専務が頷いた。
「会社と話し合え」
「時間も、やる」
「ばってん、忘れな」
「産業バスは、あんたを手放す気はさらさらなか」
香澄は立ち上がり、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「……ちゃんと考えます」
応接室を出たあと、
車庫に並ぶバスを見つめる。
今日も誰かを乗せて走る、
見慣れた産業バス。
「……悩む時間くらい、もらえたたいね」
熊本を離れたいわけじゃない。
ばってん、熊本を背負ったまま、
外に出る道があるかもしれん。
人生は、路線図どおりには走らん。
香澄は、そう思いながら、
静かに歩き出した。




