伝票は語る ― けちのん包囲網と北九州式・経理革命
ヒロ室には、月に一度、
誰もが憂鬱になる恒例行事がある。
――経費精算。
その日、美月は敗北していた。
「……またアカンかった」
机に突っ伏す美月の前に、
そっと置かれたのは一枚のクリアファイル。
“麗奈ちゃんクリアファイル”。
中には、赤ペンでびっしり修正された
美月の経費精算伝票。
差し戻し理由の付箋が、
無慈悲にひらひら揺れている。
「日付不整合」
「用途記載不足」
「摘要が感情的」
「なんでやねん!!
“イベント後に心を落ち着かせるためのたこ焼き”の
どこが感情的やねん!!」
美月がキレ散らかす。
「しかもこのファイルな、
麗奈ちゃんのウィンクが腹立つねん!!」
「だから私じゃないってば!!」
ばっちり巻き込まれた麗奈が叫ぶ。
「これは私をモデルにした
昭和の妖精なの!!
本人関係ないの!!」
だが、美月は聞いちゃいない。
「毎回これに入れて突っ返してきよる…
財務省のスパイやろ、あの人!!」
――谷口佳乃。
通称、経理の妖怪・けちのん。
ヒロ室の金の流れを守る守護神であり、
情け容赦なく伝票を斬る存在。
その惨状を、
少し離れたところから見ていた女がいた。
黒崎茉莉花。
「……あぁ、これね」
伝票を手に取ると、
一瞬で全体を見渡す。
「美月ちゃん、
これ、通らん書き方しとる」
「えっ!?
たこ焼きがアカンの!?」
「たこ焼きはええ。
理由の書き方が情緒的すぎる」
茉莉花はペンを取った。
「ここはな、
“イベント後の関係者打ち合わせ費”って書くんよ」
さらさらと修正。
「日付はレシート基準、
摘要は“誰が見ても業務”や」
美月、目を丸くする。
「……それだけでええん?」
「それだけでええ」
そのまま、茉莉花は
けちのんの席まで行き、
修正済みの伝票を差し出した。
「これで、どう?」
数秒の沈黙。
――スタンプ、ポン。
「……通します」
ヒロ室がざわついた。
「一発で!?」
「奇跡!?」
その日を境に、
黒崎茉莉花は非公式・経理指南役になった。
「領収書はホチキスやなくてクリップ」
「金額より用途を先に書く」
「“応援のため”はNG、“広報対応”はOK」
完全に経理部員の思考回路。
結果。
麗奈ちゃんクリアファイルの
出番が激減。
複数回往復していた伝票が、
一発クリアになる。
けちのんの顔色が、
目に見えて穏やかになる。
「……助かってます」
小さく、そう言った。
これまでギスギスしていた
福永理沙、小宮山琴音とのやり取りも、
妙にスムーズになる。
遥室長はその光景を見て、
ぽつりと駿河弁で言った。
「……こりゃ、驚いたね」
隼人補佐官は腕を組み、満足げに頷く。
「僕の思っていた通りだ」
その頃、美月はというと――
「茉莉花姐さん、
もう一回伝票見てくれへん?」
完全に弟子入りしていた。
こうしてヒロ室は、
金も空気も、少しだけ回り始めた。
締めるところは締める。
でも、人は締め付けない。
それが、
北九州仕込みの女――
黒崎茉莉花の流儀だった。
今日もどこかで、
麗奈ちゃんクリアファイルは、
静かに眠っている。




