湯けむり鬼代官と交通安全オペラ ――有馬温泉・笑って渡る石畳――
有馬温泉の朝は、だいたい静かだ。
湯けむりが立ち、石畳がしっとり濡れ、観光客は浴衣でのんびり歩く――
はずだった。
その日、有馬川沿いの広場には、派手なステージが組まれ、警察音楽隊の椅子が並び、拡声器が唸っていた。
「……ほんまに、ここでやるんですか?」
彩香が浴衣の袖を気にしながら小声で聞く。
「観光地こそ事故が起きやすいんや。気ぃ抜けるからな」
低く、迷いのない声。
演出担当・岡本玲奈だった。
開幕と同時に、
派手な効果音とともに飛び出してきたのは美月。
「有馬温泉やでぇぇ!!」
浴衣の裾をバサバサさせ、
スマホ片手に石畳を全力疾走。
「写真! 写真撮らなあかんやろ!」
「おっとっとっと!」
わざとらしく転び、
車道にはみ出し、
観光客役のスタッフにぶつかり――
会場は即座に大爆笑。
子どもたちは腹を抱え、
年配客は「やりすぎや」と笑い、
玲奈は舞台袖で眉間を押さえた。
「……あれは“悪い例”やなくて、“災害”や」
混乱の中、
静かに歩いてきたのが彩香だった。
「温泉街はな、
ゆっくり歩くんが一番ええんやで」
左右を確認し、
下駄を揃え、
石畳を丁寧に踏みしめる。
さっきまで笑っていた観客が、
なぜか感心してうなずく。
美月は後ろで小声。
「なんであんな落ち着いとるん……」
「同い年やんな……?」
軽快な音楽とともに、
紀伊ハンターの3人が登場。
ロケットのような動きは抑えめ、
代わりにテンポよく寸劇を展開。
「横断歩道では止まって!」
「写真は安全な場所で!」
「譲り合いが温泉街のマナー!」
分かりやすく、テンポ良く、
観光客から拍手が起きる。
美月は完全に出番を奪われ、
「なんか負けた気する……」とぼやく。
最後に、
音楽が止まり、
舞台中央に玲奈が歩み出る。
「温泉はな」
一拍置く。
「命あってこそ楽しめるもんや」
その一言で、
ざわついていた会場が静かになる。
だが次の瞬間――
「……美月」
「な、なんや!」
「もう一回、さっきの走りやったら
有馬坂、全部往復や」
会場、爆笑で拍手喝さいの中、終演。
公演後の控室。
「さっきの転び方、もっと派手でもよかったやろ」
「派手すぎるねん! 浴衣破れるわ!」
美月と彩香が言い争い、
紀伊ハンターの3人がなだめ、
玲奈は腕を組む。
「……あんたらなぁ」
そう言いながらも、
口元は少しだけ緩んでいた。
外では、
湯けむりの向こうで拍手がまだ鳴っている。
有馬温泉は今日も平和だ。
――たぶん、交通安全だけは完璧に。




