その一瞬の笑顔へ――歌姫・詩織と尾張弁の処方箋
新橋のヒロ室ミーティングスペースは、昼下がりの陽に包まれて静かだった。
いつもなら誰かの笑い声や、資料をめくる音が響いているはずの場所に、今日は紙の擦れる音だけがあった。
藤原詩織は、両手で一通の手紙を抱えるように持ち、何度も同じ行を読み返していた。
封筒には、先日慰問活動で訪れた小児週末ケアセンターの名前。
丁寧な文字で綴られた感謝の言葉の、その先に――詩織の心を貫く一文があった。
「あの子は、数日後に静かに旅立ちました。
けれど、詩織さんが歌ってくださったあの瞬間、
ほんの一瞬だけ、確かに笑ってくれました。」
そこまで読んだところで、詩織の視界が滲んだ。
次の瞬間、ぽろり、ぽろりと涙が落ち、やがて堰を切ったように声を上げて泣き出した。
「……私、何もできてない……」
「歌っただけで……助けられなかった……」
肩を震わせながら、自分を責める言葉が止まらない。
あんなに優しく微笑んでくれた子の命は、結局救えなかった。
歌姫と呼ばれても、ヒロインの衣装を着ていても――現実は変えられなかった。
そのとき。
「……あー、これは完全に泣く流れだわ」
少し間の抜けた声とともに、ミーティングスペースの扉が開いた。
入ってきたのは山田真央。
表情はいつも通り淡々としていて、悲しみも怒りも読み取りにくい、器用な愛知県人だ。
「詩織さん、それ……例の手紙?」
詩織は顔を上げられず、ただ小さく頷いた。
真央は椅子を引き、詩織の向かいに腰を下ろす。
しばらく何も言わず、手紙にちらりと目をやると、ぽつりと尾張弁で言った。
「……それさ。
“何もできんかった”って思っとる時点で、もう間違っとるで」
詩織が驚いて顔を上げる。
「だってさぁ」
真央は少し照れくさそうに頭をかきながら続けた。
「助けるとか、治すとか、そりゃ医者の仕事だわ。
でも、最後に“笑えた”って書いてあるじゃん?」
真央は指で手紙のその一文を軽く叩いた。
「それ、めちゃくちゃ大事な仕事だで?」
「生きるのがしんどい時に、笑えるって、相当すごいことだがね」
詩織の涙が、少しずつ止まっていく。
「……でも、私は……」
「うん、無力だと思うよ。私も詩織さんも」
真央はあっさり言った。
「でもさ、無力な人間が“何もしない”のと、“できることだけやる”のは、全然違うでしょ」
一瞬、沈黙。
そして真央は、少しだけ柔らかく笑った。
「詩織さんの歌で笑えたなら、
その子にとっては“いい日”だったんだわ。
最後の日じゃなくて、“いい日”」
詩織の目から、また涙が溢れた。
けれど今度は、声を殺した静かな涙だった。
「……ありがとう……」
「いやいや」
真央は立ち上がりながら肩をすくめる。
「私、喜怒哀楽の“怒哀”ほぼ欠如しとるで、慰め下手だでね」
そう言って、間の抜けた調子で付け足す。
「でもさ、詩織さんが泣くくらいなら、
その子、ちゃんと“届いた”と思うわ」
詩織は手紙を胸に抱きしめ、深く息を吸った。
歌で命は救えない。
けれど、心に灯りを残すことはできる。
その事実を、今日――
尾張弁という不思議な処方箋で、彼女は受け取ったのだった。




