代打の血は舞台で燃える ――本番に強い西川彩香列伝
その日の品川区民会館は、
危うく“事故現場”になるところだった。
未就学児向け大規模イベント。
本来なら、歌姫・藤原詩織が長めの歌唱パートで
会場をやさしく包み込むはずだった。
だが控室で起きた一件――
あまりに生々しい人間関係の衝突は、
詩織の心を完全に折ってしまった。
出演不能。
さらに、
火種を拡大させたベイサイドトリニティの三人も
遥室長の判断で出演見合わせ。
残されたのは――
30分を超える空白時間。
スタッフが青ざめる中、
静かに手を挙げたのが、西川彩香だった。
「南京玉すだれ、やります」
それは提案というより、
宣言に近かった。
周囲が一瞬、言葉を失う。
美月が思わず言った。
「……さっきまで
播州弁で怒鳴り散らしとった人と
同一人物やんな?」
小春も目を丸くする。
「感情の切り替え、
どうなってるの……?」
美紀は医療用タブレットを抱えたまま呟いた。
「心拍数的に考えても、
あの状態から舞台に出るの、
普通は無理です……」
だが、
彩香は平然としていた。
彼女は、そういう人間だった。
曲がったことが大嫌い。
理屈より筋。
口は悪いが、情には異様に厚い。
典型的な――
播州人のステレオタイプ。
だからこそ、
おっとりした詩織が
年下から執拗にいびられている光景を
見過ごすことができなかった。
「弱いとこ突いて
ええ気になっとるだけや」
彩香の中で、
スイッチはとっくに入っていた。
そもそも彼女は、
理論派の柏木理世とは
致命的に相性が悪い。
理世が言う「合理性」は、
彩香には「人の心を削る刃」に見える。
「正しいこと言うだけで
人が救える思とったら
それは傲慢や」
そんな価値観の衝突は、
積もり積もっていた。
だが、
舞台に立つとき、
彩香はそれを一切持ち込まない。
なぜなら――
彼女は**“代打の血”**を引いているからだ。
父・西川剛史。
社会人野球界では知らぬ者のない名外野手。
若い頃はレギュラーとして
日本代表に選ばれ、
国際大会でも日の丸を背負って戦った。
だが晩年、
彼に与えられた役割は――
代打の切り札。
出番は不定期。
下手をすれば一球。
それでも父は、
決して準備を怠らなかった。
彩香が幼い頃、
何度も言われた言葉がある。
「いつ呼ばれるか分からん。
せやからこそ、
いつでも“本番”やと思え」
「準備しとる人間だけが、
舞台に立つ資格がある」
その教えは、
彩香の骨にまで染み込んでいた。
だから彼女は、
イベントの出番が少なくても、
常に全体構成を頭に入れている。
だから彼女は、
控室が修羅場でも、
舞台に出れば別人になれる。
本番。
「さぁさぁさぁ~!
南京玉すだれでございまーす!」
最初の一声で、
空気が変わった。
玉すだれが、
動物になり、
乗り物になり、
ヒーローの変身ポーズになる。
子どもたちは大笑い。
「もう一回!」
「すごーい!」
スタッフは、
ただ呆然と見守るしかなかった。
舞台袖で、
美月がぽつりと言った。
「……強すぎるやろ、あの人」
小春は苦笑する。
「感情で動く人だと思ってたけど、
実は一番冷静なのかもしれないね」
美紀は深く息をついた。
「患者さんの前に立つ看護師として、
ああいう切り替えは……
正直、尊敬します」
終演後。
彩香は、
いつものように軽く頭をかいた。
「別に大したことやってへんで」
「ただ、
出番が回ってきたから
やっただけや」
その背中は、
どこか父に似ていた。
その日、
西川彩香は
誰よりも多くの時間を舞台で救った。
怒りも、情も、正義感も、
すべてを飲み込んで。
代打は、
決して“控え”ではない。
最後に勝負を決める人間だ。
そのことを、
彼女は今日も、
何も語らず証明していた。




