数字より重いもの――白いリボンと白衣が守る約束
イベント当日の朝。
白石陽菜は、いつもより少しだけ背筋を伸ばして控室の椅子に座っていた。
鏡前のライトは点いている。
衣装も整っている。
あとは、いつもの“あれ”だけだ。
――メディカルチェック。
だが、今日は少し違った。
「……紗絢先生、今日いないんだよね」
陽菜がぽつりと呟く。
目の前でタブレットを開いているのは、信州の白衣の天使・松本美紀だった。
「うん。今ごろヨーロッパの学会だって。時差あるけど、データ送ればすぐ見てくれるよ」
美紀はいつものように穏やかに笑いながら、血圧計を陽菜の腕に巻く。
その手つきは慣れていて、優しい。
ピッ。
数値を見た瞬間、美紀の指がわずかに止まった。
(……あ)
心拍、やや高め。
血圧、境界値。
普段なら、紗絢が即座に「短縮か休演」と判断するレベル。
「……どう?」
陽菜が、探るように聞く。
美紀は一瞬、言葉を選んだ。
「正直に言うね。今日は……あんまり良くない」
陽菜は、白いリボンをきゅっと握る。
「……今日、子どもたち、すごく楽しみにしてるって聞いた」
それは、何度も聞いてきた言葉だった。
そして、何度も止めてきた言葉でもあった。
「美紀ちゃん……」
声が、少しだけ震える。
「このままだと、出られないよね」
美紀は頷く。
「紗絢先生に送ったら、きっと時間短縮か、休演になる」
沈黙。
その沈黙を破ったのは、陽菜だった。
「……ねぇ」
「うん?」
「数字、少しだけ……変えられない?」
空気が止まった。
「……陽菜ちゃん?」
「ほんの少しでいいの。
だって、私、立てるし、話せるし、歌える」
美紀の胸が、ぎゅっと締めつけられる。
「それは……」
「お願い。今日だけ」
白衣の天使は、天使である前に、看護学生だった。
医療に触れて育ち、数字の意味を誰よりも知っている。
それでも――
同い年の親友が、必死に訴えるその目を、振り払えなかった。
「……一度だけだよ」
美紀の声が、震える。
「次は、絶対ダメ」
タブレットに入力された数値は、
“出演可”のラインを、わずかに越えていた。
そのデータは、学会会場にいる藤崎紗絢のもとへ送られた。
イベントは、成功だった。
陽菜は笑い、手を振り、子どもたちは歓声を上げた。
予定通りの時間を、やり切った。
だが、終演後――
控室で、陽菜は椅子に座り込んだ。
「……ちょっと、苦しい」
美紀の顔色が変わる。
すぐにバイタルを測り、連絡を入れた。
数分後。
紗絢からの着信。
「……どういうこと?」
電話越しの声は、低く、静かだった。
事情をすべて聞いた紗絢は、
学会の予定をすべてキャンセルし、即座に帰国した。
数時間後。
病室。
大事には至らなかった。
だが、紗絢はベッド脇で、静かに立ち尽くしていた。
「……私ね」
ぽつりと、紗絢が言う。
「人生の全部を、陽菜に賭けてる」
陽菜が、目を伏せる。
「医者としても、人としても。
万が一があったら……私は、自分を許せない」
その声は、初めて少しだけ震えていた。
美紀が、泣きそうな顔で言う。
「私……数字より、友情を優先しちゃいました……」
紗絢は首を振る。
「違う。
友情が悪いんじゃない。
命の前で、判断を誤っただけ」
陽菜が、ぽろぽろと涙をこぼす。
「……ごめんなさい。
私、ヒロイン失格だ」
「違う!」
二人が、同時に声を上げた。
紗絢は、陽菜の手を握る。
「あなたはヒロイン。
だからこそ、生きなきゃいけない」
美紀も泣きながら頷く。
「次は、私が止める。
友達としてじゃなく、ナースとして」
三人は、声を殺して泣いた。
白いリボン。
白衣。
そして赤い覚悟。
その夜、三人は初めて、
**数字よりも重い“約束”**を共有した。
――次は、絶対に間違えない。




