白いリボンが光へ変わる日 ――十七歳、白石陽菜・ヒロイン誕生――
白石陽菜、十七歳。
春の風はやさしいはずなのに、その年だけは、少し寂しげに屋敷を吹き抜けていた。
高校二年の春。
陽菜の世界から、音が消えた。
最愛の養母・白石佳代が、長い闘病の末、眠るように息を引き取ったのだ。
相模原の丘に佇む白石邸は、まるで時間そのものが止まったかのように静まり返った。
食卓に飾られる花は変わらず瑞々しいのに、誰もそれを眺めようとしない。
グランドピアノの蓋は閉じられ、屋敷に響いていた旋律は、遠い記憶になった。
陽菜は泣かなかった。
「私がしっかりしなくちゃ。お父さまを、元気づけなきゃ」
そう言って、いつも通りに笑った。
その笑顔は、あまりにも出来すぎていて――
だからこそ、誰よりも脆かった。
――彼女の心臓は、静かに悲鳴を上げていた。
それを、いちばん近くで見つめていたのが、家政婦・杉本恵だった。
紅茶を淹れる手つきは、いつもと変わらない。
陽菜の前では、穏やかで、上品で、何も知らない“家政婦”でいる。
けれど、胸の奥では、母としての叫びが渦巻いていた。
(お願い……無理だけは、しないで。
あなたは、もう失うには大切すぎる)
恵はかつて、「東洋のマタ・ハリ」と恐れられた伝説の諜報員だった。
国家の裏側で、命を賭け、名を捨て、顔さえも変えた女。
そして今は――
実の娘に「母」と名乗ることすら許されない女。
その日、白石邸を一人の男が訪れた。
「波田巌蔵だ。ま、固ぇ挨拶は抜きにしとけ。」
老獪な笑みと、どこか人情味を滲ませた声。
恵にとっては、かつての上司であり、運命を変えた男だった。
応接間で、波田は陽菜をじっと見つめる。
「白石陽菜くん。君の名前は、昔から知ってる」
陽菜は背筋を伸ばした。
「君の笑顔はな、人の心を照らす。
春の光みてぇに、気づいたら周りが明るくなる」
波田は少し間を置き、言った。
「どうだい、嬢ちゃん。
戦隊ヒロインって看板、背負ってみる気はねぇか?」
「……わたしが、ヒロインに?」
胸の奥が、きゅっと鳴った。
学芸会で主役に立ったとき。
歌を歌い、拍手を浴びたとき。
あの“光”の感覚が、よみがえる。
けれど――母を失った今、その夢を口にする資格があるのか、わからなかった。
恵は黙って紅茶を注ぎながら、話を聞いていた。
(ダメ……
あの子の身体じゃ、そんな負担――)
だが、隣で養父・源三郎が、久しぶりに微笑んだ。
「いい話じゃないか」
穏やかで、確かな声だった。
「陽菜がまた笑えるなら、それでいい。
この子はな……きっと、誰かの希望になれる」
その言葉に、恵は唇を噛みしめた。
波田は、恵の方を一瞬だけ見て、小さく頷く。
「心配すんな。
岡山医科大学の藤崎教授に、その弟子の藤崎紗絢――
あの二人が張り付く。体調最優先だ。
嬢ちゃんの身体に、指一本無理は通さねぇ。」
陽菜の目が、ぱっと輝いた。
「やってみたいです。
わたし……もう一度、みんなに笑顔を届けたい!」
その瞬間、恵の胸が、ぎゅっと締めつけられた。
――この小さな心臓が、まだ危ういことを知っているのは、自分だけ。
それでも。
(……夢を奪う権利なんて、私にはない)
こうして、白石陽菜は戦隊ヒロイン候補生となった。
訓練は厳しく、体力の限界が続いた。
それでも陽菜は、いつも笑顔だった。
夜。
疲れ切って戻ってきた陽菜の髪を、恵はそっと梳く。
そして、白いリボンを結ぶ。
「陽菜さん。明日も、素敵な一日にしましょうね」
「うん。
恵さんが結んでくれたら、大丈夫な気がする」
――母と娘。
名乗れなくても、確かにそこにある絆。
やがて、初舞台の朝が来る。
真紅の制服。
白いリボンが、光を受けてきらめく。
舞台袖で、恵は手を合わせ、祈った。
(お願い……
どうか、この子の心臓が――今日だけでも、強く鳴り続けて)
そして。
白いリボンを揺らしながら、陽菜は光の中へと駆け出した。
――こうして、
**「白いリボンの妖精・白石陽菜」**は誕生した。
その舞台の裏で、
ひとりの母の沈黙の祈りが、
誰にも知られぬまま、今日も続いている。




