白い天使に刻まれた鼓動 ――白石陽菜、八歳にして背負った国家機密――
白石陽菜が八歳を過ぎたころ、
その美しさは、すでに“噂”ではなく“伝説”になっていた。
通学路では、大人も子どもも思わず振り返る。
ピアノの発表会では、舞台に姿を現しただけで客席がざわめき、
まだ一音も鳴らしていないというのに、会場の空気が変わった。
――絵本から抜け出した天使。
そんな言葉が、誰からともなく漏れた。
白石邸の門前には、いつしか黒塗りの車が並ぶようになった。
芸能プロダクションの名刺を握りしめた男たちが、頭を下げる。
「契約金は破格でも構いません。
お嬢さまには、日本を代表するスターの素質があります」
その言葉を、養母・白石佳代は静かに受け止め、
そして、穏やかに微笑んで首を横に振った。
「この子は、まだ光に触れるには早すぎますの。
陽菜は……陽菜のままで、よろしいのです」
門前で立ち尽くす男たちを残し、
佳代は庭へと視線を向けた。
そこには、風に舞う花びらを追いかけて笑う、
ただの八歳の少女がいた。
その姿を、屋敷の陰から見守る者がいる。
家政婦・杉本恵。
陽菜の笑顔に、母としての誇らしさが込み上げる。
だが同時に、胸の奥に、言いようのない不安が芽生えていた。
――最近、頬の色が少し薄い。
――息が上がるのが、早すぎる。
そして、その不安は、最悪の形で現実になる。
冬の夜。
相模原の丘に、静かに雪が降り積もっていた。
暖炉の前で、陽菜はピアノを弾いていた。
小さな指が鍵盤の上を跳ね、
屋敷にやさしい旋律が流れる。
だが、次の瞬間――
音が、途切れた。
「……あ」
陽菜の体が、ふっと傾き、
音もなく床に崩れ落ちた。
「陽菜!!」
佳代の悲鳴が屋敷を裂き、
ほどなく救急車の赤い光が、雪の夜を照らした。
診断は、重かった。
――先天性の重度不整脈。
医師はカルテを閉じ、静かに告げる。
「これほど小さな心臓で、
よくここまで元気に過ごしてこられました。
ですが……今後は、細心の注意が必要です」
白石源三郎と佳代は、言葉を失い、
ただ、深く頷いた。
その背後で、恵は両手を胸に当て、立ち尽くしていた。
――この子は、私の罪の証なのか。
諜報員だった頃。
任務のために服用した強化剤、
身体を酷使する潜伏、
人として限界を超える化学処置。
あの無理が、
この子の小さな心臓に刻まれたのではないか。
恵は、その場に崩れ落ちそうになるのを必死で堪えた。
その夜。
眠れぬまま、恵は机に向かい、震える手で封筒を書いた。
〈波田様へ。
どうか、この子をお守りください。
母である私は、祈ることしかできません〉
数日後。
白石邸に、一人の男が現れた。
グレーのコート、黒い鞄。
名刺には、こう記されている。
岡山医科大学附属病院
循環器科 教授 藤崎 恒一
藤崎恒一――
日本循環器医学会でも名の通った権威。
政界の“特命”で動くこともある、影の名医。
彼をここへ送り込んだのは、波田巌蔵だった。
「国家に必要な子だ。
全力で診てやってくれ」
藤崎は何も問わず、相模原まで足を運んだ。
診察を終えた彼は、深く息を吐く。
「……この子の心臓は、極めて繊細です。
だが、奇跡的に強い。
この子を守るには――
医者が一人、命を懸ける覚悟がいる」
その言葉に、恵は声を殺して泣き、深く頭を下げた。
「どうか……
どうか、この子を……」
白い天使の胸に刻まれた、
小さく、しかし確かな鼓動。
それはまだ誰にも知られていない――
国家と運命を揺るがす“物語”の始まりだった。




