白い丘の洋館に眠る秘密――白石陽菜、誕生という名の奇跡
白石陽菜は、生まれながらにして幸福そのもののような少女だった。
神奈川県相模原の丘陵地。
緑の木立に抱かれるように建つ白石邸は、古き良き時代の気品を残した洋館で、その窓からはいつも柔らかな光がこぼれていた。
「陽菜、ピアノのお稽古のお時間ですよ」
優しく声をかけるのは養父、白石源三郎。
穏やかな笑みを浮かべる妻・佳代が、その隣で頷く。
「はいっ。今日はね、“エリーゼのために”を弾くの。お父さまもお母さまも、ちゃんと聞いてね」
小さな体に大きな白いリボンを結び、陽菜は鍵盤に向かう。
たどたどしくも一生懸命な旋律が、屋敷に響くたび、二人の目は自然と細められた。
長年子宝に恵まれなかった夫妻にとって、陽菜はまさしく――
神様から授かった奇跡だった。
ピアノ、乗馬、茶道、華道、英会話。
屋敷には一流の教師が日替わりで訪れ、陽菜はどの稽古にも全力で取り組んだ。
その姿を見ながら、佳代はよくこう言った。
「陽菜はね、太陽みたいな子なのよ。
そばにいるだけで、周りが明るくなるの」
だが――
その“太陽”を、決して近づくことのできない場所から見つめる女がいた。
家政婦・杉本恵。
庭の手入れをしながら、遠くで響く陽菜の笑い声に、彼女はそっと耳を澄ませる。
「あの声……
どんな音楽よりも、綺麗ね……」
微笑みながら呟くその胸の奥には、
誰にも見せられない痛みが深く突き刺さっていた。
陽菜には、こう伝えられている。
――本当のご両親は、交通事故で亡くなった。
――あなたは、奇跡的に助かったの。
陽菜は、その話を疑わなかった。
涙をこらえて微笑む源三郎の顔を見て、
「わたしはこの人たちの娘なんだ」と、心から信じていた。
だが、恵は知っている。
そのすべてが、守るための嘘であることを。
波田巌蔵との約束――
「決して、母であることを明かすな」
彼女は触れない。
抱きしめない。
名を呼ばない。
許されているのは、ただ“見守る”ことだけ。
ある日、庭に出ていた陽菜が、屈託なく声をかけてきた。
「恵さん! お花、すごくきれいだね!」
「まぁ……ありがとうございます。
陽菜お嬢さまに褒められて、お花も喜んでおりますよ」
その瞬間、胸が張り裂けそうになる。
母としての本能が、激しく疼く。
それでも、恵は微笑みを崩さない。
――泣くことは、許されない。
そして、ある雨の夜。
陽菜が高い熱を出した。
佳代が駆けつけるより早く、部屋に飛び込んだのは恵だった。
濡れたタオルで額を拭き、小さな手を握る。
「……大丈夫。
お母さんが、ここにいるから」
言葉が零れ落ちた瞬間、恵は凍りついた。
はっと我に返ると、目に溜まった涙が止まらない。
薄く目を開けた陽菜が、かすかに微笑む。
「ありがとう……恵さん。
お母さんみたい……」
その一言で、恵は言葉を失った。
ただ、静かに頷くことしかできなかった。
部屋を出た瞬間、
廊下で声を殺して泣いた。
――この子は、私の娘。
――それでも、名乗れない人生が、私の罰。
その夜、屋敷の外に立つ影があった。
波田巌蔵。
窓辺で雨に濡れる恵を見つめ、彼は低く呟く。
「……よう守っとるな。約束を」
やがて雨が止み、
月明かりが子ども部屋を照らす。
白いリボンを胸に、
陽菜は穏やかな寝息を立てていた。
知られざる母の愛が、
確かに、その小さな胸に宿っているとも知らずに。
――それが、
白石陽菜という奇跡の、始まりだった。




