いないようで、ちゃんといる――奈良の凡庸ヒロイン観察記
春日美咲は、いつの間にかそこにいる。
ドアを開けた瞬間に目に入るわけでもなく、誰かの声にかき消されるわけでもない。だが気づくと、椅子に腰掛け、背筋を伸ばし、静かにお茶を飲んでいる。奈良公園の鹿と同じだ。鳴かず、走らず、騒がず、しかし確実にその場に溶け込んでいる。
西日本分室の空気は、常に騒音が標準装備だ。
美月の河内弁は天井を突き抜け、彩香の播州弁は鋭利な刃物のように飛び交う。そこに綾乃の京言葉が品良く刺さり、あかりと麻衣が笑い声で追撃する。そんな中、美咲は一度も声を張らない。だが不思議なことに、彼女がいないと部屋の騒音が「ただの雑音」になる。美咲がいると、雑音が「会話」になるのだ。
イベントでも同様だった。
綾乃と組んで名付けた「古都シスターズ」は、企画書段階では満点だった。奈良と京都、歴史と格式、知性と品格。資料は読みやすく、語り口は落ち着き、内容は非の打ち所がない。
――だが、ウケはイマイチだった。
観客はうなずき、拍手もする。だが笑わない。ざわめかない。写真も撮らない。
「すごいですね」で終わる。
スタッフのメモには、無慈悲な一行が残った。
《内容は素晴らしいが、盛り上がりに欠ける》。
任務ではどうか。
美咲はミスをしない。遅刻もしない。判断も平均的に正しい。突出した戦果はないが、致命的な失敗もない。
結果、報告書にはこう書かれる。
《特記事項なし》。
それが一番つらい。
ある日、美月がぽつりと言った。
「美咲ちゃんって……怒らせたら怖そうやけど、怒るとこ見たことないな」
彩香が鼻で笑う。
「怒る前に我慢するタイプやろ。奈良やし」
綾乃は扇子を閉じて、静かに補足した。
「奈良は“耐える文化”どす」
遥室長は、会議後にこぼした。
「美咲ちゃんはねぇ、ほんとにええ子だら」
少し間を置いて、続ける。
「でも戦隊ヒロインは人気商売だもんで……特徴がないのは、やっぱ厳しいらぁ」
その言葉は、美咲の耳にも届いていた。
だが彼女は俯かない。
奈良の鹿が、人の視線を気にしないのと同じだ。
目立たない。
だが欠けると困る。
いないと空気が落ち着かない。
春日美咲は、今日も静かにそこにいる。
凡庸という名の均衡を保つために。
そして誰にも気づかれないまま、ヒロ室の騒音を、少しだけ優しくしている。




