特級治癒士の憂鬱
人は誰もが他人より優れたいという欲求がある。
アイツよりも美しい。
コイツよりも頭がいい。
お前よりも強い。
それが例え小さな事であったとしても、他人より秀でた存在になりたいと憧れる。
では、仮に特別な力……そう、誰も持ち得ない唯一無二の力を持ったらどうなるのか。
莫大な金や名誉、権力を手にいれる?
その力にもよるが、世の中はそんなに甘いもんじゃない。
どうなるのかって?
答えは簡単だ。
『巨大な組織に囲われる』だ。
一部の例外を除けば、その力を欲する組織に有無を言わさず組み敷かれる。
俺の場合、その相手は国家だった。
人の体を治す職業は色々あるが、魔力を使って外傷を癒す者を治癒士と呼ぶ。
その治癒士の中でもひと握りの人間にしかなれない特級治癒士。俺はある事件をキッカケに、他の誰にも出来なかった部分の再生技術を手に入れて、その称号を与えられた。
だがその能力がまずかった。
万人が求めるわけではないその再生技術は、一部の人間にとっては喉から手が出るほど必要な能力であり、その一部の人間は特権階級の人間がほとんどだった。
結果、俺の治癒能力には箝口令が敷かれ、俺は20代半ばにして世界の表舞台から姿を消した。
別に牢屋なんかで監禁されてるわけではない。ただ逃げ出したり秘密を他人に喋った時点で、俺の首から上が宙を舞う特典をつけられた。
目に見えない足枷を付けられた俺は、人との交流を断つしか無かった。
ここに来て半年以上経つが、行った再生施術は僅か十五件ほど。
馬車馬のように働かされることもなく、戦場のような危険な場所に身を置くわけでもない。望めばどんなものでも用意するとまで言われているし、多額の報酬も得ている。
だが俺の心を埋め尽くすのは虚無感だ。
自分で選択することが出来ない未来など、人として何の意味があるのだろうか。
無駄に持て余す時間の中、そんなことばかり考えてしまう。
無気力に黒ずんだ天井に視線を漂わせていると、機嫌の悪そうな声と床板の軋む音がこちらに近づいてくる。
そういえば今日は俺の施術を受けに患者が来るってアイツが言っていたな。
俺は小さく息を吐き出すと、目の前の扉に視線を向かわせた。
「こんな小汚い所に私を治せる治癒士がいるんでしょうね?」
「大丈夫ですよ、マリアメア令嬢」
聞こえてくる呆れた思考にため息が漏れてしまう。
まったく自分が何の治癒を受けに来たのかを分かっているのだろうか?
小汚いのはこの場所ではなく、卑しくも自分の立場を守りたいお前の心なんだと理解してくれ。
「だいたい従者も連れてこれないなんて。——きゃっ。今、何か動いたわよ」
「彼は立場上、あまり顔を晒す事が出来ないんですよ。ご理解下さい。それにこんな所に特級治癒士がいるとは誰も思わないでしょ? さぁ、この部屋です」
木製の扉が開けられると、身なりだけはご立派な令嬢が顔をしかめながら部屋へと入ってくる。
案内役の優男は視線で俺に合図した。
「ちょっと、この部屋カビ臭いわよ。まさかこんな所で治癒する訳じゃ無いでしょうね?」
「嫌なら帰れ」
傲慢な口を聞く令嬢をひと睨みして、俺は手を払う仕草を示した。
自分から帰ってもらえるなら俺に不都合はない。むしろありがたいくらいだ。
「はぁ? あなた何様のつもりなのよ」
「まぁまぁ、マリアメア令嬢、落ち着いて下さい。彼の腕は本物ですから。ウィリスももうちょっと愛想良く出来ないのかい?」
激昂する令嬢をカイルが嗜めているが、この手の世間知らずのお嬢様には自分の立場を分からせないといけない。
「おい、アンタここに何しに来たんだ? 俺にしか出来ない治癒を受けにここに来たんだろ? 困るのはアンタの方だ。良く考えて言葉を選べよ」
令嬢はしばらく唇を噛み締めるように体を震わせていたが、諦めたように小さく「うっ、うううっ、お願いします」と言葉を吐き捨てた。
俺が目配せすると、カイルはそっと廊下に出て静かに扉を閉める。
「まずは服を全部脱いでもらおうか?」
「な、何を! まさか私を辱めるつもりなのね!」
令嬢は体を隠すように両手を交差させるが、生憎そんなつもりはさらさらない。
「俺はアンタの裸なんかに興味はない。いちいち面倒な手間をかけさせるな。施術が始められないだろ」
「——くっ」
施術という言葉に観念した令嬢は、口を一文字にしながら一枚ずつ衣服を脱いで肌を曝け出していく。
こんなシチュエーションに興奮する男もいるかもしれないが、俺にとっては目を覆いたくなる惨状だ。
たいした運動もしていない令嬢の多くは弛んだ体を矯正下着で美しく見せているだけで、開放された贅肉は重力に逆らう事はない。
見事な詐欺っぷりだ。
コイツの未来の旦那には色んな意味を込めて同情を送ろう。
「そこの台に寝そべりな」
一糸まとわぬ姿となった令嬢が台の上に乗ったのを確認すると、俺は目を閉じてゆっくりと肺に溜まった空気を吐き出す。
全神経を両手に集中させれば手先が熱を帯び、赤紫の粒子が螺旋を描いて立ち昇る。
目を開いた俺は患者の下腹部に手をかざした。
「今から膜再生施術を始める」
「あ、ありがとうございました」
施術の終わった令嬢は来た時とは打って変わり、恍惚の表情を浮かべて部屋を出て行く。
念願の膜再生が叶った安堵と、恐らくは治癒で味わった快楽の余韻に浸っているのだろう。
俺には分からないが、再生治癒ってのは気持ちがいいらしい。
施術の終わった俺はといえば、大量の魔力を使ったせいで全身の脱力感に襲われている。
「ウィリス、お疲れさま」
令嬢の見送りが終わったのか、カイルが戻ってきた。
端正な顔つきに無駄な肉のない引き締まった体。
どこぞの王族と言われても納得してしまう美貌に優しげなオーラをただ寄せているカイルだが、この国でも5本の指に入る凄腕の剣士だ。
恐ろしく素行が悪い為にこんなところに飛ばされたのだが、本来なら騎士団の団長にさえなっていたかもしれない。
「ちゃんと送り届けて来たか?」
「やだなぁ、ウィリスは。もうちょっと僕を信頼してよ」
「どの口がほざきやがる」
俺は恨みのこもった眼差しを投げかけたが、カイルはニコニコと爽やかな笑顔で視線をスルーした。
コイツの素行の悪さ……女癖の悪さは、この国でも一二を争うだろう。
何せ貴族階級も何のその、自分に興味を持った女性には年齢を問わず手をつけて、あろうことか王族関係にまで手を伸ばして斬首直前までいった男だ。
ちょうどその時に俺の能力が露見して、王女を治癒したことで命を繋いだわけだが、それでもカイルは懲りたりしてはいない。そのまま監視者のポストに収まったが、夜な夜な離れた部屋から聞こえる軋みと声には迷惑している。
そんなカイルが以前、膜再生施術の直後に「ごめんね、もう一回よろしく」と再び女を連れ戻った時には、本気で後ろから刺してやろうかと思ったものだ。
「いや、あれは仕方ないんだ。あの令嬢がどうしてもってせがんだんだからさ。何度も話したけど、僕の方から女性に迫ったことは一度もないよ」
「じゃあ聞くが、お前は断るという言葉を知らないのか?」
「ははっ。残念ながら僕の辞書には女性の誘いを断るって言葉はないね」
「俺に性的不全にさせる能力が備わったら、真っ先に使ってやるからな」
「それは困るなぁ」
ちっとも困っていない顔でおどけるカイルだが、コイツを刺したいと思っているのは男性貴族には五万といるだろう。
「神様は意地悪だ。ウィリスの治癒能力が僕にあれば、世界はもっと平和だと思うんだけどねぇ」
「お前の辞書に女性の誘いを断るって言葉がのれば、それだけで世界はもっと平和だよ」
「それは女性に幸せを放棄しろと言っているのと同義だよ?」
「言ってろ」
全く、コイツの自信はどこから湧いて出てくるのか教えてほしい。
「僕にもその治癒を教えてよ」
「無理だな。俺以外誰も出来ないからの特級治癒士だ」
「そりゃ、そうなんだろうけどさ」
なぜ誰も膜を再構築出来ないのか。
それはこの世界の治癒は、神の加護を受けて初めて成立するものだからだ。
外的施術を行い、神々の力を借りて再生を促す。
これが一般的に言われる治癒だ。
高度な技術と神への信仰心。治癒士に必要な素質はその二つ。
どちらが欠けても治癒する事は出来ない。
上級や特級といった治癒士が外的施術で構築さえすれば、失った手足の再生すらも可能なほど、神の加護は怪我に関して万能を誇る。
だが神々は膜の再生だけには力を貸さなかった。
馬鹿げた話ではあるが、処女性を侵すことは神々が示した禁忌なのだ。
お陰でこの世界の処女信仰は凄まじい。
平民はともかく貴族ともなれば、結婚するまで貞操を守るのは当たり前。
初夜に生娘でない事が発覚すれば婚約破棄されても文句は言えない。
故にはるか昔から膜再生に手を出してきた治癒士はいくらでもいる。
とある国ではそれ専門の研究機関があったほどだ。
しかし今では挑戦する者はほとんどいない。
禁忌を犯した治癒士は例外なく神の加護を失うからだ。
確かに膜再生は巨大な金のなる木だ。
だがそもそも報酬が高額な治癒士が、わざわざ力を失う覚悟で挑戦する意味がない。
そして数少ない俺の存在を知る貴族達でさえ、二人目の膜再生の出来る治癒士を作ることは出来なかった。
なぜなら俺は神の加護を受けていない、治癒士の常識に当てはまらない治癒士だからだ。
厳密に言えばある事件をキッカケに、神の加護を失ってなお、俺は治癒する術を手に入れた。
「沢山の女性を助けてあげて……か」
「えっ、何?」
「いや、何でもない」
あの人の言葉を思い出す。
貴族の面子を守るためだけに治癒する俺を見たら、あの人は何ていうのだろうか?
俺は返ってくることのない答えを考えて自嘲するのだった。
その日のカイルはいつになく真剣な表情だった。
「いいかいウィリス。今回の患者は特別だ。施術は明日の夜。万全の状態で臨めるように準備して欲しい。君の腕を信じちゃいるけど、国の威信がかかっていると肝に銘じてくれ」
「なんだ? またお前が王女にでも手を出したのか?」
俺の皮肉に対してもカイルは真剣な顔つきを変えない。
斬首直前でも笑顔を絶やさなかったカイルが、だ。
どうやらよほどのことらしい。
「……患者は聖女様だ」
「はぁ?」
その言葉に驚きはしたが、続いて俺の中に湧き上がった感情は笑いだった。
「くくっ、くっくっくっくっくっ」
「笑い事じゃ無いんだよウィリス。君だってその意味は分かるだろ?」
意味が分かるからこそ笑いが込み上げてしまうのだ。
なるほど。確かに国の威信がかかってるわけだ。
聖女とは神と言葉を取り交わし神託を授かる唯一の存在。
身も心も清らかだと神に認められた処女信仰のシンボルであり、この世界で強い力を持つ教団の重要人物だ。
純潔を失えばその力を失うのも必然。
神至上主義がクソだと思う俺にとっては愉快な話だが、教団上層部の連中が慌てふためいている姿が目に浮かぶ。
それを国が治すと言った以上、失敗しましたではすまない。
教団とはそれほどの力を持っているのだから。
「くっくっくっ、なぁカイル。聖女が治癒を受けて力が復活すると思うか?」
「……思わないさ」
「だろうな」
膜再生施術を行おうとした治癒士から加護を取り上げるくらいだ。脳みその腐り切った神が力を戻すなんて考えられない。
「だけど……その聖女様が受けた最後の神託が『再生せよ』っていうありがたい言葉らしいよ」
「俺にはその聖女の嘘にしか思えないがな」
「まぁ、国としてはどちらに転ぶにせよ、力が強すぎる教団に貸しを作る算段なんだろうけどね」
所謂政治的駆け引きってやつか。
そんな危険に巻き込まれそうな案件は関わりたく無いが、体の良い道具である俺には逃げ場などない。
「で、今から神殿にでも出向けってことか?」
「いや、聖女様自らがここに来るらしい。いくら神託と言っても教団にしてみれば禁忌を犯す行為だし、何より教団内部には幾つもの派閥がある。懐で危険を晒すより、ここの方が安全だと踏んだんだよ」
実はこの建物にはある結界が張られている。
この国の特級魔術師が作り出した結界は、人の認識を逸らすものらしい。
例えば今までに施術した令嬢がここに向かおうとしても、この建物に辿り着けない。
唯一特級魔術師が魔力を注ぎ込んだ札を持った者だけが出入りを許される。
カイルが招き入れてさえしまえばそれで隔離は完了。ついでに中の音も一切外には漏れないとくれば、立派な監禁場所の出来上がりだ。
「隠れるにはうってつけってか」
「そう言うことだよ。じゃあ僕は僕で色々と準備があるから、よろしくね」
俺との会話で幾分表情の和らいだカイルは、片手を上げて部屋を出て行った。
別に聖女だからといってやることは変わらない。
そう考えた俺はそのままゴロリと体を横にするのだった。
夜が深まり静かさが増すと、床の軋む音がよく分かる。
足音は多く、どうやら聖女一人でここに来たわけではないようだ。
「聖女様、こちらになります」
いつも以上に丁寧な仕草で扉を開けたカイルに続いて、部屋に入って来たのは三人の女性。
お忍びというには目立つ格好だ。
白を基調とした厚手の布に金色の刺繍が施されたローブは、まるで純潔を示しているようだ。
真ん中に立つ、まだ二十歳にも満たなそうな女性が聖女なのだろう。
三人とも美しい顔をしているが、その中でも群を抜いている。
なるほど。いかに神が好みで選んでいるのかがよく分かる。
「へぇ、アンタが聖女かい?」
俺の不躾な言葉に側に控える女性達が敵意をあらわにしたが、聖女は表情も変えずにそれを手で制した。
「私がトラヴィア神殿の聖女、ユリアです。貴方が特級治癒士のウィリス様ですか?」
「そうだ。しかし……くっくっくっくっ」
「何かおかしなことでも?」
確かにその美貌と醸し出すオーラは人間離れしている。だがこの場にいるってことは俗物にまみれてるってことだ。
「いいや、この場所に聖女ほど似合わない人間はいないと思ってな」
「——貴様、聖女様を愚弄するのか!」
「やめなさい。神は争いを好みませんよ」
「ウィリスも口がすぎるよ。聖女様、大変失礼致しました」
聖女は俺の挑発に表情を崩すことなく小さく息を吐いた。
「私がここにいるのは事実です。何かを弁明するつもりはありません。施術をよろしくお願いします」
教団の重要人物なら傲慢な性格かと思いきや、相手は見た目よりもずっと大人のようだ。
俺は目でカイルに合図を送る。
「では今から施術になりますので、お二人は僕と一緒に外に出て頂きます」
「聖女様をこんな奴の前に一人置いてはいけません」
「ジャニエス。言う通りに」
「——しかし」
怒りの視線を何度も送っていた二人の従者は聖女の態度で諦めたのか、苦々しい顔でカイルと部屋から退出して行った。
床の軋む足音が聞こえなくなると、聖女は大きく息を吐きだす。
「もう。お供は要らないって言ったのに。あっ、今日はよろしくね」
聖女の仮面を脱いだ少女は、美しい顔はそのままに無邪気に笑う。
「それが本性ってか?」
「らしく演じるなんて皆んながしてることでしょ? それにウィリス君も堅苦しい聖女相手に施術とか緊張しちゃうんじゃない?」
「別に相手が誰だろうと関係ない」
それにしたって猫被りすぎだ。信者が見たら卒倒するぞ。
しかしこの豹変っぷりを見れば、なるほどここに来た事にも頷ける。
「あー。なんか私のこと軽い女だと思ってるでしょ? 一つ言っておくけど、私はウィリス君が想像しているような行為はしてないんだからね」
「じゃあなんでここに来たんだ?」
「もちろん膜の再生よ。ウィリス君にはその力があるんでしょ?」
「あるが……なんだ勝手に破れたとでも言うのか?」
「それがさぁ、聞いてよ」
聖女は身に起きた不幸をまるで他人事のように、身振り手振りをつけて話し始めた。
簡単に言えば神に唆されたらしい。
「くっくっくっくっ。普通『神の試練だ』とか言われたからって、そんなもの突っ込むか?」
「そうだけど。ほら、聖女になっちゃったら死ぬまで処女かぁって思うじゃない。私も女の子だし、興味あるし。そりゃ神様からお許しが出たらちょっと試してみたくなるでしょ? めっちゃくちゃ痛かったけど」
あぁ、神が阿呆なら聖女も馬鹿だ。
「まさか自分でやらせておいてから『再生せよ』なんて普通言うかなぁ。神様って本当に自己中よね」
「それ再生しないとダメなの? いつもの100倍くらいやる気が出ないんだが」
「えーっ、そこは……ファイト!」
ユリアと話していると調子が狂う。
全くやる気は起きないが、さっさと終わらせてさっさと帰すのが得策だ。
それにこれ以上話し込んでいると、さっきの二人が怒りの形相で戻って来そうだ。
「それじゃ、始めるぞ。まずは……」
服を脱げと言う前に、聖女は肌をさらけ出していた。
おいおい、確か教団ってのはむやみに異性に肌を見せる事を禁止してたんじゃなかったか?
「……貧相だな」
おそらく人類の男として、初めて聖女の全裸を見て漏れた感想がそれだ。
「仕方ないじゃない。聖女になってから胸とか大っきくならなくなったんだもん。ほら神殿の教えでは、神様は余計なモノは好まないって言うし」
脂肪=余計なモノってか?
どうやら神とは阿呆に加えてロリコンだったらしい。
さっきから俺の中で神への評価が最下限を超えてグイグイと限界突破していく。
しかし神に共感する気はさらさらないが、凹凸の少ない体は聖女の美貌と相まって一種の芸術的な美を感じさせる。
余計なモノを大量につけた令嬢ばかりを見てきた弊害か?
「まぁ、神の好みはこの際どうでもいい。施術を始めるからそこの台に寝そべってくれ」
聖女が古びた台の上に寝そべったのを確認して目を閉じた俺は、ゆっくりと息を吐き出し脳内のスイッチを入れ替える。両手の先に魔力を集中させると手先が熱を帯び、赤紫の粒子を纏う。
「——今から膜再生施術を行う」
聖女の下腹部に手をかざすと、まるで皮膚を突き刺すような痛みが手のひらに広がっていく。
俺はこの痛みを神の残痕と呼んでいる。
まるで神の加護の残りが施術を拒否するように、こちらの魔力に反発する痛み。
なるほど。流石は神のお気に入り。
過去に施術した令嬢とは比べ物にならない残痕だ。
「————っ」
俺の魔力の干渉に、ユリアは眉間に皺を寄せると小さく体を震わせた。
「リラックスしろとまでは言わないが、力を抜いてくれ」
「難しい話——ねっ。——っ!」
ユリアにも痛みがあるのか、体は強ばっている。しかし、こうも力まれると直接患部を触る事は難しい。
俺は空いた左手で優しく髪をなでた。
ユリアの意識が頭の方に逸れると、体から力が抜ける。
その一瞬の隙間に俺は患部へと指を滑らせた。
「——くっぁあ!」
うめき声を上げたのは俺の方だった。
反射的に腕を引っ込めたが、食いちぎられたような激しい痛みが俺を襲う。
自分の右手先を見れば赤紫の粒子は消え、指先は黒く変色しかけていた。
「……マジか」
「どうしたの?」
「いや……何でもない」
異変を察知したユリアが視線だけをこちらに向けたが、俺は何でもないような素振りで首を振った。
まさかこれほどとは。これじゃあ施術以前の問題だ。
「……くくっ。くっくっくっくっ」
「?」
突然笑い出した俺に怪訝な顔をしたユリアだが、腹の底から笑いが込み上げてくるのだから仕方ない。
上等だ。いわばこれは俺と神との喧嘩だ。
神の抵抗なぞ捻り潰してやる。
「ユリア。悪いが俺は施術に集中する。お前の具合には構ってられなくなるが我慢してくれ」
「大丈夫よ。伊達に五年も聖女を演じてないわよ」
不安が掠めただろうに凛と澄んだ声が返ってくる。中々の肝の据わりようだ。
「頼もしい言葉だな」
俺はユリアと視線を交わすと、ありったけの魔力を右手の先に集中させた。
純度を高めた粒子は赤く染まり、熱を帯びた手のひらには螺旋を描く筋が幾つも重なり合う。
「始めるぞ! ——っ!」
「——っん」
再び患部へと伸ばした指先から、痛みが脳へと駆け上がる。
だがギュッと目をつぶり体に起きる変化を堪えるユリアを見れば、泣き言は言えない。
ゆっくりと、だが確実に千切れたヒダを癒着させるように繋ぎ合わせ再生させていく。
ユリアの体が何度も揺れ、怪しげな声を漏らすが気をつかう余裕など俺にはない。集中力が切れれば一瞬で魔力の全てを焼き尽くされるだろう。
しかも再生するほどに神の残痕は抵抗は増していく。
俺の力が尽きるのが先か、再生が終わるのが先か。
そして極限の中で俺は直感した。
——完全に再生するには僅かに足りない。
俺の全ての力をつぎ込んでなお、神には及ばない。
もはや気合いだとか死ぬ気でだとか、そんな精神的な次元ではなく、ただ届かない。
そう敗北を悟った時、不意に神の抵抗が緩んだ。
「——ウィ——リス——く——ん」
苦悶の表情で俺の名を呼んだユリアに小さく頷き返す。
「あぁ、頼む」
内部で何が起きているかは分からないが、神の抵抗を抑えてくれている。
神との喧嘩に手助けされるのは情け無い話だが、ここで引くわけにはいかない。
「くっ、おぉぉぉぉぉ!」
——あと少し。
腹の底から一滴を搾り取るほどの力を最後の結合部にぶつけると、部屋を真っ赤に染める光を見て、俺は前のめりに倒れた。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
もしこの場にカイルがやって来たら実に嬉しそうに俺をからかうだろう。
何せ今の俺はユリアのお腹にうつ伏せになり、息を荒げている状態。
情け無い格好なのは分かっているが、全てを絞り尽くした体は動こうとしてくれない。
意識を失わなかったのはただの意地だ。
強烈な倦怠感に襲われながらもどうにか呼吸が整ってくると、頃合いと見たのかユリアが声をかけてくる。
「……お腹が重いんだけど?」
「ちょ……っと……待て」
ずり落ちるように体を滑らせ、なんとか床に腰を下ろす。台に背中を預けるように座り込むと、しばらくして背後でユリアが服を着る音が微かに聞こえてきた。
「どうだ? 力は戻ったのか?」
「どうだろ。体が熱っててよく分かんないや。でも施術は成功だよ」
「そうか」
手助けありだ。神との喧嘩に勝ったとは言い切れないが、俺は充足感に包まれる。
満足げに笑う俺の前に、神殿衣を身に纏ったユリアが屈んでくる。
「お疲れ様、ウィリス君」
そう言ってユリアは俺の前髪を持ち上げて、額に軽いキスをした。
「貴方にも神の御加護がありますようにってね」
「悪いが俺は神の加護なんていらねーよ」
俺とユリアが顔を合わせて笑うと外が何やら騒がしい。
どうやら我慢できずにさっきの二人が戻って来そうだ。
「んふふふ。それじゃ、ウィリス君。またね」
「二度と来るなよ」
笑顔で部屋を出て行くユリア。
もちろん俺が額を拭かないのは疲れで腕が動かないからだ。
だが……まぁ、そんなに悪い気分ではない。
俺はゆっくりと目を閉じ、そのまま硬い台を背に眠りにつくのだった。
あの施術から20日。
驚くほど平穏な日々が続いている。
自由が手に入った訳ではないが、俺の心から虚無感は薄れていた。
それはあの施術のおかげであり、ユリアのおかげだろう。
神に喧嘩を売る。
そのモチベーションが俺を支える結果となった。
今回はユリアに助けられてなんとか勝ったが、次も同じ事があればどうなるかは分からない。
なら、すべき事は鍛錬と知識を得る事だ。
魔力の錬成に、肉体改造。カイルに頼んで国の書物庫に保管されているような神の加護についての記述や神殿の歴史、果ては人体や女性器に関する本を集めて貰った。
一気にやる事が増え、以前のようにただ時間が過ぎるだけの生活とは真逆の、時間が足りないと感じる日々だ。
そういえばユリアが無事神託を授かったとカイルが話していた。
きっとユリアも忙しそうに聖女を演じているだろう。
その姿を思い浮かべて俺は口元を緩ませた。
「おーい、邪魔するよ」
最近は俺が忙しくしているのに気を遣ってか、食事時以外ではあまり顔を出さなくなったカイルがひょっこりと現れる。
「依頼か?」
「依頼というか……ちょっと色々とあってね」
やけに歯切れの悪いカイルは視線を合わせようともせず、ボリボリと頭を掻いた。
「実は——」
「ウィリス君、久しぶり!」
カイルが口を開こうとすると、扉の向こうから一人の女が顔を覗かせた。
「げっ!」
思わずそんな声が出たのも仕方がない。
現れたのは神殿にいるはずのユリアだ。お供は連れていないのか素を曝け出している。
「お、お前——ま、また破ったとか言うんじゃないだろうな? やらん、やらんぞ! 俺はやらんぞ!」
あんな体の奥底の最後の一滴まで搾り取られるような治癒は当分ごめんだ。せめて俺が納得するほどに修練を積んでからにしてくれ。
後退りする俺に、嬉しそうに近づいてくるユリア。
「あのね、ウィリス君。私だって二度もそんな過ちを犯したりしないわよ」
「じゃあ何しに来たんだよ!」
いくら奮起したとはいえ、はっきりいってあの施術は俺にトラウマを与えている。ユリアを見ているだけで力が吸い取られそうな感覚に陥るのほどだ。
早く連れて帰れとカイルに視線を送るが、奴は奴でそんな俺とユリアのやり取りを楽しんで見てやがる。
「結論から言うとね、ウィリス君の弟子になることにしたのよ」
「弟子だあ? お前には聖女って役割がちゃんとあるんだろ? さっさと帰れ!」
「じつは私、聖女辞めたの」
「————はぁ?」
聖女を辞めただと!
「ユリアちゃん、辞めたんじゃなくて辞めさせられたんでしょ?」
「そうとも言うかも」
俺が言葉を出さずにいると、カイルは一つ咳払いをしてから真相を話し始めた。
「当事者を前に僕が説明するのもなんだけどね、ウィリスの施術で神の加護は復活したらしいんだ。でも神託の儀式中に喧嘩をしたらしく……」
言葉を詰まらせるカイルにポツリと言葉が漏れてしまう。
「喧嘩って……誰と?」
「……神様と」
いやいやいや、意味が分からん。
えーっと、力が戻って、神託受けて、その最中に神と……喧嘩?
「だって再生しろって言ってたくせに、次は『我にその身を捧げよ』とかあり得なくない? しかも施術の時に私が力を貸したとかなんとかネチネチと文句言うし。私もカチンときちゃってさ」
いやいやいや、聖女って神に身も心も捧げるのが仕事なんじゃないの?
いや、もしかして精神的な意味じゃなくて肉体的な意味で迫られたの?
「っと、つまり、盛大な喧嘩の後、神様は怒ったらしくて。ユリアちゃんは神の御加護を失い、その場で新しい聖女様が指名されたんだって。神殿にいる事が出来なくなったユリアちゃんは今回の件で貸しのある国が保護したんだけど……何しろこの美貌と元聖女の肩書があるからね。自分が保護すると名乗り出る貴族が次から次へと出てきたってわけだよ」
「だ、だったら貴族にでも保護して貰えばいいだろ!」
「それだとせっかく再生して貰った膜を破られちゃうじゃない」
こ、この発言……こいつ本当に元聖女か?
コイツを崇めていた信者達が泣くぞ!
「ここは人目につかないし、依頼人も女性ばかりだし。めちゃくちゃ安全な場所でしょ?」
「カイルがいるだろ! 言っておくがコイツはなぁ」
「ウィリス。言っておくけど僕は合意のない行為はしない主義だよ」
——くっ。誰だカイルの辞書に合意という文字を入れたのは!
「ほ、他にもどこかあるだろ? とにかくここはダメだ! 絶対にダメだ!」
俺が過剰なまでに拒否すると、カイルが俺の耳元で囁いた。
「ウィリス。どうしてユリアちゃんがここに来ることに国が承諾したと思う?」
「そ、それは……貴族たちの対応が面倒だから」
「それもあるだろうけど、ユリアちゃんが国王に言ったんだ。『ここでウィリスの手技を見れば、私にも同じ事が出来る』ってね」
国王命令かよ!?
確かにあの時ユリアが神の加護を抑えたという事は、俺と同じように自分の魔力のみで抑えた事になる。
膜再生が出来る可能性は少なくない。
俺の迷いが顔に出たのかカイルは一気に攻勢に出る。
「もしユリアちゃんがウィリスと同じ事が出来る様になれば——君は自由の身だよ」
「——ぐっ」
確かに。現状いくら俺が逃げ出した所で国家権力によってすぐに連れ戻されるだろう。
下手すれば、「施術に足は必要無いよね?」なんて足を切断されるかもしれない。
だが、それをユリアが引き受けるなら。
「ほ、本当だろうな?」
「大丈夫だよ。こっちとしても高慢で態度の悪い治癒士より、美人で愛嬌のある治癒士の方がありがたいんだから」
「ぐっ——。分かった」
俺は何かに敗北したかのようにガッカリと項垂れた。
「んふふふふ。よろしくね、ウィリス君」
俺に差し出される白く繊細な指。
いずれ来る自由と引き換えに、俺はその手を受け入れる。
——だが、その事に後悔するのは僅か1時間後だった。
「だから、魔力を指先に集中させてだなぁ」
「無理よ。魔力とか分からないもん」
善は急げと魔力の扱いから教え始めようとした俺は出だしから躓いた。
俺は湧き上がる苛立ちを抑えるように自分の顔を手で覆った。
「お前、俺と同じ事が出来るって豪語してここに来たんだよな?」
「言ったわよ」
「あの施術の時にも手伝ってくれたよな?」
「手伝ったわよ」
「じゃあ出来るよな?」
「無理よ。あの時はなんとなく出来ただけだし」
悪びれもせずに真っ直ぐ言い返すユリア。
「じゃあ、なんで出来るって言ったんだ?」
「言わないとここには来れないでしょ? それに私はすぐに出来るとは一言も言ってないもん。死ぬまでには多分出来るんじゃない?」
大きなため息が漏れる。
つまり俺は騙されたわけだ。
あぁ、未来が見える。
成果が出ない事に苛立つ国。自由になれない俺。
そして逃げ出す俺を嬉々として追いかけるカイル。
俺が絶望にうちひしがれていると、ユリアは部屋に置かれた本を持ち上げる。
分かって選んだのだろう女性器の本を持ったユリアは、とても悪い笑みをこちらに向けるのだった。
「ウィリス君も随分とエッチな本を読むのね。あっ、私の貞操の危機かも!?」
もはや言い訳する気力も起きない。
俺はこれからの生活を思い、たまらなく憂鬱になるのだった。
お読み頂きありがとうございました。