第七十八話 田中の最後(仮
一日の仕事を終えて晩飯を食ってあとはベッドで横になって毛布を被るまでゆっくりできる。
そんな時に熱い珈琲を啜りながら吸う煙草は最高だよな。
珈琲があっての煙草だし、煙草あっての珈琲だ。
俺が思うに、煙草を吸わない奴は珈琲の本当の旨さってもんを分かってないと思うぜ。
缶コーヒー?ふざけんなよ、あんなもんはただの泥水だぜ。
いや、俺は別に缶コーヒーを否定しているわけじゃないぜ。
世の中には色んな奴がいるからな。
歯を折ってからしゃぶらせるのが好きな奴もいれば、相手が女でも肛門にぶち込みたい奴もいるように好き好んで泥水を啜る奴もいるんだろうな、好きにすればいい、否定はしないぜ。
俺はわざわざ女の肛門を使わせてもらう気にはならないし、晩飯を食った後に吸う煙草に合わせるのは泥水ではなく極上の珈琲が良いってだけだ。
つまりそれは岸の淹れる珈琲だ。
岸の淹れる珈琲は最高だ。
コイツは目玉焼きすらまともに作れないくせに珈琲となったら別人になる。
カフェオレを作るとなれば珈琲豆を変えるどころかアイスとホットでも変えてくる。
珈琲豆を挽くなんて電動のフードプロセッサーでも使えば10秒もかからないだろう。
だが岸の奴はもったいぶるように時間をかけて珈琲ミルの取手を回す。
そりゃあな、厳選してブレンドした珈琲豆だ。それを手回しの珈琲ミルに入れてな、よく分からんネジかなんかを操作してから挽いていくわけだ。そこまでするならそのハンドルを回す速度も重要なんだろう。
岸は珈琲ミルのハンドルをゆっくりと回す。
でもよ、もうそのヤカンの中身は沸騰しているだろう。蓋がカタカタと鳴って「もういいだろ!?」と思っているのは俺だけじゃないはずだ。
だが岸の奴はとっくに沸騰しているって言うのにコンロの火を弱火にして両腕を組んで仁王立ちだ。
岸の淹れる珈琲は最高だ。分かっている。
でも、その弱火は何の意味がある?もう沸騰しているだろ。
早くこの目の前のタンブラーに添えられた特製ブレンドを入れたドリッパーに熱湯を注いでくれよ!
6万円のコーヒーケトルとやらを使えばその仁王立ちが省けるのなら早く買ってくれよ!
だが後藤は急かすようにタンブラーに手を伸ばすことも無いし、もちろん「もう沸騰しているだろ?」などと言うことも無い。
俺には最高の珈琲を淹れるコツって物が何なのかは分からない。
だが、最高の珈琲を淹れてもらうコツってもんくらいは分かる。
それは黙って待っているという事だ。
珈琲を淹れる岸の一挙手一投足を黙って見ているってことが美味い珈琲を淹れてもらうコツってもんなんだよ。
「もう沸騰しているだろ?」
そんなことは岸だって分かっている。
だがコンロの火を弱めて両腕を組んで仁王立ちしている。
何か意味があるんだろう。俺には分からないがな。
分からないなら待っているか、近所の自販機に行って泥水を買ってくるほかない。
泥水を飲みたくなけりゃ、黙って待っていろと言うわけだ。
後藤はポケットの中の振動を感じた。
デバイスだ。
コンロに向かって仁王立ちをする岸の背を見てデバイスを取り出した。
これは!?
後藤は何度か指をスライドさせてからデバイスをポケットにしまった。
そして岸の様子を見る。
岸はやっとコンロの火を止めてヤカンを手にした。そして振り返る。
岸はこれまたゆっくりと二つのドリッパーに熱湯を注いでいく。
岸、今すぐそのヤカンを置いてポケットからデバイスを出せ。
後藤はそう願うが岸は珈琲を淹れる手を止めない。
いや、気が付いているはずだ。
気が付いていないのならそれは大問題だし、気が付いているのにそれなら、それはそれでもっと大問題だ。
だが岸は変わらずゆっくりとドリッパーに熱湯を注いでいる。蒸らすかのようにその手を止め、少し待ってからまた注いでいく。
岸、デバイスを確認しろ。頼む。
お前のポケットの中で振動したはずだ。
それはスパムメールの通知ではないし、SNSでイイね!された通知でもない。
デバイスの通知。それは命にかかわるものだ、今すぐに確認するべきものだろう?
お前がこのゲームに心底ウンザリしているのは知っている。
生き抜く方法より抜け出す手段を知りたがっているのは分かっている。
だがそれは目を逸らしたところで何の意味もない。見なければ消えてくれるわけじゃないだろ。
岸、お前はあの時に俺を殺さなかったよな。お前は俺のこめかみにドライバーをあて、少し力を入れてそれを押し込めば俺を殺せた。
だがお前はやらなかった。
その気持は分かる。
デバイスを確認しろ!
だが岸は二杯の珈琲を淹れ終えると一つを後藤の前に置き、もう一つに手を伸ばした。
だが岸の手は自分のタンブラーに手を伸ばした寸前で止まる。岸は諦めたような表情で下唇を噛むとポケットからデバイスを取り出し確認した。
「これは!?」
「どうした?」後藤はそこに何が表示されているのかはもちろん知っている。後藤が送ったのだから。
「田中さんが・・」
「田中さん?なんだ?」
岸がデバイスを差し出し、後藤が珈琲を啜りながら覗き込む。
「バウンティ?田中さんが……?」
「どうする?」
どうするって言われてもな。
後藤は自分のデバイスを取り出した。
岸はタンブラーには手を伸ばさず、後藤を見つめている。
助けに行こう!と言うわけでもなく、放っておこうと言うわけでもない。ただ後藤の判断を待っている。
後藤はデバイスをしまい立ち上がる。
「どうする!?」
「放ってもおけないだろ」
「助けるのか?」
そう言う岸の考えは分かる。
バウンティに載った俺を見たときと同じ気持ちだろう。
「行ってみるが、どうする?」
岸はその顔に少し希望を宿しながら頷き、二人は田中の下へと向かう。
二人はCX3に乗り込み上野桜木へと向かった。
「どうするんだ?」岸は聞くがお前が何を考えているのかは分かるぜ。お前が考えているのはあの公園の時と同じだろう?つまり、何も考えていない。
殺すつもりでもなければ、助けるつもりでもない。
自分じゃ決められないから俺に付いてきただけだ。
俺の時みたいに仲間に入れるか?
それは無理だ。田中さんは警察官なんだからな。
明日から一緒に人を殺しましょうなんて出来るわけがない。
それにあの時の俺は敵を殺した。田中さんにそれができるか?
出来たとして、田中さんがそれを放って逃げると思うか?
だが行ってみるしかない。
田中は立ちすくんでいた。
通報することも、立ち去ることもできずにいた。
あれば瑠衣さんのしたことなのか?
何度も何度も考えた。もしアレが鈴木でなかったのなら一縷の望みはあったかもしれない。
だがあの死体は鈴木だった。鈴木は瑠衣さんをあきらめきれずに付け狙っていたのだろう。瑠衣さんが関わっているのは間違いない。
なら逃げるか?何も見なかったことにしてここから立ち去るか?
それも無理だ。警察官としてそれは出来ない。
だが田中は心の何処かで、アレを見なかったことにすれば何かの間違いだったとなるのではないか?
そう思い込みたかった。
その思いからか田中はフラフラと歩き瑠衣のマンションから少しずつ離れていた。
交差点で止まり後ろを振り返る。
まだ離れていない。逃げたことにはならない距離だ。
田中は踵を返しマンションに戻り通報することも、首を振って逃げることもできずまた立ちすくんだ。
交差点の信号は赤だった。
田中は背後から突き飛ばされた。
そこへ1台のSUVが突っ込んでくる。
田中はかろうじて身を翻したがSUVのサイドミラーに右腕をぶつけた。右前腕に激痛を感じ顔をゆがめながらも背後を振り返った。
そこには驚いた様子の歩行者が数人いるだけだった。
なんだ!?
SUVのミラーは衝撃で折れ、数メートル先に転がっていた。
田中は痛みが走る腕を押さえ周囲を見渡す。SUVはそのままブレーキランプすら点けることすらなく走り去った
幾人かと目が合ったが、すぐに目をそらした者がいた。それは明らかに不自然だった。目が合ったというよりこちらを見ていた。そして意図的に目をそらした感じがする。
何だ!?
田中は身の危険を感じた。
殺されかけたのだ。
なぜ?
考えるまでもない。鈴木の死体を見たからだろう。
だがなぜ!?
………瑠衣さん、なのか?
田中は周囲に目を配りながら足早に動き出した。
だがすぐに危機を感じ取る。警察官としての感覚が訴えてきた。
つけられている!
命を狙われている?ここは日本だぞ!それに俺は何か世界を揺るがすような秘密を知ってしまった男でもない。
ただ、死体を見ただけだ……。
鈴木の死体も、命を狙われているという感覚もまるで現実的ではない。
だが田中は警察官として培ってきた自分の感覚を信じ、周囲の気配に気を配る。
前方から両手をジャケットに突っ込んだまま一人の男が歩いてくる。
足元に目を向け田中を目を合わせないようにしている。
そんなに足元を見て歩くのなら浮浪者のふりでもするか、スマホでも手にしていればまだ自然だろうし、逆にジャケットのポケットの中で何かを握り込んでいるのは恐ろしく不自然だ。
田中はその男から目を離さないが背後への注意も怠らない。忍び寄ろうとするかすかな足音も聞き逃すことはないだろう。
前方の男が顔を上げ田中を睨みつけた。
「あぁ!?何だテメェ!ガンつけてんの……」
田中は即座に反応し男の右腕を抑え足を払うと同時に頭を壁に叩きつけた。
男が軽く叫び声を上げ蹲ったところを蹴り倒し、背後を振り返った。
近くにいた数人は突然の暴力沙汰に驚いいた視線を田中に向けていた。
「落ち着いてください、警察です」
田中は制するように両手を広げ訴える。
周囲の人は田中と、頭から血を流す男を交互に見て訝しげな表情を浮かべていたがそうではない者が一人いた。
ジャケットから出しかけていた手を引っ込め視線をそらすように近寄ってくる。
田中は走り逃げ出した。
あの手には何か握られていた。
ナイフならまだいい、もちろんその所持は違法ではあるがまだ現実的だ。だが男の握った拳の指の間から飛び出していた物が光り見えた。映画に出てくる暗殺者が持つ特殊な武器のようだった。
田中は怯え、恐怖に囚われた。
鈴木の死体。突き飛ばされ車に轢かれかけ、車は逃げるように走り去った。男が突然絡んできた。そして得体のしれない凶器を隠し持つ男。
警察官の感と言ってもテレビで見る密着ドキュメンタリーのような第六感などない。だからこそ色黒の外国人が不当な職務質問を受けたなどと訴え出たりするのだ。
だが警察官の感と言うものは全くないというわけではない。
少なくとも田中にはある。誰が狙ってきているのかなどと分かる訳では無いが、20年以上の警察官人生が「逃げろ!」と喚き立てている。
だが人を突き飛ばして走るわけにもいかない。一般人かもしれないと気にかけているわけではない。突き飛ばそうとした男が田中の脇腹をそっと触るかもしれないのだ。その手には何があるのか分からない。
田中は通行人から距離を取りつつとにかく逃げ出した。
どこに?
分からない、とにかく逃げろ!
「田中さん!」
名前を呼ばれ田中はビクッと体を震わせ壁に背をつけ周囲を見渡した。
道路の反対側の車から手を振る男がいた。
岸?エビス屋の岸だ。運転席にいるのは後藤……くんか。
周囲を見渡し田中は道路を渡り助手席の岸に助けを求めることにした。とりあえずここから離れるんだ!
「あぁ岸くん、それに後藤くん、ちょうどよかった、良ければ乗せていってくれないかな?」
岸くんが後藤を振り返った。
それもそうだろう、いきなり車に乗せてくれと言われるほど二人と仲が良いわけではない。
「田中さん、今から松さんのところに行くんですけど、一緒にどうです?」
願ってもない!
「あぁ行きます、お願いします!」
田中が車の後部座席に乗り込むと後藤はすぐに発進させた。
ひとまずは助かった……のか?松さんのところなら通行人の目は届かないし、いきなり襲われることもないだろう。なにより車に轢かれることもない。
「お茶でも飲みますか?」後藤がそう言って岸に目配せをした。
岸が田中にペットボトルのお茶を差し出した。
喉がカラカラだった田中は礼を口にし一気に半分ほど飲み干しようやく一息つけた気がした。
「ありがとう」
しかし、エビス屋の二人が浅草の松のところに行くのになぜこんなところに?
そう訝しむ程度にまだ田中は冷静だった。
だが体の力が抜けていく。目が開けていられない。
まさか!この二人も!?
田中は気を失いかける瞬間にあのホームビデオカメラに入っていたテープの存在を思い出した。
後藤。やはりあれは後藤だったのだ……。




