第七話 田中さん(フラグが立ちました)
田中は黒タイルのビルと古ぼけた灰色のビルの間の細道を前にして迷っていた。ここはあのエビス屋という酒屋の、後藤と言う男が出てきた隙間道だ。つまりこの先にはエビス屋の顧客である飲み屋があるのだろう。実際にこの奥からは酔客が楽しむ声が聞こえてきていた。
しかし、この道とは言えない細い隙間を進むのはなぜか躊躇われた。
それはビルの黒タイルに貼られた「私有地に付き立ち入り禁止」と書かれた張り紙のせいだけではなかった。
田中の中の何かがこの隙間の向こうに進むことに警告を発している気がする。第六感と言うか、本能とでも言えばいいか。
中学生時代からの30年来の親友、花藤は言っていた。
「迷った時はさっさと直感で決めろ」と。
高校から警察官への道を進んだ田中に対し、高校から自衛隊へと進みレンジャー候補生へ足をかけ、そこを駆け上がり尉官を受け佐官まで上り詰めかけた男の言う言葉には重みがある。
自衛隊実戦部隊のエリートである普通科レンジャー部隊の教育課程をトップで修了した花藤の言葉の真意は「成功するにしろ失敗するにしろ、正しいかも間違っているかもわからずにただ決めかねているだけならば、そこで迷うのはただ時間を無駄にしているだけだ」ということだったが。迷った分だけ成功を得るのが遅くなり、迷った分だけ間違いを正す時間が失われるという意味だった。
田中の直感は迷うことなく帰れと言っていた。帰るべきだと田中は思った。
しかしあの後藤と言う男があの時の顛末を監察に対し苦情を入れるのか入れないのかをただ待っていることは難しかった。
あの頑丈そうなゴミ袋を裂いて中身をバラまいたわけではない。ちょっと仕事の邪魔をした程度の事だ。その程度で苦情を入れてくるとは思えないが邪魔をしたのが鈴木巡査となると話は別だ。あの、人をイラつかせることに関したら隅田川署随一と言っていい鈴木巡査の相手をさせてしまったのだ。
今更ではあるがそのことに関しては後悔している、鈴木巡査に僅かな後ろめたさがあったからではあるが。
普通ならその程度の苦情はかすり傷程度の物だろう。田中も、そして監察も気にも留めずに流すだろう。だが今は別だ。今はかすり傷一つ負わずに綺麗な身体でいなくてはならないのだ。今は、ほんの小さな傷一つが致命傷になりかねないのだ。
スマホで(エビス屋 酒屋)で検索してもそれらしき結果は出てこなかったし、ここに隙間道の先に後藤がいる可能性は低いだろう。酒屋が顧客である飲み屋に酒を運んだその夜に客として来店しているとは思えない。
だが、家に帰り(今、あの男がスマホを手にしたかも・・)と思い悩みストレスを溜め続けるくらいなら何か一つでも手がかりをつかみたかった。もちろん何もつかめないかもしれない。だが見つけられなかったとしてもそれに対してまた違う対応を見いだせるだろう。じっと待つなどという事は今の田中には難しい選択だった。
警部補になれるか、このまま一生巡査部長で終えるかという大きすぎる人生の岐路なのだ。片方は明るくやりがいに満ちた人生。もう一方は薄暗く細く平坦な道をゆっくりとただ歩き続け、キャリアや準キャリアといったエリート後続者に抜かれ続ける人生。
何もせずに、ただ待つという事は難しかった。だが、田中の奥底の本能ともいえる何かは「行くな!」と言っていた。
しかし、田中は隙間道に足を踏み入れた。
この一歩で田中の人生は大きく、大きすぎるほど曲がってしまう。いや折れるのだ。彼の人生はこの一歩で折れることになったのだ。
後藤と言う男は間違っても監察に苦情を入れるような男ではない。なぜなら大量殺人犯だからだ。数多くの殺人を繰り返してきている人間が、そしてこれからも多くの殺人を繰り返していくであろう人物が自ら警察機構に近寄っていくようなことは決してない。
だが、もちろん田中はそんなことは知らない。だから一歩を踏み出してしまった。決して近づいてはならない男、後藤に近寄ってしまった。
直感に従い踵を返し帰宅していれば田中は次の昇進試験で警部となる渡部と共に警部補となり捜査一課に入り、それを機に幸せな結婚をし、渡部以上の敏腕刑事となって波乱万丈だが概ね順風満帆な警察人生を送り、母親には十分すぎるほどの親孝行を施し、田中にとって何よりも大事な存在である母の安らかな死を看取ることが出来ただろうし、母はその時を最愛の子ともしかしたら孫たちにも囲まれ迎えることが出来たかもしれない。
しかし田中は致命的な一歩を進めてしまった。
だから田中は警部補になることもなく、もう幸せな結婚をすることもない。
最愛の母親がいつか迎えることになるであろうその死を看取るどころか、欧州を旅行中で今月中には帰国する予定の母を迎えに行くこともない。
この一歩で田中の運命は、警察官としての田中の人生はあと十日足らずで終わることになった。田中は数日後に小さな青い箱にその身を収めることになるのだ。