第七十六話 フリーズする田中さん
田中は上野桜木に向かい照間瑠衣が住むマンションの様子を伺っていた。
高橋署長に苦情と探りを入れた後に署へと戻り私服へ着替えてからここに来た。
瑠衣さんに電話をするべきか迷っていた。
何一つ連絡を入れることなく欠勤した鈴木巡査と連絡が一切取れない。自宅に電話をかけても出ることは無く携帯電話は電源を切っているようで繋がらない。
鈴木と言う男は、よく警察官になれたものだと思うほどに身体もその中身も実に矮小な男だ。
弱者には強く強者には媚びへつらうどころかどころかその視界に入らないように身を隠すような男だが、そのくせ警察官の制服を着ると、手を出せないだろう?とばかりに酔虎やチンピラの前で胸を張れるような男だ。
まともに女性と関係を持ったことも無かったのだろう、奇跡的に照間瑠衣という女性と付き合えたというのにまるで下僕のように扱いその関係もすぐに終わった。
鈴木と言う男は自身の矮小さを理解しているのだろう。だから誰とも対等な関係と言う物を築くことが出来ないのだ。
それ故、警察官の制服を纏った時にだけ発揮されるあの歪んだ権力欲だ。自分の矮小さを理解しているからこそ警察官である自分に手を出せない者達を相手に優越感に浸れるのだ。
昨日までは鈴木巡査は自分の部下だったが自分はもう浅草寺交番のハコ長ではない。今日、鈴木巡査が何をしでかそうとも知ったことではないと突っぱねることは出来る。
実際そうだ。鈴木巡査の事など知ったことではない。無断欠勤だろうが何だろうが好きすればいいい。
だが照間瑠衣は別だ。
クソ!あのバカ!
田中はスマホを取り出し鈴木の番号をタップする。
「この電話は・・・」
クソ!田中はスマホをしまいマンションの向かいのコンビニエンスストアへと足を向けた。
時刻は夕方四時、陽が陰り始め気温が下がってきた。あそこなら寒さに凍えることも無くマンションの出入りを監視できるだろう、もしかしたらと僅かな期待を持っていたが、もちろんそこに鈴木の姿はなかった。
田中はマルボロを一つ買い求めコンビニを後にしマンションへと足を向けた。
田中はマンションの入り口で立ち止まった。
テンキーで暗証番号を打ち込まないとマンションのエントランスへのドアは開かない。
鈴木はこれを突破できるだろうか?出来るだろう。
「あのぉ・・・」
背後から声をかけられた。
このマンションの住人だろう、子供を連れた女性がセキュリティの前で固まる田中に訝し気な視線を向けてきていた。
ここで踵を返してはまさに不審者だ、田中は軽く会釈を返しパスワードを打ち込むとドアが開いた。
子連れの女性は見慣れない男とマンションのエントランスに入る気はないようだった。
田中がマンション内へと足を踏み入れエレベーターのボタンを押し中へと入り振り向き、最上階のボタンを押したところでようやく女性はテンキーに手を伸ばしたようだった。
瑠衣の部屋はマンションの屋上にあると聞いている。
セキュリティの暗証番号も聞いている。瑠衣の携帯電話の下四桁だ。鈴木がこれを知っていたかは分からないが試してみたとしても不思議ではない。
エレベーターはすぐに最上階へとたどり着き田中は周囲を見回した。
あれか?
それほど大きなマンションではない。通路の奥にさらに上へと向かう階段があった。
田中は階段を上がりドアの前に立った。
しばし躊躇したが確認しなくては何一つ安心できない。
田中は鍵を取り出し差し込んだ。この鍵は瑠衣から渡されていた合鍵だ。
いつでも来てね。瑠衣はそう言ってこの鍵を渡してきたが田中は使うつもりはなった。女性の住まいに上がるのならば二人一緒に。鍵を受け取ったからと言って勝手に上がり込むつもりはない。そう、今までは。
田中は受け取った鍵を使うつもりは無くすっかり忘れていた。
開かないでくれと言うわずかな期待もむなしく当たり前に鍵は回る。
田中はゆっくりと鍵をしまいドアを開け屋上へと出た。
そこにはこじんまりとした居室?建物があった。脇に青い大きなバレルが置かれ微かなモーター音が聞こえてきた。
マンションの屋上にこうした建物があるのは珍しい。これなら隣室や上階の騒音の心配もなく家賃も安くはなさそうだ。
いや、今はそんなことはどうでも良い。
まさか鈴木がここまで入ってこれるとは思えないが全てを確認するまでは安心できない。
田中は屋上の建物のドアの前に立ちドアをノックししばし待った。
反応はない。もう一度ノックをするがやはり反応はない。
田中は鍵を取り出し差し込み、そしてドアを開けた。
耳を澄ませるが何も聞こえない。
「瑠衣さん、田中です」
瑠衣がいないのは分かっている。もし瑠衣がいるのならばセキュリティに暗証番号を打ち込んだ時点で反応があるはずだ。
田中は中へと入る。左手にドアが二つ並んでいて奥にはキッチンが見えた。
まずは手前のドアを置開けた。そこはトイレだった。誰もいない。
次のドアを開ける。そこはバスルーム。やはり誰もいない。
奥へと足を進めた。
そこは広く、ダイニングキッチンと言う奴だろうがベッドが置いてあり、それ以外に部屋は無いようだった。一般的なワンルームとは違い、寝室が無い。
マンションのオーナーがパーティーでもやるために作った趣味の部屋。瑠衣に聞いていた通りだった。
念のためクローゼットも開けてみたがそこには瑠衣の服が並んでいただけでやはり誰もいない。
田中は安堵し、少しの罪悪感を覚えながら部屋を出て鍵をかけた。
鈴木がどこにいるのかは分からない。別の場所で瑠衣さんを狙っているのかもしれないし、このマンションに入った私をどこからか監視しているのかもしれない。
少なくともここにはいなかったことでわずかな安堵を得ることは出来た。
帰ろう。そう思い屋上へと上がってきたドアに手をかけもう一度振り向いた。
あの青いバレルは?青い大きなバレルが三つ置かれ小さなモーター音がしている。
雨水を貯めておく装置か?だが屋上には雨水を使うような庭園どころか一鉢の植木すら無い。風呂か洗濯に使うのか?
マンションの屋上に趣味の居室を備えておいてそんなケチ臭いことをするか?それに屋根から落ちる雨水を貯めるにしてもここにはその屋根がない。
瑠衣さんが設置したのか?しかし、なんだ?
田中は青いバレルに歩み寄りその蓋を開けてみた。透明な液体で満たされていた。やはり雨水か?
いや違う、ホースが繋がれており水が供給されているようだ。何だこれは?
もう一つのバレルを開けてみるとそれにはやはり透明な液体で半分ほどが満たされていた。
匂いはないが水ではないか?少しだけ指で触れてみる。指をこすり合わせながら舐めてみようとしたが洗剤のようなヌルヌルとした触感で反射的にズボンで拭った。だがヌルヌルとした触感は消えず何度もズボンに擦りつけた。
アルカリ溶液か?キッチンで使う漂白剤のような感じなのだが、ほんの少し指先に触れただけなのだ。アルカリ溶液だとするとだいぶ強力な物の様だ。
何だこれは。
田中は最後のバレルを開けてみた。
途端にひどい悪臭が鼻を衝いた。咄嗟に顔を背けるも視線はそれを見ていた。
田中はバレルの蓋を元に戻し逃げ出した。
エレベーターを待つ余裕すらなく階段を駆け下りマンションを出た。
だがそれ以上は動けなかった。
最後のバレルの中身は鈴木だった。
バレルの中身は半ば溶解した鈴木だった。
頭皮が剥がれ落ち顔面も溶けており、人だろうという事が辛うじてわかるほどに溶解していた。
酷い悪臭は山井那奈を救出した時に嗅いだものと似たような物だった。それは人の死臭だ。
ヒトの死体と言う物はそれ自体はさほどの匂いは出さない。スーパーマーケットの精肉コーナーで悪臭がしないのと同じだし、葬式で棺桶に収められた死体が悪臭を出さないのと同じだ。
だが山井那奈を助けた時のあの部屋の悪臭、それは彼女が彼らを切り刻み過ぎたからだ。
アレは血と混ざりあったヒトの消化器官の内容物の匂いだ。端的に言えば胃の中の未消化物や腸の中の便だ。当然酷い悪臭を放つ。
あのバレルの悪臭は、死体の内臓までもが溶解しその内容物が零れ出ていたという事なのだろう。
そしてアレは鈴木だった。
鈴木がかけていた厚いレンズのメガネが浮いていた。
田中はマンションの前に立ちすくみ胃液の逆流に耐えていた。
そして、一歩も動けなかった。
ポケットの中のスマホに手を伸ばせない。だが逃げることも出来なかった。
ここから逃げると言う事は犯罪を見逃すという事になる。
だがスマホを取り出し電話をするという事は、瑠衣さんを・・・・。
アレは瑠衣さんのしたことなのか!?
瑠衣さんが鈴木を殺したのか!?
瑠衣さんにフラれた鈴木が逆上し彼女を狙い襲った。彼女は反撃し鈴木を殺した。
結果的に鈴木を殺したのならば鈴木の行動如何では正当防衛ではあるかもしれない。
だがあのバレルは?
どうする!?
私は何も見ていないとこのまま去るか?
田中はマンションを振り返り見た。
駄目だ。マンションに入った姿が防犯カメラに写っているだろうし、あの子連れに見られている。
連絡しなくては!
だが田中はどうしてもポケットからスマホを取り出せなかった。
瑠衣さん・・・。
何かの間違いでここは瑠衣さんの住むマンションではないのかもしれない。
田中はポケットに手を伸ばしスマホを手にした。だがどうしてもポケットからスマホを取り出すことが出来なかった。
なぜだ!どうすればいい!?
田中は去ることも通報することも出来ずにその場に立ちすくんでいた。




