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第七十五話 田中くん

ピーピーピー!!

ベッドの脇に置いた小さな置時計が鳴り響くと田中は起床し、首と腕を伸ばし肩を回してから目覚ましのスイッチをオフにする。

本日の役目を終えた小さな置時計はまた静かに時を刻んでいく。また明朝の役目の時まで。

このSEIKO製の置時計は7000円もしたというのにそれ以外に何一つ機能を持たず、スヌーズ機能すらない。


まあ、そのおかげで田中は目覚ましを止めたら二度寝することも無くすぐに起き上がり洗面所で顔を洗うようになった。


この小さくシンプルなSEIKOの置時計は7000円もしたというのに時を刻むことと毎朝6時に田中を起こすこと以外の機能は何一つない。


この時計は20年近く前に田中が一人暮らしを始めるにあたって買った物で、家電量販店で特に考えもせずに手にしたものだ。

5万円のダイソン製の送風機とパナソニックの4万円の空気清浄機と共についでに買った物で値段など気にせずに手に取っただけなのだが、あとからクレジットカードの請求書を見て税込み8000円近いものだと知ると驚いた。

驚いて、何か特別な機能があるのだろうと思い取扱説明書を取り出し隅々まで見てみたが時刻とアラームの設定の仕方以外は何もなかった。本当に何もなかった。スヌーズ機能すらないのだ。

取扱説明書は折りたたまれていることも無く、裏も真っ白だった。

本当に何もなく時を刻みオマケのようにピーピーと鳴るアラーム機能があるだけ。日付の設定も無く午前と午後を区別することも無く、当然曜日の設定も無く日曜だろうが非番だろうがまるで関係なく毎朝六時に田中を起こす。

それが7000円!!

世界に名だたるSEIKOならば盤面に記されたその5文字の一つずつに1000円の価値があるのだろうと思い自分を慰めたものだった。


朝6時にこの小さな置時計が鳴り響くと同時に寝室の照明が点き、洗面台の蛇口からはお湯が出てトイレの便座も部屋もすでに温かい。当たり前だ。そのように時刻を設定しているのだから。

だがそんな当たり前の生活をしているつもりでもアラームが鳴っても照明は点かず蛇口からはお湯は出ずにトイレの便座は冷たく、部屋はまだ夜の冷たさを保っている。

そのたびに照明に温水器やトイレや暖房の時刻を修正することになり、ついには諦めて30分前に設定するようになる。照明は別だ、無駄に30分も前に顔を照らされ起こされるのはたまったものではない。

だがこの7000円もしたSEIKO製の小さな置時計だけはいつも正確にアラームを鳴らす。

時刻を調整したのは一度だけ。

田中がこの小さな置時計には間違いなく7000円の価値があると悟ったのは、購入してから数年が経ちベッドにつき毛布をかぶり寝ようとした時に針が止まっていたから電池を替えた時だ。

SEIKO製の小さな置時計。


田中は簡単に朝食を済ませる。本当に簡単なものだ。

食パンにクリームチーズを塗りたくり、押し込む様に口に入れトマトを齧り牛乳で流し込む。

もう一度洗面台の前に立ち念入りに歯を磨きネクタイを締め鏡を見つめジャケットを羽織り玄関のドアを開け腕時計を見ればきっかり6時35分。腕時計も、もちろんSEIKO製だ。

寝室に置かれたSEIKO製の小さな置時計も同じ時を刻んでいることに安心して田中は家を出る。




浅草寺交番に現れた田中に西川巡査部長は少し驚いた声をかけた。

「あれ?部長?」

「おはよう、鈴木くんは奥か?」

田中はもう朝の挨拶すらまともに出来ないのかとは咎めたりはしない。

「鈴木さん?いえ、まだぁ・・その・・」

「まだ、なんだ」

「いえ、鈴木さんはまだ、来ていません」

「来ていない?病欠か?」

「いやぁ、連絡は聞いてはいませんけど・・」

まったくこいつらは一つ一つ・・・。

田中はそうは思うが顔には出さない。

無断欠勤という事か?そこいらの企業ならまだしもここは警察機構だ、無断欠勤など許されない。

だが、鈴木が無断欠勤?

西川ならばまあ始末書を書かせれば済むこと、言うなればいつもの事だ。

昨晩飲み過ぎたなどと酒臭い息を吐きながら遅刻することは少なくない。が、説諭をしてもあまり意味はない。ヘラヘラと薄笑いを浮かべながら頭を下げるだけだ。

遅刻くらい大したことではないと思っているのだ。少なくとも西川は遅刻の連絡くらいはしてくるし、実際問題大したことではない。

毎月毎月となれば話は別だが、この男はそこら辺の塩梅は充分に理解しているのだ。悪い意味で要領が良いのだ。

だが鈴木は違う。そう言った塩梅と言うか要領の良さは持ち合わせてはいないし、何より酒を飲めない。無断で欠勤する理由がない。


田中の脳裏にいやな予感が浮かぶ。

照間瑠衣。

まさか・・・。

失恋に悩み、呑めもしない酒を呑み過ぎて今頃頭痛に頭を抱えているのなら肩を叩いて慰めてやりたいくらいだ。

だがそうではないとしたら?

瑠衣を付け狙う鈴木の姿が頭をかすめた。その手に盗撮用のスマホが握られているのならまだ安心できるが。


「おはよう!!」

田中の不安はその声でかき消された。

田中が振り向くとそこにいたのは・・・。

「おはようございます。あなたは地域課の・・」

「下川だ、キミは田中君だね。よろしく」

下川はそう言って手を伸ばし田中はそれに答え握手をする。

地域課の下川。階級章の旭日章、いわゆる桜の代紋の下に広がる桜の葉が金色で左右一本の縦線、つまり警部補だ。年齢は私よりはいくつか上だったか。

「キミは西川くんかな?よろしく」

下川はそう言って西川にも手を伸ばす。

「下川さん、今日は何か?」

まさか鈴木が何か!?

「何かって?引継ぎだろう」

「引継ぎ?何のですか?」

鈴木の事ではなくひとまず安心はしたが、引継ぎとは何の事だ。

「いや、正式には来週からだがこのハコの事を色々と知っておこうと思ってな」

何の話をしているのかまるで分らない。

「部長、聞いていないんですか?」

西川が口を挟む。

「何をだ」

西川の代わりに下川が答えた。

「来週から私がここのハコ長だ。聞いてなかったのか」

田中は呆然としたが「では後は任せます」それだけ言って浅草寺交番を後にした。


「なんだあれ」

下川は走り去る田中の背を見て呆れるように言い西川も鼻で笑うように答える。

「さあ?」

「確かあの男は失踪女性の事件への関与を疑われていたな、もうすぐいなくなるってことか」

少なくとも下川よりは田中を知っている西川はさすがにそれには同意をするつもりはなかったがこれから上司となる男に忖度するくらいの処世術は身に着けている。

「大変ですね」


田中はすぐに隅田川署へと走り、署長室へと向かった。

「署長は!?」


またこのオッサン?

署長秘書の玉本は呆れた顔で応対をする。

「いません」

「どこだ!」田中は拳の玉本のデスクに置き問い詰める。

「さあ?今日はお休みです」少しばかり怯えた玉本は答えるがハコヅメの制服に素直に答える気にはなれなかった。まだ。

「どこだと聞いているんだ」田中の拳がデスクを叩く。

「さ、さあ?お休みですから」

田中は拳から一本の指を立て玉本を差して問い詰める。

「なら署長もいないのになぜこんなところに座っているんだ、署長はどこだ!」

「その、署長は忌引き休暇です。お兄さんが亡くなったとかで・・・」

田中の迫力に押され玉本は素直に答えた。

玉本が署長のプライベートを許可も得ずに口にしたことを後悔する間もなく田中は背を向けて出て行った。

クソ!なにを考えている!本当に私を下に置くつもりなのか。

田中は高橋署長の実家のある根津へと向かった。


根津。

上野不忍池の東側に位置するいわゆる下町だ。

東京で山の手と呼ばれる土地と下町の違いは大まかに言えば台地か低地かだ。

かつての江戸では水害など自然災害の少ない高台に武家屋敷などが多く置かれ上流階級の町とされた。

対する下町は商人や職人が多く住む地域だ。江戸時代の主な流通網であった水運にアクセスしやすい地域、つまりは隅田川や神田川、それに付随する運河に近い低地という事だ。

根津は台地と低地の中間にあり山の手ではないが、下町とも言い切れないいささか特殊な地域だ。

金持ちが目を向けにくい高級住宅街とでも言えばいいか。


そんなところにある高橋署長の実家は大きかった。一言で言えばお屋敷だ。

塀に囲まれ、樹齢百年はありそうな太い木が何本も生えている、そんな家だ。

今日、そこに出入りしている人たちは皆が皆、喪服を着ている。田中は当然警察官としての制服のままだ。

だが田中は自身の服装を気にすることも無く門前提灯の間を進み門をくぐり、記帳の為に据えられた机に向かい一応、記帳は済ませ呼び止めようとする声を無視して奥屋敷へと足を向けた。

幸い、こんな日では声を荒げて乱暴に呼び止める者はいない。

庭園を進むと開け放たれた座敷が見え縁側へと進むと僅かな騒動に顔を上げた高橋署長と目が合った。

隣でうなだれたままなのは父親だろう。

高橋署長はすぐに立ち上がり縁側へと出てきた。

「なんだ、何しに来た」

「今日ですね、ハコに下川さんが引き継ぎに来たものでね。私にはなんのことか分からなかったのでお伺いに来たんですよ」

「こんな日にか」高橋署長は語気を荒げるのを我慢しつつもその表情は感情がまるで抑えられてはいない。

「まずかったですかね」

高橋署長はいったん戻り父親に何事か耳打ちしたが、息子を失ったばかりの父親はうなだれたまま顔を上げもしない。

「こっちだ」

田中は高橋署長にうながされるままに後ろを歩いた。


二人は屋敷の離れへと移動した。

それは普段は客の応接に使われているのだろうが、離れとはいえ普通の平屋と言えるほどの大きさだった。

「デカいですね」

田中は思わずかつて住んでいた杉並の自宅を思い出す。敷地面積は高橋家の方が広いだろう。杉並のかつての自宅はプールがあり洋風で二階建ての母屋があった。

この高橋家を見てしまうと田中、いや仲田家の自宅はバブル成金の趣味の悪さが全面に出ていたものだと実感してしまう。

敷地は土塀で囲まれ、母屋も離れも木造の平屋でもう一つ建っているのはおそらく家政婦の為の物だろう。それでさえ小さいとは言えないほどだ。庭園と言う感じではないが幹は太く枝葉を拡げる庭木が浅くはない歴史を感じさせる。


すぐに家政婦がやってきたが高橋署長は、何も必要ないと言い下がらせ二人は離れの座敷で座卓を挟んで向かい合った。

さっそく高橋署長が口火を切った。

「下川の転属の件はすまなかった。もちろんキミにも伝えておくつもりだったのだが、こんなことになってな・・・」

「お悔やみを申し上げます」

「・・・ああ」

高橋署長はうなだれるというより視線を避けるように顔を下げため息をついた。

確か高橋署長の父親は64歳。無くなった兄は44か?45だったか。田中とほぼ同じだったはずだが。

「ご病気ですか?」

「そうだ」

高橋署長は顔を上げずに答えた。

「癌とか?」

「それが君に関係あるのか?」高橋署長はようやく顔を上げた。

「いえ、御父上はだいぶやつれていたようですが署長は、それほどと言った感じですね」

高橋署長は眉をひそめて田中を見たが小さく頷き答える。

「父があの様子では私がしっかりしなくてはな。それに兄は病弱であったし少なくとも私は、多少の覚悟はしていた」

田中はここでも高橋署長に揺さぶりをかけるつもりだったのがさすがにこれ以上は気が引けた。

「ご愁傷さまです」

高橋署長はそれに答えるように小さく頷き再びうつむいた。

「で、今日は何だ。下川の件だけできたわけではないだろう?」

「ええ、山井さんに面会してきました、これを」

田中はそう答えて一枚のメモを差しだした。

それは山井那奈、いや、なっちゃんとの話をメモしたものを改めて書き直したものだが、もちろんすべて書いたわけではない。

「解離性同一性障害?多重人格という事か?」

「私見ですが」

そうだ、私見だ。もちろん田中は精神科医などではないし、なっちゃん以外の人格と話をしたわけではない。精神的に追い詰められた山井那奈が幼児退行を起こし別の人格があると思い込み現実逃避しているという可能性もある。むしろそっちの方が可能性としては高いだろう。

多重人格など本当にあるのか?というのが田中の率直な感想だ。


「このなっちゃんと言うのが・・」

「ええ、私をお兄ちゃんと。私が話を出来たのはなっちゃんだけですけどね」

そう、高橋署長が田中を山井那奈に対応させたのは幼児退行と思われる彼女、なっちゃんが求める「お兄ちゃん」が彼女を救助した田中の事だと分かっていたからだろう。だからこそ彼女から情報を引き出すべく田中に任せたのだろう。

高橋署長は食い入るように田中のメモを凝視している。

「なっちゃん、那奈姉ちゃん・・・か」

田中はなっちゃんが口にした最後の人格、夏奈姉ちゃんのことは書いていないメモを高橋署長に渡していた。

「ええ、あの5人のうち長谷部と言う男を殺したのがなっちゃんで、龍崎を殺したのが那奈姉ちゃんのようですね。そう自供しました」

高橋署長はその田中の言葉を聞いてメモを座卓に置き指で田中に返す。

「今・・・自供と、言ったのか?」

その語気も表情も必死に怒りを抑えているのが見て取れた。

「まあ殺害ですからね」

自供も供述も、言葉としては似たようなもので事実を述べる事ではあるが大きく違うのは、自供とは自らが犯した犯罪を認めた発言と言う意味だ。

高橋署長はその人差し指でメモを田中の前まで滑らせると、そのまま指を立て田中を指し言った。

「言い直せ。正しくな」

「いえ・・・はい、供述を取りました」

田中はさすがにやりすぎたと思いはしたが、やはり高橋署長と山井那奈との関係に何かあるとの思いをより強くした。

「他には?」

「他ですか、そうですね。人格がもう一人あるようです。夏奈。そう言っていました」

「夏奈・・・か」

高橋署長は再び顔を伏せ田中の言葉を繰り返した。

「そうです、夏奈。彼女の兄の名前ですね」

高橋署長は僅かに体を震わせた。

「なぜそれを知っているんだ」

「私が彼女と初めて会ったのはだいぶ昔の話でしてね、もう何年も前です。泥酔している彼女を保護したんですよ。兄の為に初任給でネクタイを買ったとかでね、その兄の名前が夏奈。そう言っていましたね。それがもとで母と口論になったとか」

「夏奈・・・か」

高橋署長はまたその名前を口にした。

「彼女は生き別れになったと言う兄と会いたがっていましたよ、ずっと探していると。まあここいら辺は彼女と友人関係になった私の部下から聞いたものですが」

高橋署長はうなだれたまま田中の言葉を聞いていた。

「署長」

「なんだ」

「署長は夏奈という人物を知っているんじゃないですか?」

「なぜだ?知らん」高橋署長はうなだれたまま軽く首を振り否定した。

「彼女が言うには兄は立派な警官になっているはずだと言っていました。署長なら、その人物が本当に存在するのなら、調べるのも簡単じゃないですか?」

やはり高橋署長は答えない。

組んだ両手に押し付けるように額に当てていた。

高橋署長は動かず、田中も静かにそれを観察していた。


高橋署長が組んだ両手で二度三度と額を突くと動きを止めた。

「全て話せ」

高橋署長は田中を見ずに言うその声は重かった。

「これ以上は何も」

田中は首を振って答えた。

「これ以上か。あの現場には旧式のビデオカメラがあったがテープが入っていなかった。キミが持ち去った・・・という事はないか?」

「ビデオカメラ?知りませんね。まあ、彼らが入り込む前からあったんじゃないですか」

殺された五人があの現場を利用し始めたのは山井那奈を拉致するより十日ほど前からだ。ただのねぐらかも知れないが、女性を拉致するための場所を用意していたとも考えられる。

あの工場は10年近く放置された状態でそこに同じように放置されていた旧式のビデオカメラがあったとしても不思議ではない。

だが高橋署長はそれを簡単に否定する。

「それはない。長谷部という男がハンディカムをネットで購入した履歴が見つかっているんだ。テープが無いのは不自然だろ」

それに田中も反論する。

「それは確かに不自然ですが、いまどきハンディカム?スマホでいいじゃないですか。その、お楽しみを・・・」

録画するなら、と言いかける田中の言葉を高橋署長は遮る。

「黙れ・・・」

そうしてまた沈黙が二人を覆う。


高橋署長は長谷部と言う男がお楽しみを撮影するためにスマホを使わずにわざわざハンディカムを使用しようとした理由を知っているが、田中は知る由もない。

遂には高橋署長は顔を上げ大きく息を吐き田中を睨みつけ言う。

「この事件はキミの手には負えない。全て話せ。私に任せろ」

田中は高橋署長と視線を交えた。


田中は自問する。

自分に何ができる?彼女の為に。

出来る事は少ないだろう。

ならば全て話した方が良いのではないか?

いや、話さずともあのテープを高橋署長に渡せばいい。それだけでいい。

だがそれが本当に彼女の為になるのか?

高橋署長は彼女を助けるのか?その立場にいるのか?

高橋署長は彼女の兄である夏奈と言う人物と何らかの関わり合いがあるのは間違いない。

本当に彼女を助けようとしているのなら、今ここでそれを明かした方が彼女の為になるはずだ。

だが高橋署長はそれを明かさない。

ならばこっちも同じだ。

「私は全てを話しています」

そう答える田中に高橋署長は納得したかのような、どこか諦めたような表情で答えた。

「そうか、これは最後の忠告だがキミがそのつもりならそれでいい。それとキミはもうハコには出なくていい。キミの所属は秘書課に置いたが当面は好きにしろ」

「分かりました」


二人は離れを後にした。


















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