第七十三話 鈴木巡査が死んでいた
後藤は左手に湯気の立つステンレス製のタンブラーを持ち自室へと入った。
タンブラーの中身はもちろん岸の淹れたコーヒーだ。
後ろ手にドアを閉めコーヒーを啜る。
後藤は思わず首を振る。
うーん、本当に岸の淹れる珈琲は美味いよな。
珈琲なんて豆を砕いてお湯を注ぐだけだろ?何がこうも違うんだろうな。
岸が言うには、豆の種類、それのブレンドの仕方にもちろんその量、そして挽き方にお湯の温度まで・・。
で?珈琲ケトル?岸の奴、珈琲専用のヤカンが欲しいらしい。
それがまた6万だとよ!!
信じられないことにそれが円だって言うんだぜ。
丸いって意味じゃねえ。6万円だと。
ヤカンに6万円。
まあ好きにすればいいだろうよ、自分の金でな。
さすがに岸の奴も6万円のヤカンには手が出ないようだ。
まだ、な。
ヤカンの違いで珈琲の味が変わるか!?
切れ味が段違いの馬鹿みたいに高い包丁で料理の出来が変わってくるって言うなら、まだ分かるけどな。
何度も擦るように切った刺身より、角の立つように切られた刺身の方が美味そうだからな。
でも、ヤカンだぜ?何を使ってお湯を沸かせても100℃になるだけだろ。
まあ買いたければ買えばいいぜ。
しかしな、岸の奴は飯を作るとなればジャムトーストを作るだけでもそのジャムの赤さに血は混じってないよなって心配になるくらいなんだぜ?
岸の作ったジャムトーストなら齧りつく前によく見た方が良いだろうよ、あいつの指に絆創膏が巻かれていないかをな。
そんな男がヤカンに六万円だとよ。
買えばいいさ、自分の金でな。
だけどよ、さすがにヤカンに6万使ったからって珈琲の味は変わらねえだろう。
だがまあ確かに美味い。岸の淹れる珈琲はな。
後藤は机の引き出しから深い緑色のボックス、クールブーストの5ミリに燐寸を取り出しベランダへ出た。
煙草を一本取り出し咥えるとフィルターを一噛みし火を点け深く吸い込んだ。
勢いよく紫煙を噴き出し珈琲を啜る。
美味いなあ。
酒を飲みながら吸う煙草も旨いが、珈琲を飲みながら吸う煙草には敵わないな。岸の淹れた珈琲ならなおさらだ。
後藤は珈琲と煙草を堪能し灰皿に煙草を押し付けるとレモンイエローのデバイスを取りだした。
少し操作し確認をすると電話をかけた。
相手は中々出ない。
後藤は一度通話を切った。
間違えては、ないよな?もう一度かけ直した。
今度は相手がすぐに出た。
「なんだよ!!!」
「なんだよじゃねえだろ、俺が電話をかけたらすぐに出ろよ。ケツに挟んでおけって言ったろ?ケツの穴に別のモンでも突っ込んでいたのか」
「だから何の用だよ!!」
「何の用じゃねえだろ、さっきすぐに来いって言ったよな、もう忘れたのか?お前の頭は三歳児か?」
「だから今向かってるんだろ!」
「向かっている?俺にはまだ家の中にいるようにしか見えないんだけどよ、すぐに来いって言ってからもう15分はたったよな。お前は足で歩くんじゃなくて床にちんぽをこすりつけているのか?それじゃあ進めないぜ」
「な!?おまえ!なんで!?」
「ふうぅ・・・」後藤はため息をついて煙草をもう一本取り出し火を点け、ゆっくりと深く吸い込んでから答えた。
「なんでじゃねえだろ三歳児、お前のデバイスはハックしたって言ったよな。意味が分からなかったか?俺はお前のデバイスを自由にできるんだよ。カメラも見れるしマイクも聞けるし、現在地も分かる。出来ねえことと言ったら匂いを嗅ぐことくらいだ。だからケツに挟んでおけって言ったんだよ」
「・・・どうせ、もういい帰れだろうが!」
「そりゃあそうだ、俺はお前の顔なんか見たくはねえからな」
「ならどうでも良いだろ!」
「お前な・・・いやすまん三歳児、俺はいつでもお前のデバイスを真っ白に出来るんだぜ。今すぐやってやろうか?」
「・・・ならどうしてえんだ!」
「どうしたいってそりゃあ俺はお前を殺したいんだよ、言うこと聞かないんじゃ殺さざるを得ないだろう?岸だって納得するぜ」
「・・・行くよ!行けばいいんだろ!」
「そうそう、そうだなじゃあ走ってスカイツリーまで行って算数ドリルを買ってな、お家で一生懸命勉強してろ。終わったら写真を撮れ」
「・・・写真を撮ってお前のスマホにでも送ればいいのか!?」
「馬~鹿、ハックしたって言ってるだろ?お前が写真を撮ったら俺が勝手に見るんだよ。分かったら行け。走ってだぞ、車なんか使うな。意味は分かるだろ」
後藤は一方的に通話を止めスマホをしまい再び煙草と珈琲を堪能する。
あの馬鹿、だいぶ苛立っていたな。しかしこれで本当にあの馬鹿が岸を狙う事になるのか?岸もそうなりゃあの馬鹿を殺すことに同意するだろうが、どう考えてもあの馬鹿が狙うのはこっちだろ。
意味あるのか?さっさと殺した方がいいんじゃねえかな。
俺はああいう馬鹿で遊ぶのは面白いからいいけどよ。
「さむっ」
後藤は煙草を消し珈琲の最後の一口を飲み干すと自室へと戻り、蔵井戸は自宅を出た。
蔵井戸は息を切らし自室へと戻り、紙袋から小冊子を取りだしベッドの上に置くとそれにスマホを向け撮影した。
「クソ!!」
スマホをベッドに投げると表紙に「さんすうドリル」と書かれた小冊子を二つに引き裂きゴミ箱へと投げ捨てた。
「クソ!クソが!!!」
これもあのクソに聞かれているのか?
本当にそんなことが出来るのか?
出来るんだろう、あのクソ野郎は俺の居場所が自室だって分かっていた。
ブラフ・・・ではないだろうな。
という事は、今撮った写真を送らなくてもあのクソは本当に見れるんだろう。
何者だ、アイツは。
他人のデバイスを意のままに操ることが出来るなんて話は聞いたことが無い。
「クソ!!」
好きにしやがれ。
蔵井戸はベッドの上のデバイスをそのままにして、出かける事にした。
照間瑠衣はスイミングスクールの勤めを終え帰宅していた。
今日は気分が良い。
早速キッチンに立ち鍋を開けた。微かに甘辛い匂いが立った。
中身は先日スーパーで売っていた本ソーキだ。
本ソーキとは骨付きのブタのアバラ肉の事だ。東京ではスペアリブと言った方が伝わるだろう。
鍋の中身はその本ソーキを沖縄の泡盛と黒糖に醤油、それに昆布出汁や鰹出汁で煮込んだものだ。
この煮込みソーキを乗せた物をソーキそばという。
鍋の中には他に大根にニンジン、ゴボウと言った根菜に豆腐も入っている。
出来れば沖縄の麺でソーキそばを作りたかったが、東京では売っているのをほとんど見たことが無い。
あるにはあるが、製造者を見ると普通に東京の製麺会社だったしまるで別物だった。
鍋の中身も豆腐も沖縄の島豆腐とは違う、東京の豆腐だ。
沖縄の島豆腐は東京の豆腐にくらべ水分が少ないため硬い。そしてかつては海水で作っていた名残で塩を添加する。
チャンプルーなどで炒めるには島豆腐が向いているとは思うが、瑠衣は豆腐自体の味わいに関して言えば東京の豆腐の絹ごし豆腐の方が好きだ。塩味が付いていないので大豆の味わいが感じられる。
なにより少しの薬味と醤油をかけただけで食べる冷奴が良い。瑠衣の自宅の冷蔵庫には、それ用の千葉県産の高級醤油が入っているほどだ。
鍋に入っている豆腐もやはり東京の絹ごし豆腐だ。元の水分量が多いので煮込んでも沖縄の島豆腐ほど味を染み込み過ぎないのが良い。
瑠衣は表面に冷え固まったブタの脂を丁寧に取り除いてから蓋をして再び鍋を火にかけた。
その横でトマトにキュウリを切り、キャベツを千切りにし簡単なサラダを作っておく。
一度ソーキ煮込みの鍋の汁を味見し、もう少し煮詰めようと蓋を外したままにした。
冷蔵庫からビールを取り出しテーブルにつくとリモコンでテレビを点け、いつもBGM代わりにしているCS番組を付けた。
途端にテレビはクリスティーナアギレラのキャンディーマンのミュージックビデオを流し始め、瑠衣はすぐにチャンネルを変えた。
イヤな曲だ。沖縄を思い出す・・・。
代わりに流れてきたのはP!NKのTryだった。
瑠衣はP!NKが好きだ。あのブリトニーやビヨンセと共にペプシのコマーシャルに出ていたのはもう何年前の事なのだろう。
瑠衣の10代は売春と脅迫をしていたが彼女は音楽家としての活動を始めていた。
瑠衣が20代となり蔵井戸の下で売春組織の女児の管理をしていた頃、彼女はグラミー賞を受賞していた。
比べようというつもりは毛頭ない。瑠衣のとってP!NKは心から尊敬するロッカーなのだ。
もう一度鍋のソーキ煮込みを味見すると程よく煮詰まってきていた。
冷蔵庫からめんつゆに浸け込んだゆで卵にヨーグルトを取り出しサラダと共にテーブルに並べ、ソーキの煮込みを器に盛りテーブルに追加する。
もちろん一番大事な物である缶ビールも忘れずに並べる。
瑠衣は椅子に着き、手を合わせてから箸を手にした。
まずはサラダにドレッシングをかけ、一つ摘まみ口へと運び気分を落ち着かせる。
缶ビールを開けてソーキ煮込みが盛られた器に箸を伸ばす。
大根か牛蒡か、いやまずはメインのソーキ・・・いや、まずは程よく味の染みた豆腐だ。
はやくビールを流し込みたい気持ちを抑え、箸で豆腐を半分に割ったところでインターホンが鳴った。目を向けるとそこには蔵井戸の顔があった。
瑠衣は舌打ちし箸を置き応じた。
「なに?今から晩ごはんなんだけど!」
「下まで来ているんだ、開けてくれ」
「何の用よ!?」
瑠衣はまた舌打ちをしながらも解錠した。
「すまない・・」
すまない?いつもなら「いいから早く開けろ」とでも言ってくるような男が「すまない」だって?
瑠衣は首を傾げつつ部屋を出る。
蔵井戸は瑠衣が解錠したことでマンション内には入れるが、瑠衣の居室があるこの屋上へのドアは瑠衣自身の手で開けてやる必要があるからだ。
ドアがノックされ瑠衣はドアを開けてやった。暗い顔をした蔵井戸がドアをくぐり瑠衣は再び施錠した。
瑠衣は蔵井戸を自室へと招き入れた。
「晩飯を食うところだったのか」
キッチンのテーブルに並べられた皿々を見て蔵井戸が言う。
「言ったでしょ、あんたも食う?」瑠衣が聞くと素直に、それでいて静かに頷く蔵井戸を見て瑠衣は新たに椀を取り出しソーキの煮込みを盛りテーブルに置いてやった。
「飲みたきゃ自分で取りなよな」瑠衣はそう言って顎で冷蔵庫を示すと蔵井戸は自分でビールを取り出し席に着いた。
蔵井戸の様子が変だ。どこか弱々しいというか・・。
しかし瑠衣はそれを指摘することも無く、黙って食事を始めた。蔵井戸もそれにならい食べ始めた。
「七味はあるか?」
「ない」
「そうか・・」
瑠衣は食事を続けつつもそっと蔵井戸を観察していた。
いつもと様子が違うが少し疲れているのか?まあその程度だろう。
これで缶ビールの入ったスーパーのレジ袋を片手にやってきたのなら本格的に心配になるところだが、蔵井戸は自分の物であるかのように冷蔵庫を開け二本目のビールを取り出した。
だが、自分でビールを取った・・・やはり様子が変だ。
二人は特に喋ることも無く静かに食事を続けた。
瑠衣は空になった食器を重ね集めシンクへと運んだ。
その後ろで蔵井戸が冷蔵庫から三本目のビールを取り出した。
ビールを当たり前のように飲み、食事を出されても礼も言わず、もちろん「美味い」などとは間違っても言わない。いつも通りの蔵井戸だ。
瑠衣は洗い物をしながら背後の蔵井戸に聞いた。
「で、何だってのよ」
だが蔵井戸は答えない。
代わりに聞こえてきたのはビールのアルミ缶を握り潰す音だった。
洗い物を終えた瑠衣は冷蔵庫を開け缶ビールを取り出そうとするが蔵井戸の前に置かれた物が最後の一本だったようだ。
他人の家に来て最後の缶ビールを何も言わずに飲む?ったく・・・。
瑠衣は冷凍庫からドナンのボトルを取り出すとショットグラスと濃縮還元のシークヮーサージュースを手にテーブルについた。
ショットグラスにドナンを注ぎシークヮーサージュースを垂らしてからグラスを手で握り静かに回していく。
沖縄の泡盛であるドナンのアルコール度数は60℃。冷凍庫で保管しても凍り付くことは無いがマイナス20度近くまで冷やされていることに変わりはなく、少しドロッとしている。このまま飲んでは舌が凍り付いてしまう。
瑠衣がショットグラスを手で握り回しているのは早く飲みたいからだ。こうすれば温度は舌が凍り付かない程度までは急激に上がる。凍り付いたシークヮーサージュースが溶けてドナンに混ざれば口に入れても大丈夫、最高に美味しくなった合図だ。
瑠衣は一気にグラスを空けもう一杯作る。
「あんたも飲む?」瑠衣はドナンのボトルを掲げ示すが蔵井戸は眉をしかめて首を振る。
「そんなもんよく飲めるな」
「ハッ!よく言うわよ、普通は赤の他人の家の冷蔵庫から最後の一本の缶ビールの方が飲めないもんでしょ」
「そうか」蔵井戸は潰れかけた缶ビールを掲げ、瑠衣は舌打ちしながらもショットグラスを合わせてやる。
「で、何よ」
「ああ、うん・・・」蔵井戸は首を回しアルコールしかないテーブルを見回して言う。
「何かツマミはないか」
まったく!!!この男はいつも通りだ!
瑠衣は冷蔵庫からキャンディチーズの袋取り出しテーブルに投げ置き、自家製のショウガの漬物を小皿に盛ってやった。
これは千切りにした新生姜をリンゴ酢とレモン酢と塩に顆粒の鰹出汁で漬け込んだもので、辛く、酸っぱく、そして甘く出汁が効いていて酒のアテには丁度いい、瑠衣の自信作だ。
蔵井戸はすぐに手で摘まみ口へと運び、気に入った様子でもう一つ摘まんだ。
「美味いなコレ」
そう、それは良かった。で・・。
「何の用なのよ」
「それが・・・」
「どれが?」
「デバイスをハックされた、クソ・・」
蔵井戸は両手を握って答えた。
「それは聞いたわよ、あの酒屋でしょ」
瑠衣はショットグラスを口に当てるが、今度は舐めるように飲んだ。
「酒屋じゃねえ、俺より上のジェネだ」
「それも聞いたわよ。あんたのデバイスがハッキングされているんでしょ?で、何よ」
蔵井戸は俯いたまま上目遣い瑠衣を見るが、目が合うとバツが悪そうにまた俯く。
めんどくさい男ね!なんだってのよ!
「ハッキングなんかできるわけがねえ、ただのスマホじゃねえんだからな」
「なら、いいじゃない」
「・・・・それが、マジでハッキングされていたんだよ・・・」
「はあ?何言ってんの?」
何が言いたいのよ!回りくどいわね!
「でもアンタ、私を呼び出した時にそれを風呂場だっけ?盗聴されてる風に言ってたじゃない」
「ああ、念のためな。仲間のお前の存在は知られたくないからな」
ハッ!瑠衣は鼻で笑った。
「仲間?私はアンタの仲間だったんだ?」
「なんだよ・・・そりゃあ・・・」
蔵井戸は俯きながら上目遣いに瑠衣を見る。
瑠衣は、気落ちした様子の蔵井戸をここぞとばかりにやり込めてやろうと思ったわけではない。
確かに蔵井戸は瑠衣を部下どころか手下でもなく物のように扱うクズ男だ。
だが20年近くイリーガルなビジネスを共にする間柄なのだ。その出会いはろくでもないモノだったし、それ以降の付き合いももろくでもないモノだった。
蔵井戸が瑠衣を捨てることは無く、瑠衣も蔵井戸から離れることも無かった。
主導権を握るのは常に蔵井戸であったからとはいえ、逃げようと思えば逃げることは出来たはずだった。
それはこの東京から離れるだけで達成できただろう。
だが瑠衣は東京に、いや蔵井戸にしがみ付き続けていたのだ。
確かに蔵井戸は瑠衣の夢だった大学への道を開いてくれたし、瑠衣の銀行口座を作り、瑠衣の保証人となり新たな住まいを得る手助けをしてくれた。
そして何より、瑠衣の母の肉体をこの世から綺麗に消してくれた。
恩に着てはいるが、その恩は女児売春組織の管理で十分すぎるほど返したと思っている。感謝しているわけではない。
だが頼りにはしている。
それだけにこんな情けない様子の蔵井戸は見ていられないのだ。
「仲間だなんて言われてもね、ジェネとかハッキングされたとか何を言っているんかさっぱり分からないわよ。私にも分かるように話してほしいわよ」
「ああ、そうだな・・」
蔵井戸は潰れかけた缶ビールを飲み干すと「なあビールがもうないみたいなんだが」
そう言って瑠衣の手にするグラスを指さした。
「なによ、あんたも飲む?火を点けてあげようか?」
瑠衣はそう言てまたグラスを空けドナンを注いだ。
もちろん、蔵井戸がドナンを飲みたいわけではないことくらいわかっている。
瑠衣が飲んでいる沖縄泡盛ドナンのアルコール度数は実に60%。
火を点けてあげようかというのも全くの誇張ではないく本当に火が付くのだ。
当然、蔵井戸は眉をしかめ首を振る。
「いや、そうじゃなくってさ、ビールが切れてんだよな」
「あっそ、私はこれがあるからいいけど」
瑠衣はグラスにシークヮーサージュースを注ぎ足し軽くグラスを揺すってから口に運んだ。
「いやあ、お前だってビールの方が良いだろ?」
瑠衣は口にしかけたグラスの手を止めた。
「なによ、あるの?」
「そりゃあ・・・あるぜ。ヤるだろ?お楽しみさ」
ヤるというのはもちろんサティバのイイやつの事だし、その後のセックスの意味でもある。
そして、その両方をしっかり楽しむためにはドナンはマズい。もちろん味が、という意味ではなくそのアルコール度数にある。
他のマリファナんことはよく知らないが、サティバのイイやつを最大限に楽しむためにはドナンは良くない。アルコールを取りすぎていると最高級のサティバがイイやつでなくなってしまう、つまりその後のお楽しみも楽しくなくなってしまうという事だ。
シンプルに言えばマリファナとアルコールの相性は良いとは言えない。ビール程度でほろ酔い気分が良いだろう。
「で、ホントにあるの?」
蔵井戸はイヤらしくニヤッと笑い立ち上がる。しかしポケットに手を突っ込むのかと思いきやまた冷蔵庫に向かった。
ツマミ?まだあるでしょう?
瑠衣が怪訝そうに視線を向けると蔵井戸は冷凍の引き出しを開け中を漁りだした。
まさか!?
目当ての物を見つけた蔵井戸は自慢げに小さなフリーザーバッグを見せびらかすようにヒラヒラとさせ言った。
「俺、モルツがすきなんだよな」
「お支払いは?」
「カードで」
瑠衣はクレジットカードで端末をタッチし支払いを終えると持参したリュックに缶ビールを詰め込みドラッグストアを出た。
全くあの男は!他人の家の冷蔵庫のラスト1のビールをよくも平気で飲めるもんだわ!
しかも何?俺はモルツにしてくれ?ふざけやがって!
・・・。
まあでも、いいわ。
あんな男でも良い所はある。
最高級のサティバを用意してくれるしね。
でもあの男、私の家の冷凍庫にマリファナを隠していたなんて!見つかったらどうするつもり!?
全く・・・。
でも・・アレを咥えて火を点けて、ゆっくりと深呼吸をするように深く深く吸い、さらにゆっくりと少しずつ少しずつ名残惜しむ様に吹き出していく。
それを三度も繰り返せばもう最高!
アレに火を点けてやるために咥えてやるくらいわけもない。
しかしもうそんな楽しみばかりではない。
瑠衣はマンションのエントランスの前で暗証番号を打ち込み中へと入る。
エレベーターに乗り込むとポケットからデバイスを取り出した。
これが、本当に・・・?
ちょっとアングラなサイトを利用できるちょっと特別なスマホだと思っていた。
だがこの小さな機械の向こうには瑠衣が想像もしていなかった世界が広がっていると蔵井戸は言った。
これは日本のみならず世界を支配する者に忠誠を誓う証なのだと。
それはイーロンマスクやジェフベゾス、それにトランプと言った誰もが知る存在ではなく、その正体は誰にも知られていないらしい。
拳銃使い。誰にも知られず世界を支配する者はそう呼ばれているという。
拳銃使いが世界を支配するシステムがハックエイム。
このデバイスはそのハックエイムとか言う世界にアクセスするためのツールなのだという。
蔵井戸もどこまでが本当なのかは分からないとは言っていた。
人知れず世界を支配している者がいるなどとはにわかには信じがたい。ディープステートとか言うくだらない陰謀論の方がまだ現実味がある。
蔵井戸は時折、殺人を犯しているかのような事を口にし、それの手伝いを瑠衣に頼むことはあった。だが、たまに車を運転してやり気を失っている何者かの護送をしてやっただけだ。瑠衣は殺人の現場を目にしたことは無い。
瑠衣は口には出さなかったが蔵井戸が殺人を犯しているという事を信じなかった。
いや、信じたくなかったのだ。
そう、少なくとも瑠衣の母親がこの世から綺麗さっぱり消えたことは事実なのだ。
これはただのスマホではない、それだけは間違いない。認めざるを得ない。
そして蔵井戸のイリーガルなビジネスには殺人が含まれているし、これからも続けるのだろう。
瑠衣はエレベーターを降り屋上へと階段を上る。
蔵井戸は瑠衣を仲間だと言った。
瑠衣はこのまま蔵井戸と共にこのデバイスを手にし続けるべきなのだろうか?
危険すぎる。
自分も母と同じように処理される可能性・・・。
蔵井戸から距離を取るべきだ。しかしそんなことが出来るのか?
蔵井戸はこうも言っていた。
ハックエイムは世界を支配しているシステムだが、東京の中でしか機能していないと。
それが本当でも間違いであっても、蔵井戸とこのデバイスとの関係を断つのは簡単だろう。東京から離れさえすればいい、それだけだ。
だけど・・・。
瑠衣は思う。今更東京を離れてどうやって暮らしていくのか。
弁当屋でパートとして働く?、スーパーのレジ打ちでもやって暮らしていくの?
冗談じゃない!何のために若い身体を売って、時にはクズ男どもを脅迫までして金を稼いできたのか。
だけど、このまま蔵井戸と一緒にいたら・・・。
どうすればいいの!?
瑠衣はどうすればいいのか、どちらの選択が正しいのか?と悩みつつドアを開けると選択肢などないことを悟った。
鈴木巡査が死んでいた。




