第七十一話 ファッキンジャップくらいわかってしまう田中さん
天婦羅割烹 覚善。
浅草の名店。予約を取らなくては入ることが出来ない店で、その予約もそう簡単には取れないのだろうが高橋署長のようなエリートは別なのだろう。
「天婦羅 若狭 覚善」
と染め抜かれた藍染め暖簾と、木曽檜の枠材にすりガラスをはめ込んだ戸を前にしたら普通の日本人なら気後れしてしまうほどに高い格式を感じさせるが外国人には通用しないのだろう。
和服を着た仲居に日本人らしく拒否するときも笑顔でやんわりと、それでいて日本らしい曖昧さのないハッキリとした「おことわり」で入店を拒否された外国人達が店の前で仲居にスマホを向けながら英語で文句を言っていた。
田中はこれ見よがしに外国人の横を通り店に入ることも出来たがその騒動を遠目に見ていた。
当然だ、そう言った行動はああいった外国人をより苛立たせるだけだからだ。
田中は腕時計を見て時間を確かめた。
まあ大丈夫だろう。呼んだのは高橋署長であって待つべきなのは向こうだ。
田中は店に少しだけ近寄り腕を組んでいつまでも文句を言う外国人たちを見ていた。
外国人は白人男性が二人に白人女性が一人。
皆一様に英語で「入店拒否するつもりか!差別だ!」などと騒いでいた。
「全部撮影しているからな!」とも言っていた。ユーチューバーとかティックトッカーという奴なのだろうか。
それに対し仲居が「ソーリー、リザーブオンリー」と繰り返していた。
だがそれは日本人らしくペコペコと頭を下げるわけではなく、毅然と諭す感じだった。
慣れているんだろうな。田中は早くしてくれとも思わずにそれを楽しんで見つめていた。
もちろん外国人たちが仲居に手を伸ばすような真似でもしたらすぐさま引き倒すつもりではいたがその可能性が低い事は分かっている。
いつからだろうか。外国人観光客の質が落ち何かというと直ぐにスマホをかざすようになったのは。
浅草の交番に30年近く勤務していればいやでも身に染みて分かる。訪日外国人観光客の質が落ちたことに。
10年ほど前か、爆買い中国人が話題になったのは。
ハッキリ言って今の訪日観光客の多くは爆買い中国人以下だ。
日本語はもちろん英語も分からない中国人の対応は手がかかったが、彼らはそれなりに素直だった。騒ぎは起こすしマナーも悪かったが警官の制服を見ればすぐに諦めて去って行くものだった。
だが最近の訪日観光客はトラブルを起こしても騒げば日本人が折れると知っている。日本人が折れるまで騒げばいいと知っている。
警察を呼ばれても恐れることも無い。日本の警察は暴力的ではなく世界一優しいと知れ渡っている。
同じことをニューヨークのハーレムできるか?
出来るわけがないだろう。
トラブルを起こしスマホをかざして撮影するなど財布から100ドル札を10枚ほど取り出し見せびらかしているようなものだ。
南アフリカのヨハネスブルグでやってみればいい。警官を呼ぶものなどいないし、警官が来たとしても助けてくれるとは思わない方が良いだろう、その仕事が死体処理になるだけだろう。
まったく、観光業など発展途上国の仕事だろう。
インバウンドだか何だか知らないがこっちの仕事が増えるだけだ。
ウンザリしはじめた顔で騒動を見つめる田中に仲居が気が付いたようだ。
小さく会釈した。
それは、助けてください。という様子ではなく、しばしお待ちを・・・と言った物だった。
田中はもう一度腕時計を確かめ仕方なく騒動に近寄った。
「どうしましたか?」
「こちらの方々はご予約を取られておられないのでお断りをと・・・」
外人たちは仲居の言葉を遮り「Are you a racist!?」と威嚇するように上半身を煽って仲居を脅かした。
田中は外人たちに、まあまあと笑顔と両手を向け「このお店は予約されてないとですね・・」
外人たちは日本人にしてはガタイの良い田中をどう扱うか決めかねていたようだったが、日本人らしい仕草と表情を見るとスマホを向け嘲るように言った。日本語で嗜めようとする田中は英語が分からないと踏んだのだろう。
「Fuckin' Japs!」
田中はステレオタイプの日本人の見本のように薄笑いを浮かべ視線を避けるように下を向くと外人たちは実に嬉しそうだった。
「This guy's shakin' in his boots!」
外人たちが言い終わる前に田中は向けられていたスマホを奪い取り地面に叩きつけた。
「ファッキンジャップくらいわかるぞコノ野郎」
そう言い外人たちを睨みつつジャケットに手を突っ込んだ。
「Wait wait! Wait!!!」途端に顔を青くして後ろに下がる外人たちに田中はジャケットから警察バッジを出して外国人たちがまた騒ぎ立てるのを制するように田中は告げた。
「I'm a police officer. I received a complaint」
外人たちは、話に聞いていた日本の警官とは全く違う田中に驚きはしたが千ドルもしたスマホを壊されては素直に逃げる気にもならないのだろう。なんせここは日本なのだから。
「You fuckinnuts, man? What you gonna do about my phone!?」
田中は見せつけるようにゆっくりとバッジをジャケットにしまい、右手を抜きすまなそうな笑みを浮かべると同時に自分と同じくらいの背丈の白人男性の右手首を掴み一気に引き、左腕を首に当てると同時に足を払い引き倒した。
もちろん、受け身など取れるわけの無い白人男性をアスファルトの上に叩きつけるつもりもないし、怪我をさせるつもりも無かった。
白人男性は田中に手首を掴まれたまま地面に尻もちをついただけだ。
「Hey guys, wanna take a tour of fuckinnuts Japanese police station?」
白人男性は自分がなぜ地面に座っているのかも分からないままだっただろうが、田中のせめてもの慈悲で掴まれたままの腕を振り払い、おそらくもう使い物にならないであろうスマホを拾うと走って逃げて行った。
田中は振り向きもせず逃げて行く外人たちを見送ると仲居に振り向いた。
「最近、ああいうのが増えましたね」
仲居は返事はせずに深く頷いた。
「田中様ですね、お連れ様が御待ちです」
そう言って年季を感じる引き戸を開け田中を招き入れた。
田中は暖簾をくぐり個室に案内された。
襖を開けると掘りごたつに座る高橋署長がいた。
高橋署長は少しばかり不機嫌な様子で自分の向かいに着くように顎で示し田中は素直にそれに従った。
仲居が「では・・」と高橋署長の顔を伺うと、高橋署長も「始めてください」と言い仲居は一礼し襖を閉じて下がって行った。
「遅かったな」高橋署長は座卓に置かれた茶碗を手にし口に運んだ。
「店の前で少し揉めたもので」田中は答えた。
座卓の上には茶碗が二つ置かれていただけだった。
てっきり一人で始めているものだと思ったが高橋署長は律義に田中を待っていたようだ。
「揉めた?」
「ええ、外人さん達と少し」
田中は茶碗を手に取り飲み干した。
だいぶ温くなっている。
高橋署長は訝し気に眉をひそめ軽く身を乗り出し両肘を座卓に付き両の掌を組んだ。
「キミは・・・」
と言ったところで襖の向こうに盆を置く音が聞こえ、仲居が襖を開けた。
仲居は盆の乗せられた二本の瓶ビールを座卓に置き二人の前にグラスを置き添え、ビールを注ごうとするが高橋署長はそれを手で制し「お構いなく」と頷いた。
仲居は「では」と会釈しお通しを二人の前に置き、再び襖を閉めた。
たかが巡査部長に茶が冷めるほどに待たされたのは初めてなのだろうが、タイミングを外された格好になった高橋署長は本題を開いた。
「調査は進んでいるか?」
「調査?何の調査ですか?」
高橋署長は田中の不遜な態度にあからさまにイラついて睨み、指をさした。
「気に入らないなら今ここで言え。他の者に変える」
またウソをついたな。私の事は外せないのだろう?いや、外したくないだろう。
「調査?昨日の今日ですよ。中野の病院には行きましたがまだ話せる状態ではありませんでしたね、肉体的にも、精神的にも。で、一課に行ってみましたが書類が増えてましたね、彼女の母親も殺されていたとか」
「聞いている」
「それがまあ、山井遥さんですか。おそらく何者かに呼び出されそこを・・・」
「聞いている。二度は言わすなよ」
そう告げる高橋署長の目は鋭く田中を貫いている。
思っても見なかった反応に田中は思わず署内の道場での苦しみを思い出し素直に答えた。
「今のところ他には」
「そうか・・・」高橋署長がビール瓶を手にし自分のグラスに注ぐと田中に向けた。
田中は素直にグラスを手に差し出した。
「いただきます」そう言って田中は勢いよくビールをあおりグラスを空にした。
「あとは自分でやれ」高橋署長はそう言ってビール瓶を置いた。
田中は今度は自分でビールを注いだ。
「あ、そうですね、乾杯しますか?」そう言ってグラスをフラフラと掲げた。
高橋署長は訝し気に田中を見つめつつもグラスを掲げ田中のそれと合わせはしたが、その訝し気な視線は変わることが無かった。
「渡部と何があった?」
「いえ、特には」田中は鼻で笑い答えた。
「アレが、脅しにもならないつまらんことを思い出せとばかりにキミを推薦してきてな。ま、好きにしろと思っていたのだが急に、無かったことにしてくれと言ってきた。もっと使える代わりを見つけたのかと思ったがそうでもない」
高橋署長はグラスを空け、また自分でビール瓶を手にグラスを満たした。
「アレと何があった?言ってみろ」
なるほど、人の弱みには敏感なようだ。
「それは命令ですか?」
「そうだ」
「なら言い方ってモンがあるでしょう?」
「そうだな、渡部から聞いていたキミはもっと青臭い男だと思っていたのだがな」
高橋署長はビールを一口飲んでから一つ頷き、そして言い直した。
「アレと何があった?言え」
田中は奥多摩で知り得た事を全てを吐いた。
不正に拳銃を持ち出した事、砂場を殺そうとしたこと、渡部が介入してきたこと、その近辺には多くの犠牲者がいるであろう事。渡部はそれらに関与しているであろう事、更におそらくここ数日の間に新たに一人埋められた事、
そして田中の父親もその近辺に埋められている事。
渡部がそれに関与している事。
どうだ!?
今度は田中がビールを口にし、高橋署長に鋭い視線を向けた。
高橋署長はしばしの間、鋭い視線を交わしはしたがすぐに目を逸らした。
だがそれは降参の合図ではなかった。
「キミはアレに殺されていてもおかしくはなかったな」
「でしょうね」
「よく耐えたものだ」
耐えた。そう、耐えた。砂場と渡部を殺すのを耐えた。
田中が口を開こうとした瞬間、襖が先に開いた。
仲居が料理を持ってきたのだった。
座卓の上に様々な小鉢に刺し盛と天婦羅が並べられていく。
「ん?これは?」と高橋署長が口を挟み仲居が答えた。
「こちらは若狭ぐじの松かさ揚げになります」
「頼んでないが」
「はい、今日は特に生きの良い物が入ったとのことで板前が」
仲居はそう言って田中に薄い会釈をした。
「有難くいただきます」と高橋署長が答える。
「添えのレモンは瀬戸内産の酸味柔らかな物になります。お刺身は?」
「いえ、お構いなく」
「では、ごゆっくり」そう言って仲居は立ち、会釈し襖を閉じた。
高橋署長は若狭ぐじの松かさ揚げを見て、田中を見たが一人納得、得心し料理に言い添えた。
「いただこうか」そう言って箸を取った。
逆に田中は何一つ納得も得心もしてはいなかったが同じく箸を取った。
高橋署長は小皿にレモンを絞り落としてからさっそく若狭ぐじを箸で摘まみレモン汁をそっとつけて口に運んだ。
「美味いな。レモンとは言うが・・・うん、酸味が柔らかいな。ん?どうした?魚は苦手か?」
「いえ、いただきます」
田中も若狭ぐじの松かさ揚げを箸で摘まんだ。
高橋署長に倣い小皿にレモンを絞りそっとくぐらせ口へと運んだ。
美味い!確かに美味い!
若狭ぐじとは若狭湾で獲れるアカアマダイの事だが、アマダイは足が速い。
福井で獲れたアカアマダイが東京まで来ることは中々ないだろう。
つまり安くはない。
だがこれは生臭さなど微塵も無い。
松かさ揚げ。鱗を付けたまま揚げるこの独特の料理法はアマダイのように鱗の柔らかい魚でしかできない調理法だが、特に鱗の柔らかい若狭のアカアマダイの為の物だと言える。
真鯛や黒鯛の硬い鱗でもじっくりと時間をかけて揚げればできないことは無いだろうが、それでは肝心の白身が台無しになってしまう。
松かさと言いうように松ぼっくりのように開いた鱗はカリカリと香ばしく、白身はふんわりと柔らかい。
サッとくぐらせたレモン汁がまた良い。仲居の言う通り酸味柔らかくほのかに甘い。レモンと言うと酸味一辺倒と思っていたが、これはレモンは果物だと再認識させられるものだ。そのまま齧れそうな気もするほどだ。
二人はしばし喋るためには口を使わず天婦羅と料理を堪能していった。
刺身は寒ブリに赤身のマグロに烏賊。どれも旨い。天婦羅は春菊にサツマイモ、それにカニ。越前カニだろう。海老天が無いのが少しばかり残念ではあったが、田中は思わず杉並の自宅に住んでいた頃を思い出した。
「どうだ」
高橋署長の問いに田中は答えた。
「美味いですよ、子供の頃を思い出しました」
「そうか、それは良かった。キミとは違い私は子供の頃は・・」
高橋署長は小さく首を振って言葉を止めた。
田中が口を開こうとすると高橋署長に手を向けられ制止された。
同時に襖の向こうから仲居が声をかけ襖を開けた。
「天茶になります。お好みでツユでも」
仲居は言葉少なく盆から飯の上にかき揚げの乗った椀を二つ、それに急須に蕎麦猪口を置くと会釈し出て行った。
椀に盛られたかき揚げは甘エビと三つ葉のかき揚げだ。細く切られた人参が彩りを増している。
「よく殺さなかったな」
田中は高橋署長の口から「殺す」などという言葉が出たことに驚き顔を上げたが、もはやこの目の前に座る小男がただのキャリア組のインテリではないと思っている。鳩尾の痛みがぶり返してきそうだ。
「渡部・・さんをですか?」
「いや、両方だ。警官が拳銃を持ち出し殺人など、二十年。最悪、無期だろう」
もちろん、高橋署長が安堵したのは田中の未来ではないだろう。
「あなたの立場も・・・」
「そういう事だ。さすがに私の下でそんなことを起こされてはな。あの男に人生を棒に振るほどの価値はないぞ」
「別に、価値とかそう言う事ではないです」
「そうか、まあそう言う事は私が去った後にしてほしいものだな」
「違います。私には人を殺す覚悟など無かったんです。これからもそうでしょう」
高橋署長は身を反らし腕を組んで田中を見た。
「拳銃まで持ち出したのにか」
「そうです。拳銃を持ち出してしまえばやらざるを得ないと、そう思い込みたかったんです。でもそんな覚悟は無かった」
田中は両拳を握りしめ、うなだれた。
そんな田中に高橋署長は言った。
「よく耐えた。私なら・・」
私なら?ハッとして田中が顔を上げた時には高橋署長の顔は表情を消していた。
「いただこうか」
そう言って微笑み顔で箸を手に取った。
二人は再び喋るための口を閉じ天茶を堪能していった。
高橋署長は急須を手に椀に掛けまわしてから田中に差し出した。
「どうも」
田中もそれにならい椀に出汁茶をかけて行く。
若狭の甘エビのかき揚げならツユは邪道だろう。
二人は天茶を食べ進める。高橋署長がふと思いついたように小皿のレモン汁をかけて食った。
「行けるな」
田中もそれを真似してみる。
小皿を手にしレモン汁を椀に少し垂らし軽くかき混ぜてから口にした。ハコの昼飯に食う天丼なら当然甘辛のツユをたっぷりかけなくては物足りないものだが、脂の乗った若狭の寒ブリに天婦羅を堪能した後でならこれだ。一言で言えばレモン茶漬けだが、酸味の柔らかい瀬戸内産というレモンならではの味わいだろう。
「キミのおかげなのかな?」
椀を空にした高橋署長が楽しそうに言った。
「だが、あまり派手な事はしないでくれよ」
「あなたの為に、ですか?」
「もちろんだ」高橋署長は言うまでもないことだと答え、そして続けた。
「アレが署内にいるのが気に入らないならハコヅメに戻してやるが」
「いえ、向こうは警部補ですから」田中は軽く首を振って答えた。
「キミも晴れて警部補だろう、ようやくな」
やはりこういうところはキャリア組なのか。
「そう簡単な事でもないでしょう」
徽章が金色になれば違うのだろうがな。
そんな田中の表情を見て高橋署長も鋭く察し薄く笑って言った。
「そうか。アレが下手な意趣返しをしてくるか」
もういい、下手な探り合いも腹ももう一杯だ。
「今日はなぜ?用件は何ですか」
山井那奈の件だろうがこれ以上何を聞く?私が知り得る事は既に知っているはずだ。彼女の容態など私が中野の警察病院に出向くまでも無く報告が来ているのだろう、何が聞きたい。
田中の言葉に高橋署署長は笑みを消し、刺すような視線を向け両手を組み肘を座卓に付けた。
「キミはまだ何か隠しているだろう」
田中は答えない。
その態度は肯定だ。
「彼女はあなたの何です」
「キミには関係ない」
高橋署長は一人頷いて続ける。
「ここで全て話しておいた方が良いぞ、私に任せておいた方が身のためだ」
田中を見据える高橋署長の視線は鋭い。
「それは、命令ですか?」
高橋署長は答える。
「いや、忠告だ」
その言葉は冷たく、その視線は冷酷だった。




