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第六十九話 シックスナインですよ!

「昇進試験、忘れるなよ」

高橋署長が言った。


二人は胴着を脱ぎ、署長室へと戻りテーブルを挟みソファーに向かい合い座っているが田中は高橋署長と目を合わせることが出来ずにうつむいていた。

まだ、気が済まないのか。


田中はこれ以上ないほどに惨めだった。

万年ハコヅメ巡査部長である自分が。

砂場を殺せなかった自分が。

警察官でいられる保証を渡部に受ける自分が。

そして目の前に座る一回りも年下の男に打たれ倒れた自分が。

小柄で、自らの失態を他人に擦り付けてまで保身を図ろうとする矮小な男に何一つ叶うことの無い自分が。

そして四十を過ぎてもなお、自分だってそこに立つ可能性があったのだなどと慰め続けてきた自分が。


惨めだ。

それだけにまだ自分を苦しめようとするこの男が不思議だった。田中がこの男に適うところなどない一つない。それはもう十分に知らしめたはずだ。

それでもなお田中が昇進試験を受けても無駄だと悟らせようとするその行為が理解できなかった。

そして、それに対し頷くことしかできない自分がどうしようもなく、惨めだった。嫉妬心すらわかない。

だから聞いた。

「なぜです?」

高橋署長はやはり首を傾げ答えた。

「なにがだ」

何がって・・・。

「なぜ私の昇進試験にそんなにこだわるんですか」

「キミに警部補になって欲しいからだが?なりたくないのか?」

「なれなくても、私は言いません」田中は完全に敗北を認めた。

分かれば良い。そう言わせるつもりだった。だが高橋署長の答えは違った。

「何をだ」

何をって・・・。

「それは・・。何をって、渡部さんとの件ですよ。あなたの失態を・・・」田中はそれをハッキリと口にする事すら出来ないほどに打ちのめされていた。

「渡部との件?私の失態?」

高橋署長は首を傾げ考え込む様に拳を口に当てた。

「ああ、あれか。渡部が私の指導教官だった時のあの件の事か?なるほど、キミはそれが脅迫のネタになると思っていたのか」

脅迫。もはや首を垂れた相手にそうハッキリと口にされると田中は委縮してしまう。

「いえ・・・それは」

「ああ、そうだな。私は容疑者を取り逃したな。うん、そうだ。そう言う事か」

高橋署長は一人納得し続けた。

「だがそれが何だ?キミもそれで私の事を脅せると思っていたのか」

「い、いえ、その・・・」その通りだった。それが隠してやることが昇進の条件だったのではないか?違うのか?

「こう言っては何だがな。せっかく逮捕した容疑者を取り逃がした。そうだな、キミたちノンキャリには大失態だろう、それが仕事なんだからな。だが私はキャリア組だ、それもトップクラスの。私の仕事は容疑者を捕まえる事ではない、キミたちに捕まえさせることだ。容疑者を取り逃がした?それが連続殺人犯とでも言うのならいざ知らず、たかがコンビニ強盗の未遂犯と・・・あとはなんだったか・・・。そうそう、何かの売人だったな。ニュースにでもなったらキミたちノンキャリの前には昇進を阻む高い壁になるだろうが私にとってはそんなものただの石コロだ。蹴って進むと思うか?いや、目にも入れない些末な事だ」

「しかし、渡部さんは?」渡部はその壁を破って警部補になったのではないか、それを助けたのは貴方だろう?

「そうか、なるほどそう言う事か。キミはもう少し頭の切れる男だと思っていたのだがな」

高橋署長はそう言って椅子から立ち上がり、部屋の隅の置かれた小さな冷蔵庫を開けた。

そしてそこからペットボトルを二本取り出し、一本を田中の前に置きもう一本を口に再び席に着いた。

「そうだ、彼の昇進を助けたのは私だ。ちょっと口を挟んでな、彼を昇進させた。世話になった元教官だと言ってな。キミはそれがなぜかわからないようだな」

「逃がしの件では、無い・・・と?」

「当たり前だそんなものは私には関係ない、無意味だ。私が彼の昇進を助けたのは今時珍しい裏社会と繋がりのある古いタイプの警察官だったからだ。そうだな、彼は私に恩を売ったと思っていたのだろうがそんなものは、無い。私は彼を利用できると思ったから昇進させたまでだ」

「利用?」

「そうだ、彼はこういった部屋の中からでは知り得ない情報を集めるのには便利だった。まあ落ちぶれた元武闘派ヤクザの連中との繋がりではさほど役には立たなかったがな。それでも、まあ便利ではあった」


キャリアの世界と言う物は田中の想像以上のモノの様だ。田中は唖然としたがそうなるとやはり当初の疑問が湧き直した。

「なぜ私の昇進に?」

「それだ。渡部の奴がキミを一課に入れて部下にしたいと言ってきたからな、当然だが私はキミを調べさせてもらった。大したものじゃないか、警察学校は警視総監賞を取っている。その後の昇進試験の内容も見事だ」

「しかし、私は今でも巡査部長です」田中は下手なお世辞などを聞く気分ではない。

「そうだ、キミはとっくの昔に警部補どころか警部になっていてもおかしくないのに46?にもなって巡査部長だな」高橋署長はそこまで言って鼻で笑い、そして続けた。

「まだ分からないのか?」

「何がですか」

そう答える田中に高橋署長は軽くため息をついて答えた。

「キミは優秀な警察官で昇進試験の内容も完璧だ。まあノンキャリにしては、だがな。正直なところ、準キャリと並べても遜色のないキミがなぜいまだに巡査部長なのか。分からないか?」

まさか・・・。そんな・・・まさか・・・。

「キミは渡部を尊敬していたんだろ。でも渡部の方から今回の件は無しにしてくれと言ってきた。何があった?言ってみろ」

「なぜ渡部さんが・・・」

「分からないのか?今キミが私に持っている感情と同じだろう。ああいった古いタイプはゆっくりと進んでいる道を横からキャリアや準キャリにドンドンと追い抜かれていく、まあキミもだけどな。そんな中で同じノンキャリのキミにさえ追い抜かれていくのが許せなかったんじゃないか。私はキミの昇進試験に手を出すことはない。キミは昇進試験を受ければ警部補になれる、間違いない。渡部の妨害が無ければな」

「でも、私を捜査一課に入れるというのは・・・」

田中はまだ信じられない。自分の前に立ちはだかっていた壁が、総合的な判断と言う壁が、実は渡部だったなどと。

「そうだな、私は渡部を昇進させて捜査一課に入れるように口添えもしてやった。私が隅田川署の署長になった時に十分に役に立てるようにな」


「なぜ・・・」

田中にはまるで理解できなかった。

高橋署長への脅しなどまるで意味はなく、渡部さんが自分の昇進を阻んでいたなどと。

「分からないか。いや、分かりたくないのだろ?昇進試験は百点満点取ればいいものではないよな。当然周囲への素行調査も入る。そこでかつての指導教官がな、アイツはどうにも・・と言ったら通るわけがないだろう。だが渡部はもう捜査一課でキミからだいぶ距離が出来てしまった。だから改めて自分の下の置いておきたいと思ったんだろうな」

「ですが、渡部さんが警部になり私が、その、警部補になるというのは」

高橋署長は声を上げて笑った。

「渡部が警部に?なれるわけがないだろう」

「私が警部補になるというのは・・・?」

「だから、それはキミの実力で通るだろう。だがキミは捜査一課に入れない。私の下に付いてもらう」

「あなたの下に!?」

「そうだ、私の下で秘書室長にでもなってもらうか。巡査部長ではカッコが付かないからな」

「あなたの下に?」

「やっと理解してくれたか」

田中は何一つ理解できない。何が起きているのだ!?


だが一つ分かることがある。

私を下に付けたい。これは嘘だ。

高橋署長は自分でも言った通りキャリア組の中でもトップクラスなのだ。官僚一家の御曹司。

なんだ?私をどうしたいのだ。昇進試験を通過させないことで自分の力を見せつけようとしているわけではない、それは分かった。

田中はテーブルに置かれたペットボトルを手にし一口飲み答えた。

「分かりました」

そして、話はこれで終わりだろうと席を立った。

私を秘書室長に?それは嘘だ。高橋署長は用意されたレールを進みすぐにもっと上に行く。そのレールは警視総監でもまだ途中だろう。警視総監はあくまで首都東京の警察組織のトップにすぎない。この男の目指すゴールは警察庁長官か、検事総長か。もっと上かもしれない。

隅田川署署長の椅子など数年の腰掛けにすぎないだろう。そのために私を秘書室長に?

嘘だ。

私を呼び出した理由は他にあるはずだ。どう来る?何を出す?

田中は高橋署長に背を向けドアに向かおうとした。


「座れ。話は終わっていない」

田中はゆっくりと振り返り、再びソファーに腰を下ろした。

「まだ何か・・・」

「そうそう、キミが通報を受けた救助した女性のことなんだが・・えーと、なんていったかな・・・」

山井さんの件か!

しかしヘタクソな芝居だ。出来るだけ関わり合いを持っていないとアピールしているつもりか。被害者の名前も知らない事件のについて何を聞くつもりだ。高橋署長が私を呼んだ本当の理由、それは山井那奈についてだ。

まただ、彼女にはいったい何があるって言うんだ。

「山井さんです。山井那奈さん」田中は先ほどまでと同じように意気消沈したままだとばかりに下を向き表情を見せないようにしていた。

「山井・・・那奈か。そうだったな。キミは通報を受けたそうだな。誰からだ」

「さあ、ハコの電話にかかってきたもので」

高橋署長は少し身を乗り出し、指でテーブルをトントンと叩きながら言った。

「そうだな、調書にそう書いてあった。だがな、こうも書いてあった。その時間の通話記録は不明と。まあそうだな、はっきり言おうか。派出所の固定電話には通話記録がなかった」

トントントントン・・。耳障りな音が鳴り続ける。

「電話には非通知の表示すらありませんでした」

「もう一度言おうか?通話記録が無かったんだ。意味は分かるな」

そう、警察ならばたとえ非通知だろうが捜査関係事項照会制度を使い電話会社に捜査協力を依頼し通話記録などを開示させ通話者を特定することが出来る。

「分かっています。非通知の表示すらなかったんです」田中は繰り返した。

トントントン・・・トン・・・。高橋署長の指が止まった。

「異常だな」

「そうですね」

高橋署長は身を起こしソファーにもたれかかり、ハァーとため息をついて天井を見上げた。

少しの間、二人の間に沈黙が横たわった。

「キミの個人的なスマホに連絡があったという事は、ないな?」

そう言う高橋署長の顔は眉間に皴が寄り田中を睨みつけていたが、下を向いたままで答える田中がそれを見る事は無かった。

「私が受けたのはハコの固定電話です」

「そうか・・・」

また二人の間に沈黙が横たわった。今度は長い。


「彼女は貴方の・・・」田中が言いかけた言葉を高橋署長が遮る。

「その通報者は他に何か言ってなかったか?」

田中はしばし迷ってから調書には無かったことを口にした。

「彼女は命を狙われていると、言っていました」そして顔を起こし高橋署長の顔を見据えた。しかし、すぐに顔を伏せた。

田中を睨む高橋署長の顔があまりに恐ろしかったからだ。

なんだ、山井那奈。彼女は一体なんだ。何者なんだ。

死亡したという虚偽の情報を流させたのは高橋署長なのか?

そうだとすると、高橋署長は彼女が命を狙われていると知っていたからその措置を取ったのではないか?


高橋署長は今度は指ではなく、田中を何度も打ち据えた拳をドン・・ドン・・・とテーブルに落とした。

「キミは彼女の護衛に付け」

あまりにも唐突で突拍子もない指示に田中は驚いた。

「いや、彼女は警察病院にいますし。それに私はハコヅメですよ」

「そうだな、護衛は・・・そうだな。キミは彼女に・・・出来うる限りでいい。必要な許可は出しておく」

そう言って高橋署長は田中に頭を下げた。いや、下げたように見えた。うなだれただけかもしれない。


「他には何かないか?電話の相手は何か言ってなったか?」

今度は高橋署長がうなだれて頭を下げており、それを田中が見ていた。

「いえ、電話それで切れて私はすぐに現場に向かったので」

「そうか・・・他には?」

「彼女を助けたのは男でしょう」

田中が言うが高橋署長はそれほど興味を持たないようだった。

たった一人で銃器も使わずに五人の男を殺したのだ。

靴跡から乱入者は一人だと判明しているし、凶器は主にブラスナックルだろう、男でなければなんだというのだ。

高橋署長は田中の発言を鼻で笑った。

「それはそうだろうな」

「調書にないことでは・・・」田中の言葉に高橋署長が僅かに反応したがその顔を起こすほどではなかった。

「彼女を助けた男は喫煙者でしょう」

「それが?」高橋署長はまだ顔を起こさない。

現場には煙草の吸殻が多くあった。そして殺された五人は長谷部を除き皆、喫煙者だった。

「おそらくマルボロでしょう」田中がそう言うと高橋署長は顔を上げて田中と目を合わせた。

「なぜそれが分かる」

現場を見つけ通報しただけの男がなぜそんなことが言える?調書に目を通したのだろうが現場検証に立ち会ったわけでもない男が?

「遺留品のリストを見ましたが五人のうち喫煙者は四人、それぞれの銘柄も判明しています」

「そうだな、それが?」

「遺留品のうち、フィルターを千切り取り捨てられたマルボロの吸い殻が二つあったようです。フィルターを持ち帰ったのでしょう」

「そうかもしれないな。そうではないかもしれないが」

「マルボロは封の開けていないボックスが一つだけでした」

田中が言うと高橋署長はようやく疑念の目を向けた。

「空き箱は・・?」

「調書には、ありません」

「という事は・・・・」高橋署長にも察しがついた。もちろんその答えを奪うような無粋はしない。

「男が持ち去ったのでしょう」

五人の男のうちマルボロを吸っていたのは佐久間という男だ、それは吸い殻から判明している。

残されたのは封の開けていないボックスと吸殻だけ。吸いかけのボックスが無いのはおかしい。たまたますべて吸い終わっていたのなら空き箱が残されているはずだ。

「たまたま切らしていたから・・・持ち去ったのでは?」高橋署長は辛うじて答えた。

「私も煙草を吸いますがたまたまね、そう私もマルボロです。昔は煙草を切らした時によく同僚に一本ねだったりしたものですが箱ごと寄こせなんて思ったことはありませんね」

そうだ、喫煙者にとってのタバコの銘柄は、酒飲みにとってのビールの銘柄以上に譲れないものだ。

普段スーパードライを楽しんでいる酒飲みがたまたま立ち寄った居酒屋の生ビールが黒ラベルだったからといって店を変えることは無いし、お歳暮にエビスビールを貰っても飲まずに隣家におすそ分けするという事は無いだろう。

だが煙草呑みは違う。例えばマルボロを吸う者がタバコを切らし一本のマイルドセブンをねだることはあっても箱ごと差し出されたとしてもそれを受け取ることは無い。


この男は現場検証に立ち会ったわけでもないのに、調書からここまで読み取ったのだ。やはりこの男は使える。


「もういい、下がってくれ」高橋署長は再びうなだれそう告げた。

「では、失礼します」田中は立ち上がり署長室のドアノブを掴んだ。

「那奈を頼む」

絞り出すような微かな声だった。田中に向けた言葉ではなく自身に向けた言葉だったのだろう。だが田中の耳には辛うじて届いた。

田中は驚いて高橋署長を振り返った。そこにはうなだれたままの男がいた。

「なぜ私を?」

「それは・・・キミでないとダメな理由があるからだ」

「それは?」

「行けば分かる」高橋署長はうなだれたまま、出て行けと手を振った。


田中は署長室のドアを開け退出した。

何もわからない。

山井那奈。

彼女は何者だ?

いや、違う。問題は彼女自身ではないのだろう。

彼女の周りにいるのは誰だ?その一人は高橋署長だ。それは間違いない。もう一人は通報してきた、おそらく五人を殺し彼女を助けた男。

山井那奈は死亡したとの虚偽報道が成された。

それはSNS上で彼女に「五人殺し」というあだ名が付けられ病床の彼女に精神的なダメージを与えないように事件の沈静化を図るためだと説明を受けたが、そんな戯言を信じるほど田中は鈍くはない。この処置は高橋署長の指示によるものなのだろう。

彼は山井那奈がたまたま狙われたわけではなく、命を狙われていたという事を知っていた上で彼女を守ろうとしているのか?

だとすると、山井那奈を殺そうとしている三人目がいる。


彼女は・・・。

あの時、あの夜の公園で言った、兄がいると。

警察官の兄がいると言っていた。

高橋署長が山井那奈の兄?違うな。名前も何も違う。

高橋署長と山井那奈の繋がりは何だ?山井那奈の兄と何か関係があるのか?

田中にはもう自身を惨めに思う気持ちも、渡部に対する悔しさも、砂場に対する復讐心も消えていた。

いいだろう、突き止めてやる。



高橋署長は署長室を出て行く田中の背を見つめ、彼が部屋を出てドアが閉まるのを見ていた。

そしてまたうつむいた。

デスクに戻り、タバコを取り出し火を点けた。

マルボロだ。

そして書類を拡げた。

全て目を通している。何度もだ。だがまた見た。


喉を潰された男は窒息死。後頭部を砕かれた男はそのまま死亡。左肩を砕かれていた男は右前腕の開放骨折に右足の腓骨に脛骨、肋骨、腰骨等の複数の骨折が認められたが死因は頸部切創による失血死。頭部を砕かれたいた二人の死因については、一人は多数の腹部切創による失血死、もう一人も同じく切創による失血死だろう。ただこの男に関しては切創が頭部顔面を含む全身77ヶ所に及んでいた。


被害女性の報告。

右眼底及び鼻骨の骨折。頬骨亀裂骨折。第一小臼歯から犬歯、側切歯、中切歯歯冠破折。上下同位。

前椀尺骨骨折、橈骨の骨挫傷。右胸部の第五第六真肋の骨折。第三第四真肋の不全骨折。仮肋骨第八第九骨の亀裂骨折。左胸部・・・・。

全身の無数の打撲及び裂傷。極度の栄養失調。度重なる強姦による女性器の損傷。

山井那奈にもたらされた肉体的被害は書類一枚を埋め尽くすほどの物だった。


良く生きていたものだ。高橋署長は思う。


そして最後に記されている一文。

「幼児退行を認める。極度の精神的ストレスによるものと推測。8歳程度と思われる」


高橋署長は書類をまとめデスクへとしまい込んだ。


早く殺してやらなくては。



















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