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第六十八話 パンチはルールで禁止ですよ

事件は一応は報道された。

行方不明の女性が見つかった事と、男性五人が死亡していた事。

だがそれ以上の報道がされることは無かった。

報道では死亡した五人は反社勢力同士の抗争とされていたがよりドラマティックな展開を求めるSNSでは救助された女性をこう呼んだ。

「五人殺し」

だがその翌日には救助された女性が治療の甲斐なく死亡したとの報道がなされ、SNSはすぐに別の話題へと移って行った。


助け出された女性と、殺されていた五人の男性。そして田中。

山井那奈の死亡が報道されると直ぐに田中のスマホが鳴り響いた。

もちろん、谷巡査部長からだった。

泣き叫ぶの必死で抑え、それでいて嗚咽を吐き言葉にできない彼女に田中は言った。

「山井さんは警察病院で保護されている、かなりひどい状態の様だが助かるだろう」

それを聞いて谷は何度も何度もそれは本当なのかと聞き返した。

田中は山井那奈の監禁場所の通報を受け彼女を助けた当事者なのだ。聴取と言うよりまるで容疑者のような取り調べを受ける中で山井那奈の死亡報道の理由を聞かされたし、実際に警察病院へと出向き集中治療室でありとあらゆる治療を受ける彼女を見た。

「谷くん、山井さんは問題ない。だがこれ以上彼女に関わるな」

「なぜです!?」

谷にすれば那奈の状態を逐一知りたいだろう。無理もないが。

「山井さんの死亡報道を見たんだろう?だが彼女は生きている」

谷はしばし考えた。

救助された女性が死亡した。だが本当は生きている。谷は警察がなぜそんなウソをつくのかは分からないが、田中が谷を慰めるためにくだらない一時しのぎの嘘をついた可能性はある。だから再び聞いた。

「部長、信じていいんですね?」

「ああ」

それを聞いて谷は電話を切った。

最後に何を言ったのかは聞き取れなかった。

「ありがとう」と言ったのか「おねがいします」と言ったのかは分からないが彼女が今、号泣しているであろうことは分かる。


つい先日、警察人生でやりがいを持つことを捨てた田中に降って湧いたような事件は一つの決意をもたらした。

田中に出来る事は少ないだろう。いや、ほとんどない。

だが出来うることを全力でやるだけだ。

谷くんの為。山井さんの為。そして田中自身の為。

田中は山井那奈を守ることを心に誓った。


彼女には、何か謎がある。


隅田川署にやってきた田中は署長秘書の前に立ち、そして告げた。

「署長に呼ばれたんだが」

横柄な物言いに署長秘書、玉本巡査部長は少しばかり驚いた様子だった。


こういった男は令和の時代になってもいまだに多い。警察機構のような閉ざされた世界ではなおさらだけど、たかが制服警官のくせにその態度?

そう思った玉本はそのままには取り次がずに軽く首をかしげて言ってやった。

「署長は忙しいので。多くの方がいらっしゃいます」

名前くらい名乗ったらどう?どうせそこのドアをくぐったらペコペコするくせに。

「浅草寺交番、田中巡査部長」

全く男って言うのは・・・。あとでお茶でも持って行ってペコペコしているところを見てあげようかしら。玉本はそう思いながら内線電話を取り署長に告げる。

「浅草寺交番の田中巡査部長がいらしています」

「そうか、通してくれ。あとキミはもうあがっていい。ご苦労様」

玉本はホッとして立ち上がり田中にどうぞと言って署長室のドアに手を向けた。


玉本は書類をまとめ退勤の準備に取り掛かった。もう午後8時を過ぎすでに9時に近い。

最近、署長は退勤時間を大幅に遅らせている。

先日、行方不明だった女性が見つかり現場には誘拐犯と思われる5人の男の死体があったという大事件があったばかりだしその対応に追われているのだろうという事は分かるがそれに付き合わされるこっちは堪ったものではない。お小遣いのようなわずかな超過勤務手当で働かせられるこっちの事も考えて欲しいものだ。


「どうぞ」

玉本は手にした書類でもう一度署長室のドアを指し示した。

ハコヅメの制服組でもドアくらい自分で開けられるでしょう?

もう!こんな時間では晩ごはんというわけにもいかないし、軽くお酒でもと行きたいところだけど、ここ浅草には、アラサーとはいえまだギリギリ20代の女性が一人でゆっくりとお酒を楽しめるようなオシャレな店はない。どの店に入っても腋臭の酷い外国人にナンパされる!

彼らにとって浅草で一人で飲んでいる日本人女性など獲物どころか誘われていると思っているのかもしれない。いちいちそう言った輩を追い払っていてはゆっくり一人でお酒を楽しむという事すら難しい。

仕方ない、今日はコンビニでビールでも買って帰ろう。今日は、というより今日も、だが。

玉本がそんな事を考えながら田中の横を通り過ぎた時にふと思った。

そう言えば、あの行方不明の女性を発見したのは田中巡査部長・・・だった。

だが玉本は振り返りもせずに立ち去った。どうでもいいわ、オッサン二人で長々と話でもしていればいい。


田中は静かに歩み去る玉本の背を見送った。

良くない態度を取ったという事は田中も自覚はしている。

これからも一巡査部長として定年まで警察機構にしがみ付いて生きていくと決めたばかりなのだ。

昇進の目は断たれた。

砂場を殺さなかったことに後悔はない。渡部警部補を告発するつもりもない。瑠衣の事もあきらめた。

これから15年近くの長い年月を何事も無く、ただ静かに、やりがいもない警察官人生を過ごしていく覚悟を決めたばかりなのだ。

だが覚悟を決めたとはいえ、テレビのチャンネルを切り替えるように、そう簡単に気持ちを切り替えることも出来ないのもまた事実だ。

ベルトコンベアーの前に立ち、そこを流れていく何かを毎日をただ眺めるだけの人生。

はいそうですか、と即座に受け入れることが出来るほど田中は単純ではなかった。

だからこそ山井那奈の件は決して譲らない。

田中はそう決意して署長室のドアをノックし返事も待たずにドアを開け入った。


高橋署長が何故、自分を呼んだのか?予想は付く。渡部警部補が「逃がし」とあだ名されるきっかけの事の口止めだろう。

容疑者を取り逃がしその失態を他人に擦り付けた。その汚点を必死に隠そうというのだろう。

その程度はノンキャリ組ならば小さな躓きに過ぎないが、この男は勉強ばかりしてきた典型的なキャリア組。その小さな躓きが将来に大きく影響するのだろう。


もちろん、田中のように交番に勤務し現場を下から見るノンキャリ組と、将来警察機構全体を上から眺める事になるであろうキャリア組の視点は違う。それくらいは理解しているし、高橋署長はすぐに隅田川署からいなくなり、田中の目など届かない高みでこれからも昇進を重ねていくだろうことも十分理解している。

そんな男に意趣返しのような言動はするべきではない。

小さな躓きはノンキャリ組には大した影響はないがキャリア組には将来の将来の着地点を左右するほどに大きい。

逆にノンキャリア組が小さな意趣返しを試みてもキャリア組の将来が左右されることなど無いだろうが、キャリア組ならば一介のノンキャリ警官の将来を左右するどころか前後を塞ぐことが出来るだろう。

(耐えるんだ・・・)田中は自分に言い聞かせる。


「遅くにすまないな」

高橋署長はペンを置き腕時計を見て田中に言い、目線でソファーを差し示し続けた。

「座ってくれ」

田中は後ろに手を組み直立不動のまま返す。

「お茶でも淹れてきましょうか」

ソファーに座れと言うのなら話は長くなるだろうという小さな意趣返しだった。

良くない、これは良くない。それは分かってはいるが田中はまだ自暴自棄な部分を抑えきれなかった。


「そうか」

高橋署長は頷いて話を続けた。

「昇進試験が近いが忘れてはいまいな」

なんて小さな男だ。田中はダメだと分かってはいても内心憤る。当然田中は今度の昇進試験を受けるつもりは無かった。受かるわけがないのだから。

だが高橋署長は昇進試験で田中を落とすことで自分の力を誇示しようとしているのだろう。

田中は溢れ出る感情を吐き出すように大きく息を吐いてから答えた。

「受けろと言うのなら受けますよ。覚えておきます」

田中はもう一度大きく感情と共に息を吐いてから続ける。

「渡部さんとの件なら口外はしません、ご心配なく」

「渡部との件?なんの事だ?」

しらばっくれるつもりか?

「渡部さんが、逃がしと呼ばれるようになった一件ですよ。いや二件ですかね」

直立したままの田中は椅子に座る高橋を見下ろすように言った。

高橋署長は軽く驚いた顔を見せたがそれは驚愕と言うより、困惑と言った物だった。

「キミは少し教育が必要なようだな」

高橋署長が田中を指さして言い、それに田中は答えた。

「そうかもしれませんね、道場にでも行きますか」

どうにも抑えの効かなくなっていた田中は言い篭めるつもりで言ったのだが高橋の反応は違った。

「そうだな、行こうか」


隅田署の道場で二人は胴着に着替え立ち構えた。

田中は身長180を超えるが高橋署長は170に満たない小柄な男だ。その差は思いのほか大きく体重に至っては20キロは違うだろう。

柔道の階級で言えば田中は81キロ、級高橋署長は66キロ級がせいぜいといったところだ。

手加減してくれるだろうと思っているのか?それどころか忖度して負けてくれるとでも思っているのか。


高橋署長は思いの外、胴着姿が様になっており田中は少しばかり驚いた。

胴着くらい誰でも着られる。

相対すると高橋署長はやはり小さい。こちらが無抵抗でいると思っているのだろうが、これでは投げられてやるのも難しそうだ。

それでも田中は構え、無防備に身体を差しだすように一歩進んだ。

その瞬間、田中は畳に膝をついた。

なに!?息が・・息がつまる・・・。

膝をつく田中を小柄な高橋署長が見下ろしている。

鳩尾が・・・。殴ったのか!?

この体格差では投げる事すら難しいと思ったのか。

容疑者を取り逃すような失態を二度もしてそれを他人に擦り付け、それを知る俺に鉄拳制裁のつもりか?どこまで惨めな!それでも男か!?小僧が!


田中は怒りはしたがそれでもまだ冷静な部分は残っていた。軽く小内刈りで倒してやろうと考え構えた。

それは間違った選択だという事は分かっている。それをしては高橋署長はここ隅田川署を去る時に田中に置き土産を残すだろう。分かってはいるが、田中は父の死の真相を知ったばかりなのだ。

この参考書しか見てこなかった矮小な男の足を刈って軽く後ろに倒すだけだ、受け身くらいは取れるだろうと思い田中は再び構えた。

だが今度は袖を取ろうと腕を伸ばしたその瞬間だった。伸ばした腕に激痛が走り、再び鳩尾を打たれ田中は跪いた。

「何を・・?」

跪く田中に高橋署長は答えない。一歩下がりやや腕を下げた構えのまま田中を見下ろしていた。

それは、残心?

「空手!?」

「教育と言ったよな」高橋署長は答えた。

手で腹を抑え田中は立ち上がった。

「いいでしょう」

本気で行くぞ。付け焼刃の空手なんて組んでしまえば無力だ。


田中は構え右手を伸ばす高橋署長と対する。

まるで掴んでくれと言わんばかりだ。

田中は瞬時に左手で高橋署長の右袖を掴み右手で奥襟を取った。

素人が!

田中は掴んだ両手で高橋署長の身体を揺らし態勢を崩したと見るや大外刈りで畳に叩きつけてやろうと一歩踏み込んだ。

だが逆に踏み込んだ左足を高橋署長に払われ再び畳に倒れた。

田中は痛みをこらえ左足を抑え高橋署長を見上げて言った。

「何を!?」

「足払いだな」

足払い?これはただの蹴りだ!

田中の左足は木刀で殴られたのかと思えれるほどの痛みを発している。


そうか、そう言う事なら容赦はしない。左足は痛むが問題ない。

田中は自身が柔道の達人などと思うほどの奢りはないが、高橋署長に対し忖度する気持ちがあった。

いいだろう、やってやる。

田中はそう決意して再び立ち、高橋署長に相対したが文字通りに一切手が出なかった。

掴みに行った腕を打たれ、払いに行った足を蹴られ正確に鳩尾を打ち抜かれた。

唯一のチャンスは足を払いに行った時に高橋署長が放った下段蹴りを交わし偶然にも燕返しの形になった時だった。

残った足を刈ってやると田中は思ったが高橋署長の足はそこにはなかった。

高橋署長は飛び、手刀を田中の肩に振り下ろした。

田中は膝を付き肩を押さえ何とか激痛に耐え上を向くとそこには拳を放つ高橋署長の姿があった。

「まって!!」

田中は両手を上げて目を瞑った。

ゆっくりと目を開けると眼前には寸止めされた拳があった。


「参りました・・・」

田中は怒りに震えたが握りしめた両の拳を畳に付け首を垂れた。

だが高橋署長はまだ容赦なく言った。

「参った?教育だと言っただろう。立て」

田中の怒りが消えかけた。代わりに恐怖が火を点けた。

まだやるつもりなのか?なぜだ。

柔道で手も足も出ないのとはまるで違う。柔道ならば投げられても倒れても受け身を取れば痛みはさほどではない。

だがこれは文字通りの鉄拳制裁ではないか。

二度打たれただけの左前腕が酷く痛み、手は襟袖など掴めないほどに痺れている。足は石でもぶつけられたのかそれとも木刀で殴られたのかと思うほどに痛み立ち上がるのもやっとだ。なによりも鳩尾を打たれた時の息のつまる苦しみは恐怖そのものだった。

ただの痛みではない。手も足も出ない上で繰り出される痛みは恐怖だった。

「立て」

田中は痺れる左手を垂らしたまま右手を膝に当て何とか立ち上がった。だが足にも力が入らない。ふらつきながらも何とか立っている田中を前に高橋署長が構えた。

田中は構えるどころの話ではなかった。何とか防ごうと不格好なガード姿勢を見せたところで再び鳩尾を打たれた。

その一撃は、これまでの鉄拳制裁はかなり手加減していたという事と、この一撃すらもまだ本気ではないのだということが知れた。

激しい痛みと共に息がつまるというより、止まった。

田中は畳の上に倒れ、息を吸うことが出来ず窒息の恐怖に襲われた。

必死に腹を押し胸を抑えているうちに何とか呼吸が戻った。

「言いません。本当です!」このまま走って逃げ出したかった。

何とか起き上がり畳に膝をつき、降参です!と両手を上げ高橋署長を見上げた。高橋署長はまだ構えているが田中はもう立つ気力もない。

田中は悔しさのあまり目に涙を溜めた。それを見た高橋署長は構えを解き言った。

「いい顔だな」



















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