第六十六話 砕け散って死ね
キャンバス地のカーキ色のコートを着て目深にフードをかぶった後藤は金属のドアの前に立ちもう一度スマートグラスで中の様子を確認した。
眼前に映し出された情報では屋内にあるスマホは5台。3台は2階にあり、残りの2台は1階にあるようだ。一人は外出している。5対1の状況は回避できる。最悪でも2対1。それなら任せてまず大丈夫だろう。
後藤はこの建物の間取りはもちろん、中にいる男達、一人の女の情報を可能な限り調べていた。
男を全員殺し、女を田中に差し出す。
それほど難しいことではない。
昇進の目がなくなった田中を何とかしてやりたいと思ったわけではないし、誘拐され監禁されている女が可哀相だと思ったわけでもない。
女はどうせ殺すのだ。女を生かしておくのはリスクが大きすぎる。田中に渡すのは死体で十分だ。
だが、こんな手柄を立てさせたところで田中が昇進できる可能性は低いだろう。
ここに来たのはアイツが澱とため込んだ憎悪が溢れそうだったからだ。
それを燃やし尽くすのがコイツの存在意義だからだ。
あとは任せた。後藤は小さくつぶやいて軽く目つむり、そして去った。
後藤の代わりに怒れる男がドアの前に立った。怒れる男は右手でスマートグラスを外し超精密機器への扱いとは思えないほど無造作にコートのポケットに突っ込み、代わりにレザーグローブを取り出し両手にはめた。そしてもう一度ポケットに手を突っ込み超精密機器とは真逆のシンプルな金属の塊である2つのブラスナックル取り出し両手にはめた。
憎悪を糧に尽きることのない怒りを燃やし続けるこの男はその怒りの全てを拳に乗せて相手にぶつける。怒れる男はほんの僅かな憐憫も一切の容赦も持たずにその拳で相手を砕こうとするが、自らの拳に労りを持つこともない。ブラスナックルは男の怒りを具現化したような武器であり自らが発露した怒りが自らに帰ることを防ぐための防具でもあった。
男はドアを乱暴に叩いた。
男は常に憤怒と共にあった。常に憎悪を燃やしている。真っ黒のコールタールのような憎悪で満ちた海から生まれた男は喜びも哀しみも楽しみも持ったことが無く、怒りだけしかなかった。
ブラスナックルを付けた怒れる男の手で叩かれた金属製のドアはガンガンと派手な音を立てたが反応はなかった。ドアノブを掴み乱暴に回すがドアは開かなかった。
もう一度叩こうとしたところでカチャっと小さな音が鳴りドアが開いた。
「なんだよ、早いな・・あ?誰だお前・・」黒のジャージを履き濃い灰色のパーカーを着た男が立っていた。怒れる男はもちろん知らないし興味もなかったがドアを開けたのは五十嵐と言う男だった。
ドアを開けた五十嵐が怪訝そうな目を向けてきたが怒れる男はそれに少しも意に介さず左手を伸ばしドアを開けた五十嵐の右肩を掴んだ。
「なんだテメエ!」
五十嵐が肩を掴んできた怒れる男の手を肩をいなそうとしたその瞬間、怒れる男は五十嵐の顎に右のアッパーを叩き込んだ。
左手を伸ばした状態の体勢では充分とは言えなかったが顔を僅かにそむけた五十嵐からはまるで見えない角度から襲ってきたブラスナックルが充分な仕事をこなし五十嵐の顎の骨を二つか三つに割った。
顎を砕かれた五十嵐は血を吐きながら喚き声ともつかない音を発しながら反射的に距離を取ろうとしたが怒れる男は五十嵐のパーカーを掴み逃さなかった。
激痛と混乱に襲われ離れようともがく五十嵐を怒れる男は力任せに引き寄せ右腕を振りかぶると喉元にブラスナックルを叩き込んだ。
五十嵐の口からギュゥ!と奇妙な音がした。普通ならば首の骨まで砕けるところだろうが今度は狙いが近すぎたようだ。それでも五十嵐の気管をつぶす程度の威力は伝わっていた。
怒れる男が手を離すと五十嵐は両手をクビに当て床の上で釣り上げられた魚のようにバタバタと跳ねるように暴れていたが、声帯がつぶれて声は出ないようだった。ぎゅー、びゅーという呼吸をしようという必死さから出る音と共に口と鼻から血を流していると首あたりが少し膨らんできた。気管が裂け潰れ頸部に空気が溜まっているのだろう。
五十嵐は両手で首を抑えたまま怯えた顔で襲撃者を見上げたが、襲撃者は戦闘不能になった五十嵐を意に介さずに部屋の中を見回しながら後ろ手に進入してきたドアを閉め鍵をかけた。
部屋は100平米を少し超えるほどの広さで、右手にはシャッターがあり左の壁にはすっかり錆びあがった金属製のラックが備え付けられ様々な機材や部品が置いてあった。天井は高く10年は使われていなそうなホイストクレーンが設置されていた。かつては鉄工所か何らかの工場だったのだろう。正面左手にはまたドアがありそのわきに小さな洗面台が備えられていた。作業台代わりに使われていたような机とその上に置かれた工具、何もかもが茶色に汚れて錆びついていた。
怒れる男が五十嵐に目を向け手を伸ばすと五十嵐は恐怖のために暴れたが満足な呼吸すら覚束ない五十嵐には抵抗するどころか助けを求める叫び声をあげることすら叶わず、首を横に振り恐れと拒絶の意思を示すこと以外にできることは何一つなかった。怒れる男はそんな五十嵐の意思を一切気に止めることもなくパーカーのフードを掴むと力任せに引きずり正面のドアに向かって歩く。
ゆっくりとドアを開けた。
部屋の中はMåneskinのGOSSIPで溢れていた。
偽りの部屋へ進め。
そこでは金で買えない物はない。
そこはお前が生きるべき場所。
そこではお前はスターになれる。
そこでお前は救済を手にするだろう。
偽りの顔を持ちさえすれば。
そこはサーカス・・・。
まず女と目が合った。
正面の壁に押し付けられた全裸の女と、その女に向かって必死に腰を振る小柄な男。
女はそんな状況を見られても叫び声一つ上げずに無表情で怒れる男と視線を交わし続けた。
「もうちょっとでイクんス!」小柄な男、長谷部が振り返りもせずに言った。怒れる男は部屋の中に五十嵐を引きずり入れドアを閉めた。
先ほどの部屋よりは狭かったがそれでも60平米ほどはあるだろうか。窓一つない部屋で入ってきたドアと、左手にまたドアがあるだけだった。女は一つの薄汚れたベッドの上に立ち、部屋の右手には事務机やロッカー、さらに大型のスピーカーが置かれていた。
怒れる男に引きずられる五十嵐が何かを知らせようと全身をバタバタと動かすが、部屋はスピーカーから溢れ出る音楽で満たされていたしもう少しでイキそうな長谷部は振り返らなかった。
愛し合っている男女のセックスだったら非礼を詫びて部屋を出るか黙って静かに去るべきだろうが、この怒れる男にそんな気遣いを期待するのは無駄と言う物だ。それに女を見るにその可能性は限りなく低かった。
小男は両手で自分よりやや背の高い女の首を絞めながら腰を振っていたが、女の腕は男を抱擁することも抵抗することもなく力なくだらりと垂れ下がりまるで使い古されたセックスドールのようで、手錠をかけられたままの右手首は黒く血塗れで、身体は全身が傷と痣だらけで三毛猫のようにカラフルだった。顔はドラえもんかアンパンマンかと言いたくなるほどに腫れあがっていて、女と判断できたのは男に腰を振られていることとパンダのように黒ずんだ乳房と長い髪があったあったからだ。
怒れる男は五十嵐を離し長谷部に歩み寄った。
女は無表情のまま怒れる男を見つめ続けていた。
気配か何かの雰囲気か、もしくはイケたのか。長谷部が振り返ろうとしたがその寸前に怒れる男の腕が長谷部の首に絡み男の腕の筋肉が的確に長谷部の頸動脈の流れを止めた。
「え?ちょ・・」長谷部はそれ以上の言葉を口から吐くことなくほんの数秒で気を失った。
長谷部の身体は全身から力が抜けだらりと脱力したが怒れる男はそのままもう数十秒首を絞め続けた後にようやく離した。
長谷部は糸の切られた操り人形のように力なく床に崩れ落ちた。
長谷部から解き放たれた女はベッドの上のチューブトップを拾い胸元を隠し、ベッドの上に座り込んだ。女はだらしなく口を半開きにしてベッドの脇に崩れ落ちて気持ちよさそうに気絶している長谷部を見下ろしてから乱入者に目を向けたが乱入者には悲惨な状態の全裸の女を気にする様子は一切なく、部屋を見渡してから事務机に歩み寄って行った。机の上を探りそこに乗っていた手錠をいくつか持ってくると気を失っている長谷部の右腕をベッドのヘッドボードと手錠で繋ぎ、女の腕も同じようにベッドにつないだ。
そして乱入者は女に目も向けずに左手のドアに向かった。
「上に佐久間と小野寺がいる」女は乱入者の背に向けて言った。
乱入者はゆっくりと振り返った。
「もう一人は?」
「外。出て行った」
そういえばパーカー男は「早いな」と言っていたな。
「どこに行った?」
「わからない、買い物かもしれないけど」
「すぐに戻ってくるか?」
「分からない、五十嵐にはちょっと出てくるって言ってた」
そうか。まあ戻ろうが戻るまいが俺には関係ない。戻ってきたら殺すし戻ってこないなら知ったことではない。ドラグの野郎のミスだ。
男はフードを被ってはいたから那奈はその顔をはっきりとは確認することは出来なかった。しかし隠すというほどではなかった。顔を隠すならばバラクラバのような目出し帽でもかぶっていたほうがいいだろう。それは那奈に顔を見られて身元が判明してしまう事に対する警戒をしていないという事だ。
つまりは、そういう事だ。
「私も殺すの?」那奈は聞いた。
怒れる男はすれ違いながらの挨拶を返すかのように軽く「ああ」と言い左手のドアに向かった。
「なぜ今殺さないの?」那奈は聞いたが男は振り返っただけで応えなかった。だが男の言いたいことはわかった。
「いつでも殺せる」だ。
那奈はドアに向かう男の背を見つめていた。
部屋のスピーカーはEvanescenceのbring me to lifeを那奈に叫び始めた。
私はそのドアほどの価値もないの?
私の魂を見てはくれないの?
私の消えかけている魂。
フードで半ば顔を隠した男が五十嵐を引きずってこの部屋の入ってきた瞬間、夏奈兄ちゃんかと思った。目深にかぶったフードをめくるとそこには夏奈兄ちゃんの優しい笑顔があり「那奈!」と言ってくれると期待したが、もちろん違った。
あの男はここの五人と敵対しているのだろうか?それとも何かの復讐なのか。
男には那奈を見ても失踪した女性をやっと見つけたといったという歓喜は無く、凄惨な暴行の限りを受けてきた女性に対する憐れみもなく、那奈に僅かな興味すら持っていなかった。男は那奈を長谷部と同じにベッドに手錠で繋ぎ那奈を解放しようとはしなかった。少なくとも那奈を助けに来たわけではないことは確かだろう。
ドアの向こうに姿を消した男は金属製の階段を登っていったはずがその足音は全く聞こえなかった。
スピーカーから流れるエイミーリーのナイフのような歌声が那奈を切り裂いていく。
わたしの魂は消えかけている。
一緒に家に、帰りたいの・・。
那奈の両手にあるはずの温かみが消えた。
那奈は両手を拡げた。そこにあったはずの火は消えていた。
ウソ!?ダメ!!
那奈は叫ぶが周りは真っ暗だった。闇。深淵。
最後の那奈が折れようとしていた。
ヤダ!助けてよ!夏奈兄ちゃん!!
ドアを開けて。
ドアを開けて那奈って呼んでよ。
私には開けられない。
ドアを開けて私を助けて。
那奈は叫びついにはドアを見た。開いて!開けてよ夏奈兄ちゃん!!お願い!
だがドアは開かなかった。
笑い声が広がる。
無数の死にたがりが那奈を嘲り、罵り、侮蔑し、那奈は狂った笑いで埋め尽くされる。
そのドアを開けて。
私の血が無くなる前に。
私には出来ないから。
私が私でなくなる前に。
助けて!!
助けてよ、夏奈兄ちゃん!
冷たい部屋に狂った女の笑い声が、響いていた。
怒れる男はいかにも工場と言った感じの金属製の階段を上っていった。しかし足音は全くと言っていいほどしなかった。黒く頑丈そうなレザーブーツだったが二重ポリウレタンのソフトな靴底と訓練されたような足運びは身長180を超える程度に大柄な男の気配をほぼ完全に消していた。
階段を二度折り返し上りきると目の前にドアがあり、電灯の点いていないうす暗い廊下が右に伸びていた。廊下の右側にはドアが二つあり奥のドアからだけ光が漏れていた。
目の前のドアの脇にスイッチがある。中は暗い。おそらくトイレで無人だろう。スイッチを押すとドアの摺りガラスから光が漏れた。ドアを開け中をのぞく。誰もいない。中に入り慎重にドアを閉める。大便器があるであろう個室のドアを開けるもやはり誰もいない。念のため掃除用具入れであろう小さなドアも開けてみたがやはり誰もいない。
怒れる男はトイレから出ると廊下の奥に向かった。電灯の明かりが漏れる方のドアに向かいドアノブに手を伸ばすと心の奥から警告を受けた。
怒れる男は内心舌打ちして暗い方のドアに向かいそして開けた。部屋の中は暗く、ベッドが二台あるのが分かったが誰もいない。部屋に入りドアを閉め内部に目を向けながら右の手を後ろ手に手探りでスイッチを探る。感触を覚え瞼を少し下げ目を薄くしてからスイッチを押すと途端に部屋の中が明るくなる。元はこの工場の炊事場だったのだろう。キッチンと言うほどではないお茶くらいなら淹れられるといった程度のコンロとシンクががあった。
やはり誰もいない。怒れる男は電灯を消しドアの脇に立つと目を瞑り耳を澄ませた。
隣の部屋からは二人の男の声が聞こえる。時折怒鳴るような声が聞こえてくるがそれ以外の音は何一つ聞こえてこない。テレビを見ているわけでもなければケンカしているというわけでもないようだった。
怒れる男はそのまま二分ほど様子をうかがうと、目を開き部屋から出た。
怒れる男は灯りの漏れる部屋のドアの前に立ち、やや下を向いてドアノブを掴みドアを開けた。薄目で部屋を見渡すとこちらの部屋も正面にベッドが二台あり、左側に三台の机がありそれぞれにパソコンとディスプレイが置かれ椅子があった。そのうちの二台に二人の男がそれぞれ座っていた。
二人ともタバコを咥えヘッドフォンを付けてゲームコントローラーを握りしめかじりつく様にディスプレイに目を向けていた。こちらには全く気が付いていなかった。
怒れる男は二人の男に視線を向けたまま右手を後ろに伸ばしドアの脇にあるであろうスイッチを探った。スイッチはあるであろうと思った場所にあり怒れる男はスイッチを切った。
フッと部屋の電灯が消え二台のディスプレイだけが光源となると部屋の中が途端に薄暗くなった。街灯より高い場所にある窓からは僅かな光しか入ってこない。
「停電か!?」ヘッドフォンを付けていたせいだろう、佐久間がディスプレイに顔をよせ叫ぶように言った。
「ああぁ!?」小野寺が天井に目をやって電灯が消えているのを確認し、スイッチか?と後ろを向くと目の前に右手を構えた男が立っていた。
「龍・・崎?」いや違う!誰だ!と叫ぼうとしたと同時に男のブラスナックルに襲われた。僅かに伏せる程度の反応は出来たがほとんど意味はなかった。小野寺の頭頂骨後部が砕けその勢いで顔面で机の上のディスプレイを破壊した。部屋が更に暗くなった。
隣でディスプレイに頭を突っ込んだ小野寺を目にした佐久間は跳ねるように椅子から立ち上がり男に向かってヘッドフォンを投げた。USBジャックがパソコンから抜けるときの反動でヘッドフォンは見当違いの方向に飛んで行ったが佐久間は一歩下がり男を見た。暗くてよく見えないが男は小野寺を一瞥し佐久間に歩み寄ってくるのは分かった。小野寺は机に突っ伏して頭部から大量の血を流していた。小野寺の頭部から流れ出る血はあっという間に机全体に広がっていく。男の右手は血に塗れブラスナックルが光っていた。
佐久間は階下の長谷部と五十嵐に僅かな期待を持ったがそれはおそらく無駄なことだと理解した。
「なにしてやがるテメエ!」佐久間はまだ手にしていたコントローラーを男に投げつけたがやはりUSBジャックが抜ける時に見当違いの方向に飛んで行った。
「小野寺!!!」佐久間は声をかけるが反応はない。ただ手足がビクビクと動いているだけだった。
「やんのかテメエ」佐久間は両腕を構えて見せるが男は警戒する様子もなく近寄ってきた。
佐久間は咄嗟に右手で椅子を掴んだ。投げつけようと思ったが意外と重い。投げるというより転がせただけだった。
男は勢いよく転がってきた椅子を足で受け止めると脇に蹴り飛ばした。
「やんのかテメエ!」同じ言葉をもう一度口にする佐久間に言葉ほどの余裕はない。拳を固く握りしめ近寄ってきた男に警戒するような右のジャブを放つ。男が間合いの外で足を止めた所に一歩踏み込んでから右腕を大きく振りかぶりフックを振るう。しかし男は酸っぱい匂いでも嗅いだ時のように頭を軽くのけぞらせ容易に避けた。
「ビビってんだろ?」傍から見たら自分に言い聞かせているような言葉だという事は佐久間自身でもわかった。横目に小野寺を見るとすでに頭部から流れ出た血は机上を赤く塗り尽くし床に流れ落ち始めていた。
長谷部のチビと五十嵐はもうやられたのか?こっちに何一つ知らせることもできずにか。クソの役にも立たないやつらだ。そうなると女は逃げたのか?それはマジでマズい。この男を何とかして女を捕まえなくては。
佐久間は机の上に置かれた灰皿を手にすると男に投げつけた。佐久間と男の間に煙草の灰が舞った。佐久間はそのスキに一歩踏み出し必殺のパンチ、左のバックナックルで奇襲した。
怒れる男は目の前の男を正しく目踏みしていた。全くの素人ではなさそうだが格闘家と言うわけでもない。ジャブは拳を固く握って打ってはダメだ、それでは棒きれで殴りつけるようなものだ。それでは大したダメージは与えられない。ジャブは鞭のように放つものだ、拳を脱力させて前腕を鞭のように振るいインパクトの寸前に拳を握り締める。そうすると鞭の先端に突如分銅が足されたような効果が足され大きなダメージを与えることも可能だ。
そもそもあの大きく振りかぶったパンチ。
この男は、人を殴り慣れている。そんな程度だ。人を殴ることに抵抗を持たない類とでも言えばいいか。せいぜいが路上の喧嘩屋と言ったところだろう。
だから目の前の男が後ろを向いたときは逃げたのかと思った。この狭い部屋で?どこに?少し困惑したがその意図はすぐに分かった。バックナックルのつもりなのだろう。おそらくちょっとだけかじった格闘技の必殺技気分と言ったところだろう。
バックナックル。こんなところでは意味はない。とまでは言わないがリスクは大きすぎるほどに大きい。相手に背を向けるくらいなら素直に逃げた方が良い。
総合格闘技などで時折バックナックルを見るがあれはグローブの存在が大きい。まず振り回す形で遠心力を利用するためグローブの重さで僅かではあるだろうが威力が増す。そしてグローブが手を保護してくれているというところが大きい。グローブが無ければ当たり所、もしくは防がれ方によっては自分の中手骨を簡単に折ることにもなる。そうなれば片手の攻撃力を失いその代わりに無視できない痛みを得ることになる。
しかも足の運びも実にお粗末だ。バックナックルを放つのに二歩も動いていてはテレフォンパンチどころではない、殴る前に挨拶しているようなものだ。怒れる男は佐久間必殺の実にスローなバックナックルをあっさりと左腕で防ぐと同時に腕を返しそのまま佐久間の腕をつかんだ。
これがバックナックルの最大のリスク。防がれたら相手に無防備な急所をさらしてしまうというところだ。
ここには周りを囲み逃げ道を塞ぐ金網はないが、一撃で致命傷となる急所を守ってくれるルールもない。後頭部、後頚部、背骨。佐久間は急所を怒れる男にさらけ出してしまった。
怒れる男は佐久間の腕を力強く引いて体勢を崩させると拳を強く握り右腕を構えた。ブラスナックルを付けた男のパンチは鞭ではない、スレッジハンマーの一撃だ。ブラスナックルを装備した拳はハンマーヘッド、一撃で対象を粉砕するまさに必殺の一撃になる。
この怒れる男に喜びがあるとすれば相手に怒りをぶつけること、つまり殴ることだ。溜まった憎悪を怒りで燃やし尽くす為に殴ることだ。相手が絶命するまで肉を潰し骨を砕き、その肉と骨でシチューを作ることだ。
怒れる男は右腕を振り下ろし佐久間の左肩甲骨を砕いた。広背筋や棘下筋で守られるように覆われているが肩甲骨自体は意外と薄い。三角形で分厚く頑丈な斧頭のような形状が想像されるが実際は二枚貝の貝殻のように内側は凹面になっていてそれほど厚くなければ頑丈でもない。
怒れる男の存在意義は殺すことそのものではなく後藤の中に溜まったコールタールのような憎悪をガソリンのような憤怒で燃やし尽くすことにある。一人目の頭部を一撃で砕いたのは二対一という不利な状況を解消するためだ。
怒れる男のスレッジハンマーの如き一撃を左肩に打ちこまれた佐久間は絶叫した。左肩が爆発し、腕がちぎれたかと錯覚するような激痛だった。だが腕はちぎれてはおらずまだ掴まれたままで逃げることは出来なかった。男がもう一撃はなった。今度は皮膚を裂き骨を更に砕き肉と骨を混ぜるような一撃だった。理解の越えた痛みに佐久間は昏倒した。
男は気絶した佐久間の左腕を掴んだまま引きずりながら部屋を出た。佐久間は想像したことさえない痛みのあまり気を失ったが、それほどの痛みは佐久間を容易に現実に引きずり戻した。
「離せ!てめえ!離せ!!」左肩が野犬に食いちぎられたように痛み、叫ぶ以外に何一つ抵抗できそうにない。
「止めろ!!!離せ!!」佐久間はあまりの激痛に懇願するかのように叫び続けたが男は振り向く素振りすら見せず佐久間を引きずって廊下を進んでいく。階段の前までくると男はもう片方の手で佐久間の腰のベルトを掴んで持ち上げた。
佐久間は男の意図を察し必死に抵抗しようとしたが身体を動かそうとするだけで左上半身が爆発するかのような痛みに襲われ悶えることすらできない。佐久間のかすかな抵抗と懇願も虚しく男は佐久間の身体を柵の向こうに投げ捨てた。
佐久間はほんの一秒か二秒で一階に下りたった。男は佐久間を見下ろしてから部屋に戻り机から佐久間の吸っていたタバコ、マルボロを見つけポケットにしまうと痙攣することもなくなった小野寺を部屋から引きずり出し階段から転げ落とした。
那奈は笑っている狂人が自分だと気が付いた。
ここで最後。
もう終わり。
死ぬの。
犯され汚され、殴られ壊され続けても耐え抜いてきた那奈の最後が折れた。
小さな火は消えた。
死にたがりがやってきた。
那奈の両手を温める火は無くなった。
そこには憎悪が揺らめいていた。
両手で首を抑えて芋虫のようにうごめく五十嵐と、下半身を丸出しにしたまま気持ちよさそうに気を失っている長谷部を見た。
きっとあの男がこいつらを殺す。そう思うと更に憎悪が滾る。
男が出て行き開け放たれたままのドアの向こうから「なにしてやがるテメエ!」という怒声が遠くに聞こえた。そして暴れるような音がし、佐久間の絶叫が聞こえてきたが一分も満たないうちに静かになった。
佐久間がなにか言う声が聞こえたが聞き取れなかった。しかし徐々に声が近づいてくる。
「離せ!てめえ!離せって!」
「おい!やめろ!頼む!お前!ふざけんな!!!」
佐久間の怒声の後に絶叫が響いた。
ドンッと、何かが落ちてきた音が聞こえた。落ちてきたのは佐久間なのだろう。
少しの静寂の後に何かが階段を転げ落ちる音がした。こちらは小野寺だろうと那奈は思った。
那奈は耳を澄ましたが乱入者が階段を下りてくる音は聞こえなかった。
しかし男は二人を引きずって再びドアに姿を現した。この部屋に入ってきた時から男は足音を一切立てていない。二人を引きずる音だけが部屋の中で小さく響いた。
腕を掴まれて引きずられてきた小野寺は頭から大量に出血していてすでにパーカーの大部分が赤く染まっていた。意識が無いのか声も出さずに歯を食いしばり、かすかに痙攣している。
右足を掴まれて引きずられてきた佐久間も同じように意識はないようだった。左足は脛にもう一つ関節が増えたかのように引きずられる方向とは正反対にU字に曲がっていた。落下した時に手をついたのだろうか、右の前腕からは骨が皮膚を突き破っていた。床に擦られるように引きずられた顔は床に赤い血筋を残していく。
乱入者は引きずってきた二人から手を離し、床に転がる四人を見回した。
「あと一人は・・」那奈への問いかけではなく独り言のようだった。おそらく龍崎の事だろう。
「じゃあ、最後だな」男が振り返り那奈に向かってきた。
最後。那奈の事だろうというのはすぐに分かった。男の右手は血に塗れていたがブラスナックルは金色に輝いていた。
那奈は憎悪を揺らめかせ乱入者を睨みつけ、唸るように言った。
「こいつら、まだ、生きてる・・」
乱入者は少し驚いたような顔をして首を軽く傾げ那奈を睨み返した。
5人の暴漢から暴虐の限り受けて今まさに死にかけている女と、その5人のうち4人をいとも簡単に殴り砕いた男が睨み合っていた。乱入者はポケットからタバコを取り出し咥え火をつけた。そして那奈に問いかけた。
「命乞いはしないのか」
「こいつら!!まだ、生きてるだろ!!」那奈は逆に乱入者に憎悪を向けた。
一分ほど二人が睨みあった後、男は屈みこんでから小野寺の血で煙草を消すとブラスナックルを外し長谷部の服でまとわりついた血と髪の毛を綺麗に拭った。そしてタバコの吸い殻を千切りそのフィルターと共にコートのポケットにしまい込んだ。
乱入者は再び立ち上がると那奈を見た。
そしてすぐに目を瞑り那奈には聞こえないほどの小声で「あとは知らんお前がやれ」そう呟き去っていった。
那奈の前には別の男が立っていた。
「なんだよあの野郎、あと一人だろ。女一人くらい簡単だろ」
はー。男はため息をついた。
「女はなあ……」
何が起きたのか理解できない那奈と突然現れた男の目が一瞬交差したが、男はそのまま部屋を見回している。
突然目の前に現れたこの男と先ほどの乱入者の服装は全く同じだった。身長も背格好も、そして顔も。
しかし先ほどの乱入者は燃えるような熱さを放っていたが、この男からは蛇のような冷酷さが滲み出ている。
先ほどの乱入者からは決して耐えられようもない押しつぶされるような力を感じたが、この男からは決して決して逃れられない狡猾さが感じられる。
何だよあいつ、職場放棄だぜ。何しに来たんだよ、殴るしか取り柄のない筋肉馬鹿のくせしやがって女一人殺せないのかよ。
おいおいおい!しかも全員まだ生きてるじゃねえか。まあ頭に一発入れられた男はもう大丈夫だろうけどよ、喉がつぶれた男と手足が砕けている男もまあどうにでもなるか。しかしああいう痛そうなのを見ると尻の穴がキュッとするんだよな、痔になりそうだぜ。で、ちんこ丸出しで気持ちよさそうに眠っている野郎は、無傷ね。まあこれはあの筋肉馬鹿が珍しく少ない脳味噌を使ったってところか。
「つーかよ、そもそもなんで俺なんだよ。こんなの飯炊きのお釜野郎でいいだろ」男はぶつぶつと独り言を呟いてから舌打ちをして床に倒れた四人の男達を見渡した。少し考えこむように一人小さく頷き那奈に振り返ると蛇が舌を出すような冷たい笑みで聞いた。
「殺したいでしょ?」
長谷部は目を覚ました。
あれ?女とヤッていて・・・あとは思い出せない。
えーと・・・マズい!女に逃げられる!龍崎さんにブッ殺される!!
しかし体が動かない。まるで状況が理解できない!
「おはよう」
長谷部の傍らにフードをかぶった男がいた。
状況を判断するべく慌てて周囲を見回すと長谷部を挟むように男の反対側に小さなペティナイフを手にした女がいた。
女は逃げていない。長谷部は少し安心したがさんざん女をいたぶってきたベッドに今は自分が手錠で縛り付けられていた。ご丁寧に両手両足を。
「起きた」女が長谷部の顔を覗き込みナイフを手に近寄ってきた。
「まだまだ、早いって」フードの男がたしなめると女は下がりベッドの脇にちょこんと座った。
「え?何?どういうこと?」長谷部の問いかけにフードの男は答えなかった。女が目を見開いて長谷部を凝視している。
「落ち着いて。いくつか聞きたいことがあるんだ。質問にはすぐに答えてね、嘘はだめだよ、嘘は無し。交渉も無し、時間の無駄だからね。質問にはすぐに答えること。嘘は無し。いいかな?」フードの男が言った。
「ちょ、え?なんで?」五十嵐さんは?長谷部が見渡すと足元の方に両手で喉を抑えたまま口から血を流し僅かに動き悶えている五十嵐さんが見えた。右を向くと頭の周りに血だまりを広げる小野寺さんと、壊れた人形のように手足がいびつに曲がった佐久間さんがいた。二人には全く動きが無かった。龍崎さんの姿はない。
佐久間さんと小野寺さんがあの状態なら俺がこんな状況でもしょうがない、龍崎さんに怒られることもないだろう。長谷部はよくわからない安堵を得て少し落ち着いた。
「大丈夫?いいかな?」フードの男が言った。
「いや、待って!どういうこと?」女とヤッていて気が付いたら五十嵐さんと佐久間さん、小野寺さんが死にかけている?
フードの男が舌打ちして女を見て右手で招いた。女のナイフが再び近づいてきた。
「ちょっと待って!待って!分かった!何でも話すから!女を止めて!!ね!?助けて!」
フードの男がにっこりと笑顔になり制止するように左の手のひらを女に向けた。女はナイフと共に再び下がった。
俺が女とヤッているときにこのフードの男に襲撃されて五十嵐も佐久間も小野寺もあっさりやられたんだ!いつも威張り腐っているくせに!なんの役にも立たないじゃないか!時間を稼ごう、そうすれば龍崎さんが帰ってきて何とかしてくれるはずだ。そうなればあんな風に死にかけている三人より無傷の俺の方が頼りになるって思ってくれるはずだ。
フードの男がポケットから薄黄色のスマホを取り出し長谷部に見せた。
「これ、見たことある?君たちの仲間で誰か持ってる人はいるかな?」
薄黄色のスマートフォンだったが長谷部は見た覚えが無かった。
「無いですっ!」そう即答したかったがそれはこのフードの男に失望を与えそうで怖かった。失望させたらどうなるのか。
フードの男の反対側のナイフを手にした女を見ると飛び出そうなほどに目を見開き長谷部を凝視していた。
答えを言い淀む長谷部の態度からそれを察したかのようにフードの男は質問を変えた。
「見たことないかな?それならカバーを付けていたかもしれないね、それなら分からないのも仕方がないよね。じゃあさ、君たちの中にスマホを二台持っていた人はいるかな?」
「龍崎ですっ!」長谷部は即答した。長谷部は龍崎がスマホを置いたまま部屋を出ようとしてポケットから別のスマホを取り出すところを何度か目撃していた。二台持ちですか?と聞いたら問答無用で殴られたこともあったから間違いない。
「龍崎って言うのは、今は出かけている最後の一人だね?」
「はい!そうですっ!」長谷部の今の主人は龍崎からこのフードの男に変わっていたが、まだ龍崎がこのフードの男を叩きのめして無傷の自分を褒めてくれることにも期待していた。だが長谷部はこのフードの男が言った「最後の一人」と言う文言には気が付いていなかった。仲間はここにいる四人だけではなく、六人でも十人でもなければあと一人だけと言う意味の。長谷部を助ける可能性があるのはあと一人だけ。ドアからいきなり四人も五人も乱入してくることはない。長谷部はそれを知らず知らずのうちに肯定してしまった。
「きみは持っていないかな?」フードの男が念を押すように聞いてきた。
「持ってませんっ!」号令のようにハッキリと長谷部は答えた。
フードの男は満足げに微笑み長谷部に小さく頷き、ありがとうねと感謝の意を伝えたあと女には大きく頷き「いいよ」と左手で手招いた。途端に女は繋がれていた鎖から解き放たれたかのようにか細い両手でナイフを逆手に掴み長谷部に向かって大きく振りかぶった。
「ちょ!!嘘は言ってないです!本当です!助けてくれるんでしょ!?」長谷部が必死に弁明するとフードの男はナイフを振りかぶった女の両手を掴んで止めた。
「ビビらせないでくださいよ、その女をどっかにやってください」安堵のため息とともに長谷部は言ったがフードの男は長谷部に目もくれずに女に向かって自身の胸を左手でトントンと叩きながら長谷部が望んでいたこととは全く逆のことを言い始めた。
「ここ、この骨ね。肋骨をまとめる胸骨って骨があるんだ。そこにぶつかったらそんなナイフじゃ刺さらないからね。そうなるとキミの指が危ないよ。そんなに振りかぶらなくて大丈夫、どこでもいいからゆっくり押し込めばいいよ」
そう言われて女は逆手に持っていたナイフを持ち直し長谷部の顔を覗き込んできた。
何を言っているんだこの人は!?
「はあぁ!?なに!?嘘は言ってないですって!本当です!龍崎が持ってますって!」
「龍崎くんはどこにいったのかな?すぐ、戻るかな?」フードの男が聞いた。
「わかりません!!」
長谷部が正直にそう答えたところで女が手にしたナイフが長谷部の脇腹にゆっくりと音もなく刺さった。
長谷部は悲鳴を上げた。
「刺さってるー!!!」長谷部がフードの男に悲痛な訴えをぶつけた。
「刺さってるー!!!」女はフードの男に歓喜の報告を告げた。
フードの男はやや苦笑いで女に頷いた。
「刺さっているね」
女は物静かなフードの男と叫び続ける長谷部を交互に見た。
フードの男がため息交じりに「いいよ」と頷くと女は手にしたナイフを長谷部から引き抜き腹部にもう一度ゆっくりと深々と突き刺した。長谷部がまた悲鳴を上げた。
「なんでぇ!?話が違うでしょ!」
女は柄まで刺したナイフを引いてまた長谷部の腹を刺した。女はナイフを刺すたびに長谷部の反応を確かめる様に顔をのぞき込み、ナイフを抜いてはまた差し込んだ。女はその動作を繰り返した。長谷部の真っ白な腹から真っ赤な筋がいくつか垂れ下がり薄汚れたベッドを赤く染めていく。
ナイフで腹を貫かれるたびに長谷部は絶叫しフードの男に女を制止するように何度も何度も求めた。しかし女に懇願することはなかった。
「この女止めて!約束が違うでしょ!!!」
フードの男は長谷部にほほえみを返し小さく二度三度と頷いた。
約束?あれ、約束なんかしたっけか?
えーと、いやしてないよな?交渉は無しって……言ったよな?うん言った言った。間違いなく言った。人の話はちゃんと聞かないと痛い目に合うぜ。
しかし可哀相だよな、この女。
人って言うのはさ、最初はなんにも持たずに生まれてくるもんだよ。まん丸い石ころみたいなものさ、綺麗なもんで何もくっついていない。でもいろいろ経験するうちに丸っこいだけだった石ころに喜びや怒り、哀しみや楽しみって言う手や足が生えて人として成長していくんだろうな。
でもこの女はせっかく生えた腕や足をこいつらに根こそぎ折られちまったんだろうな。
子供が遊びでカエルの口に突っ込んだ爆竹に火を点けるように無邪気に男の腹にナイフを刺していやがる。
この女はブッ壊れちまっている。可哀相にな、まん丸の石っころに戻っちまったんだ。
あ?俺だって可哀相って思う事はあるぜ。可哀相だから見逃してやるってことはないけどな。ああ、絶対にない。
この女は可哀相だけどよ、ぶっ壊れちまってるな。まあそれならそれでいいさ、俺だって人を殺すのは好きってわけじゃない。嫌いなわけじゃないけどな。そりゃあ必要なら殺すけど、できれば殺りたくはない。だって、めんどくさいだろ?
誰だってそうだろ?カーネルの店に揚げたての鶏肉を買いに来たら「じゃあお願いします」って生きた鶏を渡されたらどうする?揚げたての鶏肉が食いたいからってその首を刎ねることができる奴なんてそうはいないだろ?そんなことを言われたら誰だって「今日は菜食主義者になろう」って思って揚げた鶏肉の代わりに揚げたじゃが芋でも頼むだろう?俺はそうする。飯炊きは喜んで鶏の首を斬り落とすだろうし、筋肉馬鹿は何も気にせず鶏の首を引きちぎるかもしれないけどな。
でもな、俺の後ろに並んでいたやつが代わりに鶏の首を刎ねてくれるって言ってくれたなら?まあ頼むよな。カーネルおじさんの揚げた鶏肉は最高に美味いしな。
だからな、この女がここにいる四人の息の根の止めたいって言うなら是非にとも任せてあげたいってところだ。なんなら残りの一人もお願いしたいがな。
で、俺はその後にこの女一人締めれば五人前の揚げたての鶏肉を味わえるってことだよ。
「助けてぇ~」ナイフで腹を刺され続ける長谷部の声が響く。
だははっ!!
鼻水出ちまったよ。きったねぇ。
面白いなぁこいつ。なんだよ「助けてぇ~」って!お前はお姫様かよ。腹にいくつも穴を開けられて言う台詞じゃないだろ。俺は力をみなぎらせてお姫様を助ける王子様じゃないしな、お前はもうすぐ殺されるんだぜ?そんな時に口にする台詞じゃないだろ。
「助けてぇ~」ナイフを手にした女が天井を見上げながら長谷部の真似をした。
いや、お前が言っても笑えねぇよ、お前は怖いんだよ。ゾンビ映画にでも出てきそうな薄汚れた汚ったねぇ女がよ。
もちろんでっかい乳をぶるんぶるん揺らしながら男とヤッてる時に背後からゾンビに襲われるような役柄じゃあなくてな、襲った女に食らいついて引きずり出した臓物を両手に持って喜んで食っているゾンビ役の方だよ。
な?そんな風に目ン玉ひん剥いてナイフで人の腹をぶすぶす刺している女がよ、そんなこと言ってもこっれっぽっちも笑えねぇんだよ。
「止めてぇ~」また長谷部が漏らすが先ほどより声に力が無い。
女に言ったのか俺に言ったのか分からんが、こいつはまじで面白いんだけどよ。こっちがなあ。
「止めてぇ~」女が再び長谷部の真似をした。
本気で怖いわ、この女。
「死にたくないよぉ~」長谷部の声が力なく漏れる。
長谷部の腹はもう10個ほどの穴が開いただろうか、腹部はもう血で覆われていてその判別は難しい。
「死んでない」女はさらに零れ落ちそうなほど目を大きく見開き後藤に顔を寄せて聞いてくる。
本当に、何しても怖いなこの女。
まあ10センチもない小さいナイフだからな。心臓にでも刺さらない限りそう簡単には死なないだろうよ。肝臓とか腎臓の太い血管が切れたらもう助からないだろうけど、それだって切れたからすぐに死ぬってわけじゃないだろうからな。まあ俺は医者でもないから詳しくは知らないけどな、そこいら辺は拷問大好き飯炊き野郎の方が詳しそうだ。
「ああ、刺さりところが悪いんだろうね。刺した後にね、ぐりぐりって捻ってみればいいんじゃないかな?」
なんで俺がこんな馬鹿な提案をしてやらなくちゃあならないんだよ。勘弁してくれ。
女は首を傾げたまま身体を前後にゆする。
だから怖ぇって!言われた意味が分からないのか。
「いや、だからね、マックシェイク知ってるよね?マックシェイク。あれ飲むときにストローをぐりぐりするでしょ?あんな感じに刺したナイフを捻れば死ぬんじゃないかな」
「マッ?マッ?」女は分からないといった風に再び首を傾げ身体を前後に揺らした。
マックシェイク知らないのかよ、嘘だろ?まあ何でもいいけど、何だよ・・・ったく。
「あ~スタバ知ってる?スタバ。女の子ならスタバの何とかフラペチーノとか知ってるでしょ?あれを飲むときにぐるぐるかき混ぜない?カップに入ったコーヒーか何かに乗ったクリームをね、かき混ぜながら飲むでしょ?ぐりぐりってさ、あんな風にさ、そのナイフをね」
うんざりするぜ本当に!このイカれ女!
「うん!うん!」女は大きく頷いてまた長谷部の腹にナイフを刺した。
「ぐり~ぐり~」女は言われた言葉を何度も繰り返しながら長谷部の腹に刺したナイフを上下左右に捻り始めた。
「ああぁ~」長谷部の口から血が少し溢れてきた。胃袋に穴が開いて腹腔内に溜まった血が流れ込んだのか、肺を切られたのか。しかしすでに大量に出血していて血圧が低下し口から勢いよくあふれるほどの血はもう残っていないのだろう。
女はナイフを抜いては別のところに刺して捻るといったことを繰り返した。
長谷部の口から笑えるような言葉は出てこなくなった、微かな声と僅かな息が漏れるだけだ。
それでも女は長谷部の腹を穴だらけにして内臓や血管を十分に切りかき回し続けた。
そして女がナイフを刺すのを止めて長谷部の顔を覗き込んだがもう何の反応もなかった。長谷部はもう何も見ていない目を開き、もう何も喋ることのない口を半開きにしたまま動かなかった。
「死んだ?」女が目を見開いたまま顔を寄せて聞いてくる。
「うん、死んだね」フードの男が答える。
寄るなよ怖いからさあ。しかし、あの筋肉馬鹿が部屋に入った時はまだこの女はそこそこ普通だったよな。なんでこんな風にいきなり壊れちまったんだろうな。あの馬鹿を見てビビっちまったのかな。
まあ、女は後回しだな。龍崎ってのがいつ帰ってくるか分からないからな、少しは準備をしておかないとな。あれを持ってるってことは首領格だろう。で、こういう連中の首領格ってのは一番強いってのが定番だからな。
まあ馬鹿だろうけど・・・。
龍崎はドアの前に立った。電話をかけようと思ったが普段使いのスマホは置いて出てきてしまった。カバーをかけた薄黄色のスマホしかない、これをこんなつまらないことに使うのは気が引けた。
耳を澄ますがドアの向こうからは何も聞こえてこない。まだヤッてるのか。ならすぐそこに五十嵐か長谷部のチビがいるはずだ。
「開けろ!!」龍崎はドアを叩いた。長谷部のやつがスイマセンと連呼しながらドアを開けるてくることを少し待ったがドアが開く様子はない。
あいつら、ナメてんのか?もう一度ドアを叩こうとしたがふとドアノブを柄んだ。
回った。鍵のかかっていないドアが開いた。中に入りドアを閉め鍵をかけた。
あいつら、鍵も閉めねえで女とヤッてるのか?ちょっとシメてやらねえと分からねえようだな。あのチビの顔面を殴りつけ這いつくばって謝るところに顔面を蹴り飛ばしてやるか頭を踏みつけてやるか。そのあとにあの女を始末させよう。なんでか知らんがまだあの女が生きてることがバレちまった、依頼主が激怒しているらしい。まあ最初は上玉だったし楽しめたが今じゃ長谷部のチビしか見向きもしないからな。十分楽しんだし・・・何だ?
龍崎は床の黒いシミに気が付いた。屈んでよく見てみると、血だ。警報音が頭に鳴り響いた。部屋を見渡すとテーブルの上に小さなスパナがあった。静かに歩み寄り手に取った。武器としては心もとないがラックにまとめられた鉄パイプは3メートル以上の物ばかりだった。丁度いい長さの物を探すこともできたが荒々しい音を立てるのはマズいだろう。他にめぼしい武器はない、龍崎は右手でスパナを握りしめ静かにドアを開けた。
まず目に入ったのは床に転がっている仲間の三人だった。そしてフード付きのカーキ色の安っぽいコートを着た見知らぬ男とボロ雑巾のような今さっきすぐに殺そうと心に決めた薄汚い女。見知らぬコート男がこちらに気が付いた。コート男はすぐに動いたがその意図は察せられた。コート男と龍崎の丁度中間に落ちている鉄パイプを拾おうとしているのだ。龍崎は咄嗟にコート男に手にしていたスパナを投げつけた。コート男はスパナを避けたがそのせいでひるんだ。龍崎はそのスキに鉄パイプを拾った。長さは2メートル弱と言ったところだろう。コート男は投げつけられたスパナを避け、龍崎が鉄パイプを手にしたのを見て慌てる様に周りを見渡しすぐ近くにあった別の鉄パイプを拾った。長さは60センチか70センチと言ったところだろう。龍崎が持つ鉄パイプに比べると半分くらいの長さだ。
龍崎はそこでベッドの上で腹部を真っ赤に染める長谷部に気が付いた。死んでいるようだ、全く動きが無く薄汚れているはずのベッドが綺麗に真っ赤に染まっていてまるで新品のようだ。
龍崎とコート男の間の五十嵐は両手で喉を抑え死にかけの芋虫みたいにうごめいている。ベッド脇に転がっている小野寺は頭の周りに血だまりを作り動きが無い。その横の佐久間は龍崎に気が付き助けを求める視線を向けているが手足がありえない方向に曲がっていた。
助けになりそうなヤツは一人もいない。この男が一人でやったのか?仲間がいるのか?
「てめえ、何もんだ!?何してやがる!!!」龍崎が吠えたがコート男は答えない。
コートの男は答える余裕が無いのだろう、短い鉄パイプを両手に持ちこちらに向けているが腰が引けてすっかり怯えているようだった。仲間を呼ぶような素振りは無い、一人だ。
「まさかこのゴミみたいな女を助けに来たのか?」龍崎がじりじりと少しずつ歩み寄りながら言った。バカな野郎だ。
「さっさと逃げるべきだったな」龍崎が鉄パイプを両手に持ち徐々に近づきながらニヤ付いて言ったが怯え切ったコート男は下がることもできずに答えることもない。
間合いに入った!そう判断した龍崎は鉄パイプを振りかぶりさらに一歩踏み出しながらコート男の下半身めがけて鉄パイプを振った。
頭部や上半身は狙わなかった。長く重い鉄パイプのやや遅い一撃ではダッキングで避けられる可能性があったからだ。しかしこの間合いで下半身なら避けようがない、あのような腰の引けた態勢では飛んで避けるにも後ろに引くにも間に合わないだろう。龍崎は鉄パイプの一撃を腰か太ももに食らい悶絶するコート男にどう追撃するか考えニヤ付いた。あんな体勢ではとっさに後ろには避けられない、まともに食らうだろうし、ジャンプしたところでそんなに高くは飛べないだろう、空中で食らうだけだ。そうなればダメージは少ないだろうが無様に叩き落されるだけだ。そこにもう一撃を食らわせるのは容易だろう。
しかしコート男は龍崎の予想外の動きをした。とっさに一歩進んで手にした鉄パイプを床に突き立て左のつま先で抑え、上端は両手で抑えた。
龍崎は(しまった)と思ったがもう遅い、振り回した重い鉄パイプを止めることは出来ない。
龍崎が振った鉄パイプとコート男が床に突き立てた鉄パイプがぶつかった。
ガァン!!と派手な金属音が響いた。コート男にダメージはない。龍崎は手にした鉄パイプを引き戻しながら身体を後ろに引こうとしたがコート男は龍崎が手にした鉄パイプを思いっきり踏みつけた。
咄嗟に鉄パイプから手を離せばよかったのだろうが明らかに有利に見えた武器はそう簡単には捨てられなかった。
踏みつけられた鉄パイプに引っ張られるようにして龍崎は前のめりに体勢を崩した。それを迎えるようにコート男の蹴りが飛んできた。
避けられない!龍崎は瞬時にそう判断し耐えるという選択をした、それしかなかった。コート男の革のブーツが顔面目掛けて迫ってくる。鉄パイプからは手を離したがガードは間に合いそうも無い。しかし食らうのを分かっていれば耐えられる。鼻や目に食らうのはマズいが可能な限り額で受ければ耐えられるだろう。
コート男の一撃を鼻に受けることを避けるため咄嗟に顎を引き頭を少し横に向けた。コート男の蹴りが龍崎の顔面に迫りきた。黒い、妙にごついブーツだ。食らったらその勢いで後ろに転がるだろう。そうなるとコート男は龍崎が捨てた鉄パイプを拾う、そのすきに後ろのドアを出てそこでいったん体勢を立て直す。龍崎は歯を食いしばり目を瞑った。
コート男のブーツが龍崎の額とぶつかった。革のブーツの威力ではなかった。後ろに転がろうと思った龍崎の頭が真っ白にフラッシュした。
一秒か二秒か。龍崎の頭のフラッシュが解けると目の前には怯えなど一切なく口からドライアイスのような白い息を吐く笑顔を見せるコート男の鉄パイプが迫っていた。
「素手ならわからなかったと思うけどね、鉄パイプなんか使うからだよ」男の声を初めて聴いて龍崎は激痛と共に気を失った。
龍崎が目を覚ますと目の前にボロ雑巾のような女がこちらを覗き込むようにしていた。
右の顔面がひどく痛む。怒鳴りつけようと思ったが口にはガムテープか何かが張られていた。そしてベッドの上で両手両足が手錠に繋がれていた。ベッドは酷く濡れていてとても不快だった。
口を塞ぐガムテープの奥で外には出せない怒鳴り声をあげながら横を見ると青白く生気の全くない顔をした長谷部がこちらを見ていた。
ベッドを見ると血で染まっており、それが長谷部のチビの血だと思うと不快さが増した。
逆側に目を向けると五十嵐と佐久間、それに小野寺がいたが三人とも血まみれで生気が無くすでに死んでいるようだ。
どれだけ気絶してのかは分からないが少なくとも長谷部以外の三人がこうなるくらいの時間だったのだろう。
起きようと、自由になろうと、力の限り暴れようと身体を、両手を、両足を動かそうとするがベッドに繋がれた手錠の許す範囲でしか動くことが出来ない。しかしじっとしていることもできない。
「あ、起きたみたいだね」
部屋の向こうの机の前にいたコート男が龍崎を振り返り言った。
「ちょっとBGMが欲しくてね、今行くよ」
コート男はゴミ女のスマホをスピーカーにつないでいた。
ジャミロクワイのバーチャルインサニティーが流れ始めそれをバックにコート男がどこか優雅で滑るような歩調でゆっくりと近づいてきた。
コート男が脇に屈みこんだ。その後ろに小さく座ったゴミ女もこちらを見ていた。
「いやあ、君たちの曲はどうにもうるさくてね。この子のスマホをちょっと借りてみたんだ」
龍崎は全身の力を奮い暴れるが手錠はどうにもならないしガムテープが張られた口では怒号を吐くこともできない。
「いくつかね、聞きたいことがあるんだ。暴れたり叫んだりしないで静かに答えてくれると嬉しいんだけどね」
だが龍崎は手錠を外さんとばかりに悶え続ける。
「うーん、ちょっと強く殴りすぎたかな?耳、聞こえているよね?ガムテープ外してあげるから静かにね?」
後藤は龍崎の口を塞いでいたガムテープを一気に剥がした。
「てめえ!!何もんだ!!ブッ殺すぞ!!!離しやがれ!」
コート男は首を傾げ呆れたような表情をして何も答えなかった。
しばしの沈黙が流れ「おい!てめえ!!誰だってんだ!」と龍崎が声を荒げようとした時にコート男が口を開いた。
「俺は龍崎。君の仲間だよ」
「ふざけんな!」
「じゃあそうだな・・・俺は龍興寺竜興。正義の味方だよ」
「ナメてんのか!!」
「そう、ナメてるんだよ。君がテメー何もんだって叫んだところでなにも意味は無いんだ。俺はそこの女の子を助けに来たヒーローだよって言ったら少しは納得するかもしれないけどさ、それに意味はないよね?君はそれを確かめられないんだからさ。ね?ここで俺が何を言っても君がそれを確かめることは出来ないんだからその質問に意味は無いんだ。分かるよね?君が何を質問しても意味はない。分かるよね?」
「ブッ殺すぞ!!コラァ!!」
後藤は舌打ちしまた龍崎の口をガムテープでふさいだ。
後藤はとがらせた口に人差し指を当て「静かにね」というジェスチャーを龍崎に見せた。
だが龍崎は少しもおとなしくはならず暴れ続けた。手錠が許す範囲でだが。
後藤はため息をつき、左拳を握った。
殴るつもりはない。叩くだけだぜ、殴るのは筋肉馬鹿の仕事だからな。
後藤は握った拳の龍崎の顔面に落とした。大したダメージはない。だがまた落とす。また落とす。繰り返し龍崎の顔面へ拳を落とす。
龍崎は思わず顔をそむけるが後藤はまるでジャミロクワイのリズムに合わせるかのように龍崎の顔面に拳を落とし続ける。
5回、10回、30回・・・後藤はジャミロクワイにやらされているんだとでも言うかのようにリズムに合わせ龍崎の顔面に拳を落とし続ける。龍崎は必死に避けようとするがあまり意味はなかった。後藤の拳は龍崎の頭部に当たりさえすればいい。口を塞いでいるから噛まれる心配もないし、殴ると言うほどの力を込めているわけでもないので拳を痛めることもない。だが龍崎の顔面はそうではない。歯と拳に挟まれた頬や唇が裂け始め一分もすると口中はすぐに血が溜まり始めた。二分もすると鼻血が出始めた。まずは右の鼻の穴が血で詰まった。左の鼻の穴を守ろうと顔を左に背けるが当然、コート男の拳が右顔面に落ち続ける。必死に避けようとするが全て無駄な行為だった。コート男の拳が右の眼球に当たる。目は閉じてはいたが顔面を殴られるのとはまるで違う激痛が走った。
そうか、そう言う事か。そうか!こいつは依頼主の使いか。だからここが分かったんだ。あのゴミ女が閉じ込められているここを。そうでなけりゃあブタ女の居所がバレるわけねえ。そりゃあいい女だったからちょっとばかり楽しんだが。だけどだからって俺の仲間を四人も殺すか?とんでもねえ野郎だ!だが俺はまだ無事だ、殺すならとっくにやっているだろう。どうする?クソ!佐久間も小野寺も殺しやがった!!
龍崎は堪らず怒りと懇願の混じった視線をコート男に向け、必死に首を縦に振った。コート男が拳を止めてくれた。
コート男は先ほどと同じように口を突き出し人差し指を当てた。
「聞こえているかな?静かにしてほしいんだ。大声を出さなくても聞こえるし、時間の無駄だからね」
後藤はそう言って再び龍崎の口を塞いでいたガムテープを剥がした。
「分かった!待ってくれ!たった今あの女の親を殺してきたんだ!依頼はきちんとやっている!待ってくれ!」
後藤がそれを聞いてから女に目を向けると、女はまたナイフを刺せるのかと嬉しそうに笑い、近寄ろうとした。
しかし龍崎が後藤の視線を追い女を睨むと、女は怯えたように立ち上がり離れてしまった。
「違うんだ!あの女もすぐ殺すつもりだったんだよ!でもいい女だったし、ちょっとくらい楽しんだっていいだろ?でももうほら、ゴミクズだ、ちょうど殺そうと思ったところなんだ、な?女がここにいることは誰にもバレていないんだ、問題ないだろ?」
ん?どういうことだ?うーん・・・こいつは依頼を受けてあの女を拉致してアンパンマンみたいに痛めつけていたのか。それにあの女の親もか。で、俺の事を女を殺していないことに怒った依頼者と勘違いしているってところか。ま、普通に考えたらあの女がここにいる事を知りえる奴はいないだろうからな。俺は別だが。
「いや、俺はあの女とは関係ないんだけど」
「なら何しに来た!?」
コート男はまたため息をついた。
「だからさ、君が何を聞いても意味が無いんだ、時間の無駄なんだよ。質問するのは俺、答えるのは君」
「何を聞くって言うんだ!?」
龍崎は怒りのあまり後藤のいう事が半分も理解できていない。
はあ、全くこういう馬鹿の相手をするのは本当に疲れるぜ。両手両足を手錠に繋がれているのに何でそんなに強気になれるんだ?少しだ、ほんの少し考えてもおとなしく従順な態度をとった方が良いって分かるだろ?
後藤は龍崎が持っていたレモンイエローのデバイスを手にし見せつけた。
「これのパスワードを教えて」
「は?そんなもん殺されるのと同じじゃねえか!言うかバカが!」
「ま、いいけどね。でも言うしかないよ」
「パスワードを言ったらおしまいだ!言うわけねえだろ!聞き出せるもんならやってみろ!」
こいつ、ついさっき首を縦に振ったのをもう忘れているのか。馬鹿の相手をするのは疲れるんだよ。
「そのデヴァイスを持っているならサヴァイバーって知ってるでしょ?君たちの敵だよね」
サヴァイバー?もちろん聞いたことはある。ハックエイムの全員に狙われている賞金首だ。そいつを殺せば一気に幹部になれるって話だ。だが末端の俺らには何の情報も無くそんな野郎が本当にいるのかすら分からない。
・・・まさかこいつは俺をサヴァイバーと勘違いしているのか!?俺を殺して名をあげようと!?バカが!
「違う!俺はサヴァイバーじゃないぞ!」
後藤は左手の人差し指を立てて再び必死に暴れ始めた龍崎向けた。
「本当だ!!違うって!俺じゃねえよ!なに勘違いしているんだよ!!」
後藤は「違うよ」と言うジェスチャーのつもりだったが龍崎は「嘘をつくなよ」と捉えたらしい。
「今さ、俺は『君たちの敵』って言ったよね?分からないかな?」
「あ?知らねえよ!サヴァイバーの事なんて!俺はサヴァイバーじゃねえ!!本当だって!」
俺がお前をサヴァイバーだと疑ったり、お前からサヴァイバーの情報を引き出そうとしていると思ってたのか?どこまで馬鹿なんだよこいつは!!めんどくせえから殺そうかな?いいだろ?聞くは一時の恥って言うだろ?俺は二回も聞いた。殺そうぜ?え?駄目?
「あのね、俺がサヴァイバーなんだよ」
「は!?あ?え!?」
後藤は龍崎が理解するのをじっと待っていた。
「でも、いや、え?お前がサヴァイバー?」
「そう!そう言う事!」
後藤は少し嬉しそうに両手の人差し指を二丁拳銃のように立て龍崎に向けた。
「は?なんで?いや、お前が?サヴァイバー?なんで?」
「そう言う事。ちょっと説明するから聞いてくれるかな?」
後藤は両手の二丁拳銃を乱射するかのように前後させながらにこやかに龍崎に微笑んだ。龍崎はまだ理解が追い付いていないようで脳をフル回転させる代わりに暴れるのを止めた。
「俺たちサヴァイバーは君たちハックエイムの敵だよね?」
「あ、ああ」
とりあえず殺す気はないようだ。しかしパスワードなんか絶対に教えるか。それを教えるという事はデバイスを奪われるようなものだ、そうなったら俺はおしまいだ。裏切り者として賞金首おくりだ。
「サヴァイバーって何か知ってる?」
「い、いや。賞金首という事しか知らん」
パスワードを言うしかない?言わなきゃ殺すって言うんだろ?だが言ったら俺は終わりだ。誰が言うか!
「MAEVEって知ってるよね?」
「ああ」それなら知っている。東京のどこかにあるって言うなんでもあるし何でもできるって言う天国だろ?
「行ったことある?」
「あるわけねえだろ!」
あるわけがねえ!俺からMAEVEの情報を聞き出そうって言うのか?知るか!噂には聞いたことはあるが会員証は数億か数十億って話だ。俺にそんな話が回ってくることすらない。
「MAEVEって言うのはさ護国寺の地下にあるんだよ、地下100メートルだか200メートルだかの地下にね。でね、そこはシルドラってボスが支配しているんだ。すごいよね、拳銃使いの支配下にあるのに拳銃使いの支配が届かないエリアを作ったんだ」
「あ?拳銃使い?」
「あれ、知らなかったの?君たちのボスだよ。拳銃使い。ブラックオワホワイト。色んな呼び名があるみたいだけど、その正体は誰も知らない」
「その正体を俺に聞こうって言うのか?知るわけねえだろ!離せ!」
後藤はさすがにため息をついた。
誰も知らないって言っただろ?それをなんでお前なんかに聞くって言うんだ。馬鹿馬鹿!糞馬鹿!!馬鹿の相手は疲れるんだよ!
「そうじゃないよ。MAEVEって言うのはさ、ハックエイムの支配する世界の中に作られた独立国家なんだよ、分かる?」
「あ?それがどうした」
やっぱり理解できないか。うーん、まあいいか。
「MAEVEがハックエイムの中に作られた独立国家なら俺たちサヴァイバーはハックエイムの外に作られた独立国家なんだ。簡単に言うと敵対している。分かるよね?」
「だからなんだ!」
この馬鹿に分かってもらえるか?分かってもらえたら最高に嬉しんだけどな。
「俺たちサヴァイバーはまだまだ強くない。ハックエイムから隠れて必死に抵抗しているような状況なんだ。だけどいつかMAEVEみたいにハックエイムと対等・・・とまでは行かないまでも、おいそれと手を出せない組織にするつもりなんだ」
「それがどうした!」
「君にサヴァイバーに入って欲しいんだ」
「は?」
「俺たちには戦闘に特化した人間がまだ少ない。そこを君に助けて欲しいんだ」
「はあ!?ならなんで佐久間や小野寺を殺した!?」
「残念ながら彼らは弱かった。それに俺たちが今すぐに欲しいのは兵隊じゃなく隊長なんだ。君には俺たちの戦闘部隊を率いるリーダーになって欲しいんだ」
「ふざけんな!俺の仲間を殺しておいて俺に手下にするつもりか!?」
おお、意外と理解が早いな。
「そう、弱い奴は要らない。君は強いでしょ?何より容赦がないのがいいね」
ジャミロクワイが歌い終えマックルモアがノーバットデイを歌い始めた。
「俺に手下になれって言うのか?」龍崎が口に溜まった血を吐きながら聞いた。
おお、必死に少ない脳ミソをフル回転させているな。
「そう言う事、悪い話じゃないと思うけどね。俺たちはハックエイムの対抗組織として成長するつもりなんだ。そうなった時に君はサヴァイバーの戦闘部隊の隊長として上位幹部だよ」
「そんなことが出来るわけがねえ!」
そうそう、脳ミソを使え。そして考えろ。
「難しいことは俺たちも分かっているよ。だから君みたいな戦闘力が必要なんだ。君はこのままハックエイムの中でのし上がって行けると思う?難しいんじゃないかな?でも俺たちサヴァイバーが強くなってハックエイムから一目置かれる立場になった時にはね、君はサヴァイバーの大幹部だよ」
「出来るわけがねえ・・」龍崎の言葉は先ほどより弱くなっている。
「そうかもね、でも俺たちは諦めない。少なくともハックエイムに『敵』と認識されるまでには強くなっっている。MAEVEだって独立を勝ち取った、俺たちもそうなる」
「だから俺にパスワードを言えってことか・・」
おっと意外と、理解が早くていいな!
「そういう事。君がいくら言葉で仲間になるって言っても俺たちをハックエイムに売る危険はあるからね」
「俺がパスワードを言ったら・・・」
「そう、君はハックエイムから狙われるからね、俺たちを売ってももう意味がない。君は俺たちの仲間になるんだ、不安だろうけど俺たちはまだ殺されていない」
「パスワードを言わなかったら・・・」
「そう、今ここで君を殺すよ、見逃す意味はないからね。だから君は俺たちの仲間になって一か八かのし上がるか今ここで死ぬかのどちらかだよ」
龍崎は必死に考える。
だが答えはすぐに出る。
「分かった」
「理解が早くて助かるよ。パスワードは?」
龍崎がついにパスワードを吐き後藤はそれを入力した。
ん?これは・・・・うーん・・・。
「そう言えばさっきさ、君はあの女の子の母親を殺してきたって言ってたよね、依頼人は誰なんだろ?」
「俺も詳しくは知らねえよ、あのゴミ女の親族らしいとは聞いていたけど」
「え?でも母親を殺してきたんだよね?」
「ああ、そうだけど。詳しくは知らねえって」
後藤はどうでもいい会話をしながらパスワードの解除された龍崎のデバイスを調べ続けた。
「糞雑魚じゃねえか!!」後藤は怒号と共に龍崎のデバイスを思いきり投げ捨てた。龍崎のデバイスがコンクリートの壁にぶち当たりいくつかの破片となって飛び散った。龍崎はまだ何も理解できていなかった。必要の無くなったデバイスを壊しただけだと思っていた。それどころかこれ以上デバイスから追跡されないように壊してくれたとさえ思っていた。
だがコート男の様子がおかしい。やっと仲間を増やせた弱小組織のそれではなかった。コート男は部屋の隅で縮こまっていたゴミ女に声をかけ呼び寄せた。
「ほら殺していいよ」
ゴミ女がナイフを手に嬉しそうに近寄ってきた。
「何言ってんだテメエ!パスワード教えたろ!?」
「うん、聞いたね」
「仲間になって欲しいんだろ!?」
「いや、要らないよ」
ゴミ女が近寄ってくる。ナイフを手に。
「はぁ?俺に戦ってほしいんだろ!?戦闘部隊を率いて欲しいんだろ!?」
「えぇ?まさかぁ、そんなわけないでしょ君なんか要らないよ。そもそも戦闘部隊なんてないしね」
「てめえ騙したのか!!」
「騙したって言うか・・・まあうん、そうかな」
「てめえ!ブッ殺すぞ!!」
「無理だと思うな」
龍崎は必死に暴れるが繋がれた手錠はどうしようもない。
ナイフを手にしたゴミ女が脇にちょこんと座った。
「失せろゴミ女!」龍崎が叫んだ。
女はビクッと震えて怯えたように少し下がった。
ああ、だめかあ。この女はびびっちまってる。さすがにこいつの事は恐ろしいんだろう。
しかしこの男もなあ、ベッドに縛り付けられてろくに身動きもできないのに散々いたぶってきた相手によくそんなこと言えるもんだよ。ナイフを持っている相手にだぜ?そんなこと言うか普通。
俺がこの男の立場だったら何とかなだめすかして時間を稼ごうとするけどな。まあ俺ならそれ以前にこの男の立場にはならないがけどな。殺す必要があるならさっさと殺す。こんな風にぶっ壊れるまでいたぶる趣味は無いからな。
しかし女が使えないなら俺がやるしかないか。めんどくせえなあ。こういう奴を殺すのは好きじゃないんだよ、まじでさ。
「あっち行ってろ!クソ女!」龍崎がまた叫んだ。女は怯えて逃げるように龍崎に背を向けてしまった。
だめだこりゃ。最後の最後で使えねえなこの女・・・。後藤は諦め女に与えた殺人許可証であるナイフを返してもらおうと声を掛けようとしたが割って入るように龍崎がまた叫んだ。
「失せろ豚女!ブッ殺すぞ!!」
うるせえなあこいつは、さっさと殺すか。後藤がそう思った瞬間に女が振り返った。
映画のエクソシストみたいに首だけがぐるっと振り返った。
「あ・・・」思わず後藤は驚きを漏らした。
「あ!?」龍崎が反応した。
「ブッ殺してみろ!!!」そう叫んでナイフを逆手に握った右手を龍崎の腹に叩きつけた。
龍崎は激痛を叫んだ。そして女に怒号を飛ばす。
「てめえ!何しやがる!!」
何しやがるも何もナイフで刺されたんだよ・・・。
そりゃあそうだろ?散々いたぶってきた相手によ、ナイフを持っている相手にブッ殺すぞなんて言ったらそりゃあそうなるだろ。どれだけ頭悪いんだよって感じだけど、こういう馬鹿は意外と多いんだよな。他人の痛みが分からない奴な。自分がどんなに他人に苦しみを与えてもそれが自分に返ってくるかもしれないなんて少しも考えもしない奴。自分だって他人に攻撃されるかもしれないって当たり前のことが頭にない奴。
普通の奴はそう簡単に他人を攻撃したりしない。他人に与える痛みを心のどこかで自分が受けた時の事を考えてしまうから躊躇してしまう。普通の奴は自分が受けた時の苦しみを考えてしまうから、その苦しみを他人に与えることに躊躇する。
でもいるんだよな、こういう奴。
自分が苦しみを与えられるなんて考えたことが無いんだろうな。だから他人に苦しみを与えることに躊躇が無い。
だから自分が散々いたぶってきた相手がナイフを手にしていても「ブッ殺す!」なんて馬鹿なことを平気で言えるんだ。そのナイフで刺されるなんてまったく考えずに「ブッ殺す!」なんて言えるんだ。
「ブッ殺してみろ!!!」
女は食いつかんばかりの勢いで龍崎の顔に近づいた。
「おい!てめえ放せ!手錠を外しやがれ!」龍崎が後藤に叫んだ。
外すわけないだろ・・。
後藤は呆れた顔で首を振った。
「くそ!放せ!」龍崎は暴れるがどんな怪力であったとしてもステンレス製の手錠はどうにもならない。なるわけがない。
「ほらあ!ブッ殺してみろ!」女も叫んでナイフを龍崎の腕に突き立てた。
「あああ!!ふざけんな!クソ女!!」
ほらほら、そういうこと言うから事態が悪化するんだよ。まあそうだな、ここで謝れるような奴は人をここまで壊せないだろうよ。
「クソ女をブッ殺してみろ!!」女は龍崎の腕からナイフを抜き今度は龍崎の股間に突き立てた。
龍崎は一瞬何をされたのか分からなかったようだが、女が手にするナイフが自分の股間に突き立てられたのを見て叫んだ。
「あああ!?ああ・・!!」龍崎の叫び声に初めて悲痛さが混じった。
そこはだめだろ!そういうのは肛門がきゅっとするんだよ。女はこれだから・・・。
「止めろ!放せよ!」
「放せ!」が「放せよ!」になる程度にこいつも弱気になったようだがそこは「放してください」か「許してください」だろうな。どっちにしてももう遅いがな。こいつは俺が床に置いた鉄パイプを拾うべきじゃなかった。俺がこいつの立場なら逃げていたな。俺はちんこ丸出しのちびの死体はまだしも他の三人は階段の下にでも隠しておこうと思っていたんだよ、仲間の三人がやられているのを見たら普通は逃げるだろうからな。でもその前にこいつが帰ってきちまった。一人で三人を相手にしたような奴からは逃げたほうがいいし、そうでなければまだほかにも敵がいるってことだ。俺なら一目散に走って逃げる。
女はもう一度龍崎の股間にナイフを突き立てた。
「はあああ!!あああ!」龍崎の叫び声にさらに悲痛さが足された。
「気持ちいいだろ!?」女はそう叫んで執拗にナイフを捻った。
「止めろ!放してくれ!」龍崎はやっと後藤に向けて懇願した。
後藤は無表情で興味なさそうに龍崎を見た。
そして女を見た。どれだけ殴られたら、何をされればこうなるのかと思うほどに女の顔は腫れあがり黒く、まん丸だった。しかしそんな丸く腫れあがった顔でも女が怒りに、いや憎悪に満ちているのが分かった。
そうか、そういうことか。あの馬鹿。
スピーカーからSiaがTitaniumを歌い始めた。
お前の声など聞こえない。
私の声を聞け。
「喘げ!イキそうなんだろ!喘げ!!」女はそう叫び龍崎の頬にナイフを突き立て引き裂いた。女は龍崎の顔をナイフで切り裂き始めた。
「臭いんだろ!?」女は龍崎の鼻をナイフで裂いた。
「よく見ろ!私を!薄汚いだろ!?」女はナイフで龍崎の右の眼球を刺し抉った。
龍崎はやっと激痛と死を予感し叫びながらなんとかナイフから逃れようと首を振るがもちろん無駄だった。
龍崎の叫びにSiaが返すように歌った。
私は負けない。
何をされようとも。
全て貴様にはね返す。
何を、何をされようとも。
「殺してみろ!ブッ殺してみろ!!」女は叫びながら龍崎の全身を滅多刺しに刺し続けた。
龍崎は怒り叫び続けたが、あのちびと同じように次第に叫ぶこともなくなり聞き取れないような小さな声と微かな息を吐くだけになり、ついにはそれすらも出さなくなった。龍崎が死んだ。
それでも女は龍崎の身体をナイフで刺し続け切り裂き続けた。龍崎の身体はもう何の反応も示さず女の刺すナイフで押され、切り裂かれるたびに引っ張られるだけになった。流れ出る血は止まり切り裂かれていない場所ももうない。龍崎の身体は文字通りぼろきれの様に裂かれていた。しかし女はナイフを放さず龍崎の死体を壊し続けた。
「もういいでしょ?とっくに死んでるよ」後藤が言うと女はやっと動きを止めた。
「もういいでしょ?ナイフを返してくれるかな?」後藤が右手を差しだした。
しかし女は怒りに満ちたままの丸顔を後藤に目を向けた。
ブッ殺してみろ。
ブッ殺してやる。
クソみたいな場所とクソみたいな遊びだ。
そうだ、来いよ。俺に殺されるか俺を殺すかだ。俺を殺すのはだいぶ難しいぜ。なんせ俺は頭がいいからな。でもやってみるしかないぜ。まさかこの状況で俺の事を白馬に乗って助けに来てくれた王子様だなんて思ったりはしないだろう?
後藤は右手を差しだしたが左手はコートのポケットの中でスタンガンを握っていた。女がナイフを振り回したところで刃渡り10センチに満たないペティナイフの一撃で致命傷を負わせることは難しいだろう。
だがこっちはちょっと触れるだけで一瞬で戦闘不能状態に陥らせることが出来るスタンガンだ。
来いよ。思わずスタンガンを握る左手に力がこもる。
お前が殴り痛めつけてきた者。
それは逃げ惑う者だ。
だが私はお前が何をしようとも・・・。
俺たちはこの屑男どもを殺しに来た。それは確かだ。だがそれはこの丸顔女を助けに来たってわけじゃない、この女も殺すつもりだった。生死問わずだ。死んでいてもプレゼントには十分だからな。でも筋肉馬鹿が途中で逃げちまった。俺たちはアンタッチャブルならぬアンウォッチブル。誰にも見られない存在だがそれはネットの中でのことだ。実際に俺たちをその目で見たこの女を生かしておくメリットは何一つない。殺す予定だった。筋肉馬鹿が逃げちまった以上、それは俺の役目になった。
来いよ。後藤が改めてそう思った瞬間、女はナイフを龍崎の身体の上に放った。
は?何やってんだこの女。素手で俺に勝てると思っているのか?まさか俺に与えられたナイフで勝負するのは卑怯とでも思ったのか?そんなわけはない、諦めただけだ。
「いらないの?え?でも殺しちゃうよ?」後藤はつまらなそうに言った。
諦めちまったか、つまんねえなぁ。俺は人を殺すのは好きじゃない、めんどくさいからな。
でもな、弱っちい振りをして油断させて俺をなめてかかってくる奴を嵌めて返り討ちにするのは大好きだぜ。今はぼろきれみたいになっちまっているがこの龍崎って男が俺が置いた鉄パイプを拾った瞬間は最高に気分が良かった。思わず笑っちまうのを必死に我慢して腰が引けて怯えたふりしてさらに誘った。そしたらこの馬鹿は見事に引っかかって仲間を全部潰されてるって言うのに糞長い鉄パイプを振り回してきたからな。「さっさと逃げるべきだったな」だってよ、オレはこいつがビビって逃げちまわないかって心配してたんだぜ。
女は歯を食いしばったまま何かに耐えるように小さな言葉を微かに絞りだした。
「ふざけんな丸顔!!」後藤は思わず素の言葉を吐き女の首を掴んだ。
「もう一度言ってみろ!!」後藤は女の首を潰しかねない力で掴んだが女は逃れようともせずにただ耐えていた。
「ナイフを拾え!もう一度言ってみろ!」後藤は言ったが女の手がナイフに伸びることはなかった。だがそれは後藤の憤激を買いその手にさらに力を入れさせた。後藤の親指が女の気道を潰しにかかる。
ふざけやがって!手前なんか片手で殺せるぜ!
気道をつぶされかけた女は苦しそうに息を吐いたが首を握り絞められながらも抵抗することはなかった。
そしてもう一度言った。
「おまえには・・・負け・・ない」
(よく言った、死ね!)後藤は気道を潰してやろうと手に力を込めようとしたが、なにか動物的な直感で危険を察知して反射的に女の首から手を離し半歩後ろに飛び退っていた。
女は力強く両手を握っていた。いや、構えた?
俺がびびった?この俺がこの死にかけ女に?そんなわけはない!
後藤はもう一度女の首に手を伸ばそうとしたが後藤の身体は逆に更に半歩後ろに下がっていた。
この女・・・。
生きることを諦めたわけじゃない。殺されることに納得したわけでもない。抵抗することを必死に我慢している。耐えていやがる。抵抗することを耐えてやがる。
それに俺は女が言った「お前には負けない」という言葉に少しびびっちまった。死にかけ女の強がりじゃねえ、この女はこんな状態になっていてもまだ何か持っている。
「お前・・負けないって言うなら、なんで抵抗しない?」
女は後藤を睨みつけながら絞り出すように言った。女は拳を解き言った。
「殺させてくれたから」
「勝つ」って言う奴は強くはない。「負けない」っていう奴も強くはない。
「勝つ」って言う奴は何かを得ようとしているからそれを口にする。「負けない」っていう奴は何かを失いたくないかそれを口にする。だがすべてを失ってもなお「負けない」って言う奴には気を付けた方が良い。それは全てを捨てた奴が言う言葉だ。まあ実際のところほとんどはただの強がりなんだがこの丸顔女は違う。
この女はやばい。何かある。それが何かは分からないが、その何かでこの屑どもに一矢報いるくらいは出来ただろう。だが女は耐えた。その何かを出すことを必死で我慢していた、だからまだ生きている。この女は屑どもの歯の三本か、腕の二本か、それとも一人くらいは殺せただろう。だがそれをしていたらとっくの昔に死体になっていたはずだ。そうなっていたら俺たちがここに来ることもなかっただろう。筋肉馬鹿が逃げちまった理由が分かった。
この女はあの屑どもから生き延びたが壊れちまっている。まん丸の石ころに戻っちまった。でもそこに腕が一本だけ新しく生えてきた。だがそれは広げて他人を慈しむ手じゃない、握りしめて他人を壊すためだけの手だ。この女は筋肉馬鹿と同じ手をしている。
今、その腕を振るえば生き延びることが出来るかもしれない。だが必死に抑え込んでいる。
殺させてくれたから。
「じゃあな」後藤は女に告げるわけではなく独り言のように呟き立ち上がった。
「帰るぜ」後藤はまた小さな声でつぶやいた。しかし誰も来なかった。
「本当に帰るぜ!!」後藤は女に背を向けた。
何を言っているのか分からない那奈は後藤を見上げた。
後藤は少しの間立ちすくんだまま「知らねえからな、俺の好きにさせてもらうぜ」そう言って那奈に振り返った。
その表情は相変わらず氷のように冷たかったが蛇の様な冷酷さは影を潜めていた。
後藤はコートのポケットからスマホを取り出し操作し改めてこの建物の構造を調べた。一分も経たないうちに再びスマホをポケットにしまうと那奈を手で招きながら階段のあるドアに招いた。
那奈は何が起きても仕方がないと思い後藤の死への招きに導かれる様にドアに向かった。那奈がドアをくぐると後藤は階段脇にある別のドアを開けて入っていった。
男の背中は隙だらけだった。
隙?
那奈は今までそんな風に考えたこともなかったが、今はなぜかわかる。ここで背を向ける男に一撃を食らわせて逃げ出すこともできると思う。
だが那奈はそうしなかった。諦めたわけではない。死を受け入れたわけでもない。この男には手を振り上げたくはなかった。拳を向けたくはなかった。
だから那奈は自分を殺す場所を選んでいるのだろうと思いながらも死刑執行場に導かれる死刑囚の気分でドアに向かった。
ドアの向こうはシャワールームで、後藤が左手にナイフを持ったままシャワーを噴き出させ湯温を気にするように右手を当てていた。首を切り裂くのか。那奈はそう思った。噴き出す血を流すためにシャワールームに来るように言ったのか。抵抗することは出来る。この満身創痍の身体では勝ち目が少ないことは分かっているが20年近く鍛えた空手がある、それで別の結果を得る可能性はゼロではない。だが今の那奈はこの男に一か八かの拳を振るう気にはなれなかった。小野寺や佐久間を撃ちのめした火炎のような男と、龍崎を殺させてくれたこの蛇の様な男は別人だ。だがこの冷酷な男の向こうにあの燃える男がいるのは分かった。この男らに殺されるのなら仕方がないと思えた。那奈は執行場に向かう気分でシャワールームのドアに向かった。
後藤が手に当てるシャワーからは湯気が立ちのぼり那奈にはそれが天国へと立ち上る道標だと思えた。冷水ではない。この男は癒しを与えながら殺すつもりなのだろう。那奈は自分の血とあのクズどもの血が混じることなくここで洗い流されていくであろうことにむしろ感謝の気持ちを抱きシャワールームに足を踏み入れた。
「温度はここで調整できるみたいだから、自分でやってね」後藤はそう言うとシャワーヘッドをフックにかけ壁に備えられたダイヤルを指し示し湯気を立てる天国への入り口に那奈を招き寄せた。
招かれるまま那奈が歩を進めると後藤が身を避けながら蛇口をひねった。那奈はシャワーヘッドからほとばしる湯飛沫の下に立った。湯は熱湯のように那奈の身体を刺激した。思わず身をひるがえした。
「熱かった?ごめんね少し下げるよ」と言う後藤に「大丈夫」と那奈は答えた。そして少しずつシャワーヘッドからほとばしる湯の下に身を任せた。
熱かった。だがそれは温度その物の為ではなく散々痛めつけられ続けたせいであり、熱い湯を十数日ぶりに浴びることが出来たためだ。皮膚に湯が当たるとチリチリと痛みを覚えたがもはや湯が傷に染みる痛みさえ心地よかった。那奈は顔を上げ目を瞑りシャワーを受けながら髪に手を伸ばした。リューさんが褒めてくれたこの長い髪はここでは男たちが乱暴に掴み那奈を従わせる手綱でしかなかった。血と垢と精液で汚れ切った髪には指が通らずまるで使い古され絡んだモップのようだった。綺麗にして死にたかったな。那奈は思った。
出来る事なら一瞬で済ませて欲しい。願わくばあの火炎の男に殺されたい。那奈はそう思い最後の瞬間を迎える事に耐えるべく髪に当てた手を握って待った。龍崎を殺させてくれただけでなく最後にこの汚れ切った身体を洗い流す機会まで与えてくれた。もちろん拳をあの男に振るうことは出来る。わずかな可能性だろうがあの男を殺して逃げることもできるかもしれない。だがそれは駄目だ。マルボロを吸っていたあの男に拳を振るいたくない。那奈は湯を浴びながら目を瞑り最後の瞬間を待った。
後藤は血に塗れたナイフを手に女の背後に寄った。殺すほかないだろ。顔を見られちまってるんだ。この女が外に出て裸の王様みたいに俺たちの事を叫んだって無駄なことだがな。あれ?叫んだのは王様じゃなかったっけか?いや、そんなことはどうでもいい。ともかく叫んだ瞬間にこの女はボーナスステージ行きだ。女は死ぬだろうしその叫びを聞いた奴も同じだ。でもそれを聞く奴は警官なんだ、それは良くない。ボーナスステージが連発して取り返しのつかないことになるだろうな。この女は殺すほかないんだ、それは分かり切っている、予定通りだ。
でも筋肉馬鹿は自分と同じ手を持つこの女を殺すことなく逃げやがった。決して広げられることのない手を持つ者同士。人を殴り殺すことだけが自分が存在する理由。あの馬鹿は自分と、この丸顔女を重ねたんだ。だから殺すに殺せなくて逃げやがった。
あの筋肉馬鹿がこのアンパンマンみたいに丸い顔の女に同情したんだぜ?人を殴り殺すことしか能がねえ野郎が初めて感傷的になって「僕には無理ですー」って逃げちまったんだぜ?
あの筋肉馬鹿がだぜ、人をぶん殴って肉を潰し骨を砕いて血で混ぜて人間の身体でシチューを作ることが生きがいの筋肉馬鹿がだぜ、初めて同類ってやつを見つけたんだ。しかもそれが女ときた。
あの女は死にたがっていた。いや、違うか。自分の命を少しも顧みずに力を振るおうとするやつだ。口は命乞いを吐くためではなく敵の肉でも噛み千切ろうとするためにある。自分の命より殺すことを考えている。そんな奴だ。よく今まで生きていたもんだ、何かがこの死にたがりを抑えていたんだろうな。でもそれが解き放たれちまった、おそらくは筋肉馬鹿のせいで。
そんな女、殺せるわけがないだろ。みんなもそう思っているはずだ、だから出てきやがらねえ。
後藤は湯を浴びる那奈の背後でナイフに付いた血を洗い流し、ポケットからナイフのカバーを取り出しナイフをしまいこむと代わりに別の物を那奈の肩に置いた。
文句はねえよな?
那奈の肩に何かが置かれた。那奈は全身をビクッと震わせ次の一撃を待ったが男はどこか優しげな声をかけてきた。
「ほら、体を洗っておいてね。俺は何か服を探してくるからね。女物は無いだろうけど」
那奈の肩にかけられたのは一枚のタオルだった。那奈が思わず目を開け振り返ると男はすでにいなかった。男が階段を上がっていく小さな足音だけが聞こえてきた。
逃げる気は起きなかった。熱いシャワーと綺麗なタオルを今は手放したくなかったからだ。那奈はタオルを手に取り顔を拭ってから、身体を拭っていった。タオルで触っても痛みの少ない部分に。そんな場所は少なかったがそれでもタオルは直ぐに血と垢で真っ黒になった。
後藤は工場の二階へと上がり物色を始めた。タオルはシャワールームにあったが何か服があればと思った。もちろんそんなものは何一つなかった。おそらく女が拉致された時に着ていたであろう服はあるにはあったがごみ箱に詰められたぼろきれでしかなかった。代わりにベッドにあった毛布を手にした。それに炊事場と思しき場所でカップラーメンと牛乳を見つけた。
那奈が湯を浴び続けていると男が戻ってきてシャワールームのドアの向こうから声をかけてきた。
「少しは綺麗になった?お腹空いているでしょ?カップ麺と牛乳しかなかったけど温めてきたから身体を拭いて」
「開けるよ」男はそう言いシャワールームのドアを開けたが那奈に目を向けることはなく顔を背けたまま大きなバスタオルをドアノブにかけ再びドアを閉めた。
何故かはわからないが男は那奈を殺すつもりはないようだった。
噛み殺すべき相手はもういない、死にたがりは去っていった。
後藤はシャワー室のドアの前で待っていた。ポケットからタバコを取り出しそれがマルボロだとわかると再びポケットにしまった。
くそ、何やってんだ丸顔は。これだから女ってやつは・・。
後藤はシャワー室のドアをノックした。
「悪いけど急いでくれるかな。あまり時間が無いんだよね」
「パンツが無ーい」ドアの向こうから女が答えドアが開いた。そして素っ裸の女が立っていた。
女は恥ずかしそうなそぶりも見せずに後藤を見た。
「服が無いのー」
「服はいいから、バスタオルあげたで・・・」
後藤が渡したタオルはシャワー室の床に放られびしょ濡れになっていた。
「とりあえず二階に行こうね、下には血まみれのベッドしかないからさ」
「やー!」女が言った。
「ほら、お腹は空いてない?上にカップ麺があるから二階に行こうね」
「やだーおんぶー」女は素っ裸のまま子供の様に大きく首を振った。
いや、待ってくれよ、さっきのゾンビ女じゃねえか・・・なんでだよ。
「いや、おんぶじゃなくてさ、二階に行こうね、ご飯食べようよ、ね?」
「やー!!」女は歩くことを拒否し両手を伸ばした。
後藤は歯ぎしりし、女を抱きかかえ階段を昇って行った。
後藤に抱えられた女は楽しそうに子供の様に身体を揺らしてた。
やっぱり殺そうかな、この女・・・。
女は龍崎らのベッドの上で毛布にくるまりカップ麺を手にしていたが、ほとんど食べていなかった。
「ほら、食べないと。お腹空いてるでしょ?」
「やー、辛ーい!」
辛いんだってさ・・・。
そうか、身体が温まりそうな赤いカップヌードルを選んだ俺が悪かったんだな。
「ちょっとこれを飲んで待っていてね、他のを探してくるから」後藤は女から赤いカップヌードルを受けとり代わりに砂糖をたっぷり入れたホットミルクを手渡し再び炊事場を漁った。
「醤油とシーフードあるけどどっちがいいかな?」後藤が笑みを浮かべて聞くと女はからかうように答える。
「それは醤油じゃないんだよー知らないんだー!」
「・・・そうなんだ、うん知らなかったな。で、どっちがいいかな?」後藤は薄目で女を見て能面の様な無表情で聞いた。
「うーんとねー、シーフードー!」
ゾンビ女のお好みはシーフードーだってよ。
後藤は僅かに残っていたホットミルクの残りをカップヌードルの容器に注ぎ入れ更に湯を足して蓋を戻すと背後で女が「三分間で支度しなー!」と言ってケタケタと笑っている。
後藤はからくり人形の様にゆっくりと振り向いて引きつった笑みを浮かべてから、またカップヌードルに向き直り一つ深呼吸をした。
少しも面白くねぇよ糞餓鬼、殺すぞ。
後藤はきっちり三分待ってから女に渡した。
「シーフードー!」
女、いや糞餓鬼だ。少女はカップヌードルを喜んで受け取ったがすぐに後藤に付き返した。
「あつい!フーフーして!」
後藤は油の切れた今にも壊れそうなおんぼろの機械の様にぎこちない動きでカップヌードルを受け取ると、ギシギシと歯ぎしりをしながら歯の間から押し出すように息を吹きつつ中身をかき混ぜた。
熱いんだな、うん、それはしょうがないよな。でも・・・でもな・・・。
次に何か言ったらカップヌードルを冷やす代わりにお前を殺してファンファーレを吹いてやるからな。絶対だ、俺はやると言ったらやるタイプの男だ。
後藤は充分に冷ましてからカップヌードルを少女に戻した。
「ほら、もう熱くないよ」
「ほんとうにー?」少女は不満げに唇を突き出しながらそれを受け取った。
全然可愛くねえよ殺すぞ糞餓鬼。
幸い少女はそれ以上は何も言わずにカップヌードルを食べ始めた。
二ッ!と笑う女の前歯はほぼ失われていた。
小学校の糞餓鬼ならすぐに生え変わるわけだし歯が何本かなくても見ていられるけどな、こいつのガワは確か30歳くらいだったよな、パンダ柄だけどよ。
後藤は「ほら、これも」と言って傍らに置かれたホットミルクを差し出した。
少女は一口飲んでからまたにんまりと笑った。
「あまーい!おいしー」
そいつはよかった。でもあんまり笑わないほうが良いと思うぜ、前歯がほとんど無ぇんだからな。
まぁそれでもまだましだよ、しゃぶらせる時は歯を全部へし折ってからの方が気持ちいいなんて言うやつもいるくらいだからな。
でもな、歯抜けの糞餓鬼じゃ俺の相手にならないんだよ。
「おいしかった?」
「うん!!」
「ご馳走様かな?」
「うん!ご馳走様〜!」少女は空になった容器とカップに向けて手を合わせた。
「ありがとーお兄ちゃん」
「どういたしまして、おいしくてよかった。ところでさ、きみの名前はなんて言うのかな?」
女は少し考え込む様に首をひねった。
「お兄ちゃんの名前はなんて言うの?」
「いや、今は君の名前を聞いているんだよ、名前は?」
「ずるーい!」
「ずるくないよ。ねえきみの名前は?」
「ずるい!ずる兄ちゃんだ!じゃあさ!さっきのおっきい兄ちゃんの名前は?」
やっぱり殺しておいた方が良いいと思うんだよな、こいつ。
「さっきのお兄ちゃん?あれは筋肉馬鹿。ね?おなまえ。君の、名前」
「そんな名前の人はいませーん!ずる兄ちゃん嘘ついてるー!那奈姉ちゃんが気になってるみたいなんだー、ちゃんと教えてよー」
なあ、まじで殺そうぜこの糞餓鬼・・・。
「あぁうん、そうだね。あのおっきいお兄ちゃんはハルクって言うんだ。ハルク兄ちゃん。これでいいかな?ね?きみの名前を教えてくれるかな?」
「うーんとね・・なっちゃん」少女は少し考えてから答えた。
「そっか、なっちゃん。なっちゃんの他にお姉ちゃんがいるでしょ?さっきの強いお姉ちゃんとかさ、呼べるかな?」
早くしろよ殺すぞ。
「那奈姉ちゃんのこと?うーん・・・」少女はまた考え込んだ。
「つかれちゃってるみたい。それにずる兄ちゃんはイヤだって言ってるー」
疲れちゃってるか、そうかそれは仕方ないな、あんなにナイフを振り回してたらそりゃあ疲れるかもしれないよな。でもな、俺の方が疲れてんだよ!それに俺の事がイヤだって?あんなにナイフで人を切り刻むような女はこっちから願い下げだ。ふざけんな殺すぞ。
「じゃあ、他にお姉ちゃんはいるかな?呼んでくれないかな?」
「うん、じゃあ夏奈お姉ちゃんをよんであげるねっ」
少女は何かを探すかのようにキョロキョロと周囲を見渡しているとまるで彫像のように完全に動きが止まった。
夏奈とか言う女が来たのは直ぐに分かった。俺の事を見て咄嗟に毛布でしっかりと身体を覆ったからだ。寒いからというだけではないのがわかる。さっきまでは痛みも悲しさも苦しさも恐怖すら感じずまだ善悪の区別もついていなくって、アンパンマンみたいな丸顔でも不思議じゃない糞餓鬼だったが、今はその身体に刻み込まれた傷跡に苦痛を感じ、汚された心の悲痛に顔をゆがめている。
「ねえ、自分の名前は分かる?」
女は後藤の軽い問いかけにすらビクリと身体を震わせた。
「名前だよ、な、ま、え。夏奈って言うならちょっと困ったことになるんだ」
「山井・・・那奈・・です」
「ああ、いいね良かった。今どんな状態か分かるかな?そのね、自分がどんな状態か、何をされたかとか」
「あなたは・・?」那奈は目前にいる後藤がどうにか聞こえるくらいの小声で言った。
「時間が無いんだよね。自己紹介している暇は無いんだ、悪いんだけどね。きみを殺すかどうか決めなくちゃならないんだ。今、どんな状況か分かるかな?」
「女の子に呼ばれた」
「うん、あの糞ゾン・・いやあの女の子にね。他には?」
「あの男たちに捕まって、酷いことをされ続けて・・・」
「うん、そうだね。その男たちはどうなったか分かるかな?」
「死んでる・・・」
「うん、そう。きみが殺したんだ。いや、君たちって言った方が良いかな」
那奈はまた震え出した。どうやら見てはいたらしい。
「でね、ここで一つ聞きたいことがあるんだ。きみはここで死にたいかな?大変だったよね、それはすごくわかるよ。きみはここで終わらせたいかな?」
那奈は考え込む様に顔を落とした。そして自分がここで味合わされた苦しみを反芻しているかのように嗚咽し始めた。
「殺して・・」
「そっか。でも本当にいいの?死にたいって言うのなら出来る限り苦しまないように終わらせてあげるけどね。でもそれはみんなの意見?」
後藤が改めて問いかけると女は苦痛に顔を歪ませながらも口角も歪ませ後藤の目を見て嘲りの声で言った。
「みんなって何!?私がここで何をされてきたか、あなたに何が分かるの!?これをずっと抱えて生きていけばいいの?あいつママを殺してきたって言ってた!これから私一人で・・・!!」
聞いてたのか。
「大変だったのはわかるよ、でもね一つだけ考えてみて。一年後でもいいし、五年後でもいい。きみは何をしていると思う?今と全く同じ苦しみを味わっていてそれに耐え続けているかな?でも少しは前を向いて歩いている自分を想像できないかな?」
「一年もこの苦しみに耐えて行けって言うの?一年たっても何も変わっていなかったら!?」
「そうだね、一年たってもまだここにいるかもしれないよね。でも前に進んでいるかもしれないよ、あいつらはもう死んでいるんだしさ。まあそれはその時にまた考えればいいんじゃないかな?」
「死にたい・・死にたいの」そう言って顔を落とし嗚咽し涙を流す那奈の首を後藤が握り潰さんばかりの力で掴んだ。
那奈は驚き仰け反った。
「ほら、怖いんじゃん?怖いのはあの糞・・・じゃなくて女の子に任せちゃえばいいよ」
「でも・・・」那奈は泣き続けていた。
この女はバンシーか。時間が無いんだけどな。
「ところで夏奈って誰かな?」
那奈はその名前に反応し顔を上げた。
「私のお兄ちゃん!夏奈兄ちゃん!!」
兄?兄貴がいるのか?この女は母親と娘一人の母子家庭のはずだ。この女は五人の屑どもに襲われた。それはいい、よくある話だ。しかしあの龍崎って屑は依頼されてこの女と母親を殺す手筈だったと言っていた。そしてそれを依頼してきたのはこの女の親族らしいと言っていた。そこは聞いていなかったのか。
哀れな女だ。
「お兄ちゃんに会いたいんじゃないの?」
那奈は首を振って叫ぶように答えた。
「会いたいに決まってる!でも、五人も殺した!!」
後藤は蛇の顔になり女の顔を見据えて言った。
「死にたいのなら殺してやる、今ここでな。でもお前は歩き疲れて今ちょっと休みたいだけじゃないのか?まあちょっとじゃないかもしれないが、休めばまたいつか歩きはじめるんじゃないか?夏奈って兄貴に会いたいんじゃないのか?」
死にたいって気持ちは分かるぜ。顔は丸いし歯も腕も折れてる、さんざんいたぶられたんだよな。でもな、ここで終わりにしたいって言うのと少し休みたいって言うのは違う。心も身体がボロボロでもう一歩も歩きたくない、進みたくない、終わりにしたいって言うなら仕方がないな、殺してやる。
でも歩くのに疲れ切ってここで休みたいって言うのならそれは違う、あと少し歩けよ。歩いているうちにもっと進む気になるかもしれないだろ?そうして歩いていて、でもやっぱり進む気にならなくなったのならそこで死ぬのもいいだろう。
俺は死ぬ気で頑張れなんて言わないぜ。死にたいって思ってるやつが死ぬ気になったらそりゃあ死ぬだろうからな。でもあとちょっと歩け、それでも駄目なら死ね。でもあとちょっと歩いてみろ。お前、負けないって言っただろ?ここで死んだらあいつらに負けたってことになるぞ。
進め。進んでから死ね。
「会いたい!・・・けど」
「なら会えるまで生きていた方が良いだろ、お前は五人の男にとどめを刺した。それが兄貴に会えないっていう理由か?兄貴に拒絶されるのが恐いのか?でもそれを決めるのはお前じゃないだろ」
「でも・・・お兄ちゃんは・・・」バンシーは泣き続けた。
後藤は左手で那奈の首を掴みその息を止める程度の力で握り締めた。
「覚悟を決めろ、俺はお前を殺してとっとと帰りたいんだけどお前の中にいる一人だけは殺したくない。なあ。自分勝手に生きてみろよ。そしていつか夏奈って兄貴に会いに行け。それで拒絶されたらその時は俺が殺してやるよ」
兄貴の方をな。
那奈は首を絞められたまま息も絶え絶えに小さく頷くと後藤は手を離した。
「よし、あの屑どもは死んだ、お前が殺した。お前は負けてない。それでいいな」
那奈はまた小さく頷いた。それを見て後藤は軽い微笑み顔で話を続けた。
「よし、じゃあ話を進めるね。これから警察を呼ぶよ、もちろん俺は警察が来る前に帰るけどね。その時にきみは色々聞かれるだろうけど、あいつらを殺したのは誰でもいい、もちろんきみでもいいよ。でも俺の事は一切話しちゃ駄目だよ」
「でも・・」
「俺の事を誰かに話したらきみは死ぬことになるからね」
「あなたが殺しに来るの?なら今ここで殺せばいいじゃない」
「いや俺じゃないよ。別の誰か。きみの話を聞いた人も同じように殺される。そういうルールなんだ。きみが全員殺したってことにしてもいいし、気が付いたら全員転がってたって言ってもいい。数人が襲ってきて全員始末したって言っても・・・いや駄目だそれは駄目だな、足跡ですぐに嘘だってばれるね。うん、そうだ黙秘って手もあるよ」
「私がそうするってなんで信用できるの?」
「え?別に信用なんてしていないよ。俺はだれも信用していないからね。きみが俺の事を話したとしても裏切ったとも思わないよ。ただきみが死ぬだけ。できればきみには死んでほしくないって思ってはいるけどね」
「でも・・・」
でもでもデモでもうるせえ女だな!
「でも、なに?」
「あの子は全部話しちゃうと思う、聞かれたらそのまま話すと思う」
「そっか・・・」
やっぱりあれは糞餓鬼ゾンビか。どうするかって言ってもどうしようもないよな。
「きみにあの子は抑えられない?」
「無理だと思う、さっきもあの子に呼ばれてきたから」
まじかよ、あの糞餓鬼ゾンビがこの女の主導権を握っているのか?どうすんだよハルク兄ちゃん。
田中さんがボーナスステージ送りになったらそれこそ本末転倒ってやつだぜ。いや待てよ?あの糞餓鬼は俺の事をずる兄ちゃんって言っていたよな。で、筋肉馬鹿の名前も聞いてきた。なら行けるかもしれないな。まあ可能性としては低いがゼロじゃないな。
「じゃあ今から警察を呼ぶからね。優しい人だから心配しなくていいよ」
「あの子は?」
「うん、たぶん大丈夫じゃないかな。正直に話していいよって言ってあげて」
後藤はそれだけ言ってコートのポケットからスマホを取り出し田中の現在地を調べると浅草にいた。
よし、交番にいるな。
後藤は用意しておいたプログラムを少し修正してから起動し受取人にメールを送った。
メールは直ぐに閲覧された。
そこには「電話に出ろ」とだけ書いてあるはずだ。
あとはプログラムが勝手にやってくれる。
そこいら辺の誰かのスマホをハッキングしまくって、それらを複雑に経由して交番の電話が鳴り、メッセージが流れるはずだ。後藤が送ったという事は絶対に分からないようになっている。
そして田中は直ぐに来るだろう。
「じゃあ俺は行くよ。すぐに優しいお巡りさんが来るからね」
立ち上がり去ろうと背を向ける後藤に女が言った。
「おい」
おい?俺に「おい」って言ったのかこの女。後藤が思わず振り返るとそこにいたのは龍崎を切り刻んだあの女だった。丸顔のくせに怒りに満ちた顔をしていやがる。
「なんだよ、殺る気か?」
「あんたじゃない、あの人は・・いるの?」
「ハルクお兄ちゃんか?何の用だよ、殺る気か?俺が相手し・・・」後藤はそれだけ言うとはじき出された。
「なんだ?」
「タバコ、くれない?あなたが吸っていたタバコ」
火炎の男は女の前に立ちポケットから佐久間だか小野寺だかのマルボロのボックスを取り出すと二本取り出し咥えて火を点けると一本を女に渡した。
女はタバコを受け取り恐る恐る口に咥えタバコの煙を吸い込んだ。
途端に激しく咳き込んだ。まるで炭の粉を吸い込んだような気分だった。何度咳き込んでも炭の粉は中々無くなってはくれなかった。
目を潤ませ見上げると男はそんな無様な女を笑いもせずにいた。
そしてゆっくりとタバコを吸い紫煙を見せつけるように口を開け、吸った。
女は男が見せた吸い方を真似し、同じように紫煙を口にためてから吸い込んだ。今度はむせなかったが、途端に頭がクラクラっとした。だが女はマルボロを吸い続けた。お兄ちゃんのタバコを。
しばしの間二人でマルボロを吸っていた。
男はタバコのフィルターを千切り取り残りはシンクに投げ捨てた。
「じゃあな」男はそれだけ言って再び背を向けるとまた女が声をかけてきた。
「さっきの手に付けていたやつ・・」
「これか?」男はポケットから金色に光るブラスナックルを取りだした。
「それ、なんて書いてあるの?」
女は聞き、男は見せた。
男が女に向けたブラスナックルには左にFATEと、右にBULLと刻まていた。
「フェイタ・・ブル・・?」女にはそれらの単語の意味は分かるがその言葉の意味は分からなかった。直訳すれば、運命の牡牛と言ったところだろうか。
「名前は?」女は聞いた。
「名前?お前のか?」男が振り返り聞くと女は答えた。
「私の」
男は答えてやった。
「セブン。最後はNNだな」
ほんの少し、ほんのわずかだが男は微笑んでいるように見えた。
火炎の男はドアから出て行った。




