第六十三話 実に面倒くさい田中さん
松はカウンターに座る田中に困り果てていた。
砂場さんと待ち合わせをして出て行ったかと思ったら閉店間際のこんな時間に戻ってきてなんだその、この世には俺一人みたいな顔は・・・。
まいったなぁ・・。
この様子じゃ砂場さんに吹っかけられて指輪を手に入れることが出来なかったとか・・・?
いや、田中さんがそんなケチな事で・・・。
ビールを飲むのはいいんだが・・。
「田中さん、車でしたよね?」
「あぁ、そうですね」
田中は顔も上げずに答える。
駄目だ。
松は手を洗いタオルで拭いつつカウンターから出るとドアを開け倉庫に入った。
こういう時に頼りになるのは・・・。
「電話、誰からだ?」
「松さんだよ、今からちょっと店に顔出してくれないか?だってよ」
「こんな時間にか?もうすぐ閉店だろ」
「だよなぁめんどくせえよもう12時だぜ」
後藤が愚痴り岸が時計を見ると11時45分。今から彩に向かっても到着するのは12時過ぎるだろう。
「なんでまた?俺は?」
「いや、オレをご指名みたいだ」
「なんだ面倒ごとか」
なんとなく岸も感づいているようだ。
「ああ、田中さんがカウンターに張り付いているから何とかしてほしいんだとよ」
「田中さんが?なんでまた」
「さあな、それが分からねえからオレに電話してきたんだろうな、ちょっと行ってくるわ」
「タクシー呼ぶか?」
「いや、バイクでいく。戸締りはしっかりとな」
面倒くせえなあ!もう12時だぜ!
田中さんが何だって言うんだよ、閉店ですって言えばいいだけの話だろ!
後藤は一人でブツブツを言いながらバイクで彩へと向かっていた。
後藤が彩に到着し細道をくぐろうとすると丁度数人の外人が出てくるところだった。
「エビスヤサーン!」そう言いながら手を上げる外人たちにハイタッチを返し後藤は細道を進んだ。
もう道路には誰もいないし、テーブル代わりのビールケースもすっかり片付けられ何もない。
カウンターを見ると、うつむいてビールジョッキを片手したまま彫像のように微動だにしない田中がいた。
後藤は内心舌打ちし、入りの千円を入れる箱をポンポンと叩き通り過ぎた。たかが千円とは言えこんな厄介ごとに呼ばれて払うのはバカらしいからな。
松はそれでいいとばかりに首を縦に振り、早く何とかしてくれと田中を顎で指し示す。
後藤は田中に声をかけてから一つ空けてカウンターに着いた。
田中はゆっくりと顔を上げ後藤を見止めると絞り出すような声で小さな返事をし、またうつむいて彫像へと戻ってしまった。
こりゃ重症だ。それもそうか、田中さんはどう見ても酒癖が悪いとは思えないしな。そんな田中さんがこれじゃあなあ。
後藤は席を立ちケースからジョッキを二つ取り出しビールで満たすと一つは田中の前に置き、自分でも飲み始めた。
めんどくせえ・・・。
5分経ち10分経ってもどちらも口を開かないので堪り兼ねた松が目や顎を使って後藤を促すが後藤はそれを無視し続けた。
まったく和さんは、メシと酒の事は何でも分かっているのに、こういったところが本当に分かってないよな。そんなだから彩さんを泣かせるんだぜ。
だがそれも15分20分と経つとさすがに後藤も面倒になってきた。
オレには無理だな、後は任せる。そう言って去ってしまった。
任せる?冗談じゃないぜ!俺だって御免だ。
やはり次の後藤も去った。
え?僕が?こういうの苦手だよ・・。
後藤が田中の顔を覗き見るがやはり微動だにしない。ジョッキを手にビールを口へと運ぶ以外は。
そこに一人の老人が細道から顔を出した。
砂場だった。
奥多摩から渡部の車で送ってもらったのだが、渡部のくだらない意趣返しで「ここから来たんだろ」と彩の前に降ろされ、せっかくだからビールの一杯でも飲んで帰ろうと彩に入ってきたのだろう。
だがカウンターに座る田中の姿を見て慌てて踵を返した。
あのお爺さんは?
ああ、砂場ってジジイだな。彩の上に住んでいた佐川ってジジイいただろ?死んだけど。アレは大家じゃあなかったけど、元ヤクザの組長だったらしいな。砂場ってジジイはその元子分だとよ。
へ~そうなんだぁ!
随分嬉しそうだな、じゃあそのまま後は頼んだぜ。
いいよ、任せて。
早く何とかしてくれと眉をひそめる松に後藤は笑みを浮かべて返す。
「あとはいいですよ、シャッターは閉めておきますからね。ああ、バイクだけ中に入れさせてください」
松は瞬の間迷いながらも自分にはどうすることも出来ないし、倉庫のシャッターを開け後藤がバイクを中にしまうとシャッターの鍵をかけた。
「じゃあ、あとで店の方のシャッターは閉めておきますから。鍵は、大丈夫でしょう?」
松は妙にニコニコとしている後藤に何かいつもと違う違和感を覚えながらも自分にはどうしようもできない厄介ごとを「じゃあ、頼むな」と押し付けエレベーターに乗り自室へと向かった。
後藤は再び田中から一つ空けてカウンターに着いた。その手には倉庫から持ち出したボンベイサファイアのプレミアムクリュとシュガーフリーの0カロリーペプシ、それとシチリア産レモン100%のストレートレモンジュース。
ケースからグラスを取り出しそこに氷を入れボンベイサファイアプレミアムクリュを注ぎそこに0カロリーペプシを泡が溢れそうになるギリギリまで注ぐ。泡が落ち着いたら再びペプシを注ぐ。そこにレモンジュースをたっぷり注ぎ、溢れそうになるギリギリまで0カロリーペプシを注いだら完成だ。
そのまま飲む。絶対に混ぜてはいけない。
後藤は田中に声をかけることも無く、お気に入りのオリジナルカクテルを堪能する。
せっかくだし和さんの料理を食べたかったんだけどな。
後藤は勝手にカウンターの中に入り冷蔵庫を漁り始めスライスチーズや生ハムを取り出し席に戻る。
チーズを口にし特製カクテルで流し込むながら「食べます?」と言って生ハムを半分ほど田中の前に置いた。
それでも田中は俯いたまま全く動かず、言葉も発しなかった。
二人はそれぞれの酒を飲み続け、更に30分ほどが経過した。
「父は、私が小学生の時に失踪しましてね」
「・・・」
「父は、バブルのさなか、ブローカーのような事をしていたそうです。大して価値の無いものを右から左に流していたとか」
「それでも時代が時代ですから、それなりの金を稼いでいたんでしょうね。そしてある程度まとまった金が出来て大きな勝負に出た。でも、それはバブルの膨張が止まった時で・・・」
「・・・あの頃はそんな予測が出来た人はいなかったでしょうね。金はいつまでも勝手に増えていくものだと皆が思っていた」
バブルの膨張が停止することを正確に予測していたものは居なかった。それは間違いない。バブルの膨張が停止したことで逆に金を稼いだ者もいただろうが、それは状況への対処であって予測の上ではなかった。
不思議な箱に金を入れるとなぜか増える。
そんなことがいつまでも続くことは無いと分かってはいても、金を差しだすことを止められる者はいなかった。なぜなら自分がその不思議な箱に金を入れなければ次の者に権利が移り金を入れ、その金が増えて出てくるのだ。
だが田中の父が入れようとした不思議な箱は既に壊れていた。多くの者がそれを感じ取って金を入れるのを躊躇したはずだが田中の父は、もう一度くらい・・と金を入れてしまったのだ。
「もうバブルは止まっていた。それなのに父は進んでしまい、佐河組と言う最悪のパートナーを選んでしまったのです・・・」
「・・・全部、聞きました。父は殺され山奥に埋められました。それに関わったものを・・・」
「・・・関わった者を、私は・・・」
「殺そうと思って、拳銃まで用意したんですけどね・・・・」
田中がビールをあおりジョッキを空にすると、後藤は自分が楽しむオリジナルカクテルを作って田中の前に置いてやった。
田中は後藤に一瞥を向けることも無く置かれたソレを口にし、話を続ける。
「私が薫陶を受けたと思い尊敬していた人物も佐河組に深く関わっていました・・・」
「・・・そしてその男も父の殺害の場にもいたようです」
田中はまた後藤の用意したカクテルを飲んだ。そして言った。
「私は彼らを殺さなかった」
そしてまた長い沈黙が訪れた。
「私は本当にそれでいいのかと思ったんですけどね、父の顔が思い出せなかった。父を殺した奴らなのだと思っても、彼らが殺した父の顔が思い出せなかったんです。それ以上憎しみが沸いてくることも無く私は彼らを殺さなかった」
田中はそこまで言うと後藤のカクテルを飲み干し、語り終えたとばかりにカウンターに置いた。そして自嘲気味に続けた。
「ああ、そんなわけで昇進試験もね、うん・・・。後藤くんには監察へ報告しないでくれと頼みましたがそれも・・・」
そう言えば砂場の指輪、そのままだ・・・。
後藤はそれには返事をせずに空になった田中のグラスを手に取ると、氷をつぎ足し高級ジンを注ぎ人工甘味料の入ったペプシを注ぎレモンジュースを回しかけると再び田中の前に置き、そこで初めて声をかけた。
「警察官ではいられなくなる。という事ですか?」
田中は用意されたカクテルを啜り辛うじて答えた。
「いえ、おそらくは薫陶の師がうまい事収めると思います。ですが昇進はないでしょう。どうぞ、監察へ」
後藤がそんなことはしないだろうという事を分かっていた上でのつまらない自虐だった。実際、今更そんなことを報告されても何も変わらないだろう。
だが後藤の言葉はまるで違う、辛辣なものだった。
「田中さんはさ、父親を殺された恨みを晴らすこととね、警察官でいられることを天秤にかけてさ、割に合わないと思ったから殺さなかったんでしょう」
そう言われて田中はハッとした。そして考えた。
そうだ、殺していたら自分は全てを失っていただろうし覚悟はしていた。
砂場を殺すことで警察官としての地位や利益をすべて失うと分かっていた。
だがもう一つの可能性、渡部と協力し砂場を殺した事を隠蔽し正義とは真逆の人間になる可能性だ。それは考えてはいなかった。
砂場を追い詰めたら渡部が来ることは分かっていた。砂場は田中に結婚の可能性があることを知っていた。それを知っているのは渡部だけだ。そう、砂場と渡部は繋がっていた。
それがいつからなのかという事までは予想ではあったが、かなり古い付き合いだろう。
佐河組が解散した後に砂場とのつながりが出来たのなら、それは浅いもので殺人の疑いを持たれた砂場を庇うほどの付き合いではないはずだ。
渡部の眼前で砂場を殺害していたら、渡部には二つの選択を持つだろう。
一つは田中を殺し砂場の死体と共に隠ぺいする事。
もう一つは砂場の殺害を共通の秘密として手を組むことだ。
渡部は後者を選ぶだろう。
同じように田中にも二つの選択肢があった。
砂場と共に渡部をも殺すこと、もう一つは渡部と同じようなものだ。
田中は砂場殺害を、渡部は長い事佐河組と関わって様々は悪事を行ってきたであろうことを知り合うことでお互いの弱みを持ち、二人で砂場の死を隠ぺいすることだ。
田中はどちらも選ばなかった。
なぜせめて砂場だけでも殺さなかったのか。
それはギリギリで警察官として生き残れると思ったからなのか?
そうだ、後藤の言うとおりだ。
私は父を殺された恨みを晴らすより、ギリギリで警察官として生きて行くことを選んだのだ。
警部補にはなれず一生を巡査部長として警察機構にしがみ付いて生きていける事を望んだのだ。
顔をも思い出せない父親の為に自らの人生を棒に振りたくなかったのだ。
それに憎しみに身を任せて殺人を犯したら母が悲しむ。
ただの殺人ではない、田中は警察官なのだ。
母や殺人警官の親として世間からひどい仕打ちを受ける事になるだろう。
なぜ今この瞬間までこんな当たり前のことに気が及ばなかったのだろうかと言えば、あの指輪を見てしまったからだ。
あの赤いルビーの指輪を。
あれを砂場が持っていることが耐えられなかった。
真紅のルビーと、その脇に小さなダイヤモンドが付いた指輪。田中はそれを見たのは初めてだった。
だが田中はそれは父の物だと直ぐに分かった。
なぜか?
それは母が同じ指輪を持っていたからだ。
母の指輪には、ルビーの代わりに南国の海のような青いサファイアが付いていた。赤いルビーは父で、青いサファイアは母だ。そして小さなダイヤモンドは幼い田中だ。
母の指輪は失われた、田中を石垣島へ旅行に連れて行く代わりに消えたのだ。
それでも砂場から父の指輪を取り返しても母に渡せるわけはない。誰からどうやって取り返したと説明すればいい?
あの貧相な老人があの指輪を持ったままなのは許せなかった。
あの指輪を見てしまい、それだけしか考えられなかった。
なら、なぜ奪わなかったのか・・・。
田中は両手を拡げ、何も無い手の平を見た。
何も無い。
父の敵を取ろうと拳銃まで持ち出したのに結局何もしなかった。ただ真実を・・・いや、過去を聞いただけだ。
砂場を殺して敵を取る代わりに全てを失ったわけでもなく、ただ中途半端に将来を失っただけだ。
これならば最初から敵などとは考えずに何もしない方が良かったのではないか。
きっとそうなのだ。
よく考えたつもりだったが、人を殺す覚悟も、人生を失う覚悟も無く、母の事すら考えずに一時の激情で行動したのだ。
田中は拡げた両手で顔を覆って嗚咽を漏らした。
田中は呻くように泣いていた。
「岸くんの母親はホスト狂いでオーバードーズで死んだらしくて。岸くんはまだ二歳だったって言っていたかな。今でいうネグレクトってヤツ?もし岸くんがさ、実はキミの母親は殺されたんだ。犯人はコイツだよって言われたら殺しに行くんじゃないかな」
田中は両手で涙を拭い絞り出すように後藤に問うた。
「殺すべきだったと!?」
「そうじゃなくてさ、岸くんには誰もいないからね。僕も似たようなものだけど田中さんはそうじゃないでしょ、お母さん、家族もいるでしょ。お巡りさんだし部下もいるよね。田中さんは自分の為にそういった人たちを捨てることが出来る人とは思えないんだよね」
・・・!!
全て見透かされたように感じた田中は後藤を睨み思わず怒声を上げた。
「たかが数回会っただけの酒屋が知った風な口を!お前ならどうする?言ってみろ!」
「うん・・・」
後藤は返答に困ったかのように酒を飲んでから田中に笑顔を向け、そして答えた。
「僕にはね、京ちゃんって言う大事な人がいたんだ。彼女は僕の目の前で電車に轢かれちゃってさ、ぎゅーってなっていなくなっちゃったんだ」
田中は後藤の言葉が飲み込めずに眉をひそめるが後藤は独り言のように続けた。
「10年後でも20年後でもね、あいつを見つけたら僕は・・・」
「そうじゃないと京ちゃんを見つけられないからね」
後藤はそう言って田中に笑顔を向けた。
だが田中はそれをまるで腐ったプラスティックのような笑顔は、楽しみなど欠片も無い笑顔だと思えた。
だが田中の心は不思議と落ち着いた。
自分の愚かな選択もこれからの続くであろう平坦すぎる人生も受け入れる覚悟が出来る気がした。
もしかしたら、瑠衣さんとも・・・。
「今日は帰りましょう」
後藤は、田中の納得したような顔を見てスマホを取り出し松に電話をかけた。
すぐに松が降りてきた。
やっと片付いたかとばかりにため息をついて店のシャッターを閉め三人で道路に出ると後藤が倉庫のシャッターを開けろという。
「いや、お前飲んでるだろ?」松が田中を横目に見ながら言うが後藤はお構いなしに答える。
「え、バイクで来たんだからバイクで帰りますけど・・・」
「いや、だからさ。お前、その・・・田中さん?」松は田中に助けを求めた。
だが後藤は田中が諫める前に言う。
「この時間なら白バイはいないし、大丈夫ですよ。まあいても僕は捕まりませんよ、大丈夫です」
「田中さん・・・」松が再び田中に助けを求めるが後藤はそれも遮った。
「田中さんは僕らに借りがありますからね~」後藤は満面の笑みを田中に向けた。
やっぱりコイツ、良い男だ。
田中は思った。
「ええ、今は非番ですからね、でも直樹さん気を付けてくださいよ」
松が諦めてシャッターを開けると後藤はバイクにまたがり勢いよくキックペダルを踏み抜きエンジンをかけると「じゃあ!!」そう言ってヘルメットを被り走り去った。




