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第五十八話 殺意の波動に目覚めた田中さん

砂場は松が浅草に所有するビルの五階にいた。数日前まで佐河が生活していた部屋だ。

金目の物は何もないという事は分かっている。あるのは僅かな服と冷蔵庫に残った缶ビールくらいだ。

砂場はいくつかの戸棚を確認していく。何もない。

冷蔵庫からビールを取り出しテーブルに残されたままのセブンスターを一本取り出し火を点け、缶ビールを開けた。

掃除洗濯はいつも砂場が面倒を見ていたのでゴミが溜まっているという事もない。服が僅かに入っているだけの古びた箪笥が一つ、ビールを冷やすためだけに置かれた冷蔵庫が一つ。本当に何もない。

これがかつては武闘派ヤクザとして恐れられた佐河組の末路だと思うと哀れですらある、もちろん同情など微塵もしないが。

砂場は松に全て処分していい、取っておくべき物はないと伝えていたのだが、松はクリーニングを入れる前に念のため確認して欲しいと言ってきたのだ。

砂場は佐河組が解散した後もその元構成員の中で唯一数十年もの間、佐河のそばにいたのだ。面倒だからと言ってもあまり強く拒むのは上手くない。

対外的には砂場は佐河に集って何とか生活してきたと見られているだろうからだ。


砂場はビールを口にし部屋を見渡した。

本当に何もない。

あの時、砂場は錠剤を砕き溶かし入れたビールを佐河に用意してやり気を失わせてから一度部屋を出て、数時間後に再び戻り佐河を風呂場へと運びその首に紐を巻きドアノブにかけたのだ。


頭部に血が溜まり佐河の顔が見る見るうちに紅潮していった。

佐河が目を開いた。

「あ、佐河さん」

何が起きているのか理解できないようだが窒息しそうだという事は理解できたらしい、口を開いたが声は出ない。

首を絞める紐に手を伸ばすがどうにもならない。立ち上がろうとするが身体の自由はまだ効かない。それでも両手を床に突くと身体が僅かに浮いた。

ヒューゥ・・・。

わずかに息が吸えたようだ。

「落ち着いて、佐河さん」砂場はそう言って佐河の両肩に手を置き体重をかけた。

グッ・・・。

再び佐河の喉が絞まる。

「佐河さん。なんでこうなったか分かりますかね。あなたは仲田の野郎のせいだって、アイツのせいで全てを失ったっていつも愚痴っていましたけど、そうじゃないんですよ。あなたは、銀行から金を引っ張れたんだからまだ目はあるんだって言って私が止めるのも聞かずに組の金も全て注ぎ込みましたよね。でも、あの時点で銀行が融資をするはずないじゃないですか。ちょっと考えればわかるでしょう?あの金を用意したのはあなたが忌み嫌っていた経済ヤクザの石井組ですよ」

佐河の目が大きく開かれた。その眼球は怒りのせいか生理現象か、赤く染まりかけている。何れにせよ砂場のせいであることは間違いない。

「もちろんその金は仲田には一円も渡っちゃいません、無駄になると分かっていたんですから。ただの見せ金ですよ。もっと言えば佐河さん、あなたが用意した金。佐河組の全財産は一円たりとも無駄にせずにそっくりそのまま石井組に渡っていたんですよ。あなたがこうなったのは仲田のせいじゃないです、石井組のせいでもない。なんで石井組が金を用意したか分かりますか?それは私が助言したからですよ、佐河組を潰すチャンスだと言ってね。佐河さん、武闘派ヤクザとして二郎兄弟を従えるあなたはカッコよかった。それがろくに法律も知らず雑に偽造された権利書すら見抜けないくせに経済ヤクザの真似事なんてするからこうなったんですよ。こうなったのはあなた自身が招いた結果なんですよ。だから・・・」

砂場の話をどこまで聞いたかは不明だが、佐河は既に死んでいた。


砂場は今更部屋を家探しするつもりもない。何もないことは佐河以上に砂場が良く知っているし、今の砂場はたとえ100万の札束が出てきても喜ぶようなことはない。金は充分に稼いできた、忍谷として。

砂場はまたビールを一口飲み、煙草をそこに入れると部屋を見回し無様な最期を遂げた男の部屋を後にした。


「あ、大丈夫です。特には何も」

砂場が松にそう言い「では・・」と立ち去ろうとすると呼び止められた。

「砂場さん、こちらの方が少し話をしたいそうなんです」

松が手を向ける先には一人の中年男性がカウンターに座り、砂場に会釈を向けた。

砂場は思わず舌打ちしそうになるのを何とかこらえ会釈を返した。

田中という警官だろう。

そうだ、佐河を殺したあの日ここにいた一人だ。こいつが田中か。

・・・。

渡部のヤツは本当に何も手を打たなかったのか。

もし佐河の殺害を疑われたら渡部自身も危うくなるという事が分からないのか?

だがここで忙しいとか用事があるので等と言って立ち去ったところでこの田中という警官が、ハイそうですか残念ですと諦めることは無いだろうという事くらいは分かる。

今ここでハッキリとさせておけばこれ以上捜査をされたり余計な疑念を持たれることも無いだろう。


砂場は松のメシにありつけるとばかりにさもしい笑みを浮かべながら田中の横に座った。

「何か飲まれますか?」田中が聞く。

「いえ、メシの時は酒は要らないたちでして」砂場は両手を揉み松に期待の目を向けた。

「じゃあ何か丼でも作りますよ」

松は砂場の前に茶を置くと自分の役目はここまでだとばかりに調理を始めた。

「田中といいます」

「どうも、砂場っていいます」そう言ってわざとじゅるじゅると音を立てて茶を啜った。

少しでも隙を見せた方が良い。さもしい笑みを浮かべ意地汚くメシを要求し汚く茶を啜る。

侮られること。それが砂場の、いや殺し屋として生きてきた忍谷の処世術だ。

「話というのは?」

砂場はまるで儲け話でも期待するかのような顔を向けた。

「それは・・・」田中は一口茶を啜ってから話を始めた。

「あの日、佐河氏が亡くなった日の事ですが・・・」

話を邪魔するかのように彩のスピーカーからThe Trashmen - Surfin Bird が流れ始め松がすぐにボリュームを抑えた。

「オヤっさんが亡くなった日ですか、はい」

「あの日に、あなたを見たんですよ。一度、ここに戻りましたよね」

「ああ、はいはい」

被せるように砂場は答える。

「そうそう、忘れ物をしましてね。確かに一度戻りましたね」

「忘れ物?」

「ええ、これですよ」そう言いながら砂場はポケットをまさぐりながら話を続けた。

もちろん戻っていないと強弁することも出来た。渡部からこの中年警官が見たのは自分の後ろ姿だけだと言うのは聞いている。それに仮に周囲の防犯カメラを調べても砂場の姿は確認できないだろう。

だがそれは田中の疑念をより大きくするだろう。その解消には多額の金がかかる。

カメラの映像を消去するのも警官殺しも金がかかるが見返りが少ない。

今風に言えばコストパホオマンスという奴だ。

「オヤっさんはいなくって、まあ風呂にでも入っているんだろうと思いましてね。これを取るだけ取って帰ったんですよ」

砂場は大きなルビーと小さなダイヤモンドがあしらわれた指輪をカウンターに置いた。

「オヤっさんの風呂の邪魔をするのもアレだと思いましてね。そりゃあ、あの時にオヤっさんに声をかけていればこんなことにはなっていなかったかもしれませんが、まさか風呂場であんなことになってるなんて・・・」

田中は思わずカウンターに置かれた指輪に手を伸ばした。

触れる寸前でハッとして「見ても?」とだけ言えた。

「ええ、どうぞ」

砂場が指輪を田中の前に置いた。

田中は指輪をじっと見つめ、そしてそっと手に取った。

大きな真紅のルビー光り輝き、その横に小さなダイヤモンドがあしらわれている指輪としては珍しい左右非対称の作りだった。

「どうです?お巡りさんなら安くしておきますよ」

「え?」

「指輪の一つくらいないと女も落とせないでしょうよ」

田中は歯を見せてニヤ付き言った。

「でも、これほどの・・・安くはないでしょう」

「いやあそりゃあタダってわけにはいかないですがね、お巡りさんなら安くしますよ」

「安く・・ですか・・・」

「ええ、これを付けていれば女も惚れ直してすぐに結婚ですよ」

「しかし・・」そう言って田中は財布を出し中身を改めた。

「二万じゃ、無理ですよね?」

「さすがにねえ、この大きいルビーを見てくださいよぉ」

うーん。田中は腕を組んで考えた。

「5万?」

「お巡りさん、さすがにそれは。この色を見てください、2カラットはある真紅のルビー。普通に買えば50万はするところですよ。30で」砂場は嫌らしい笑みを浮かべるのを忘れない。

「30は無理です。20で」田中は、どうだとばかりに片眉を上げる。

「25!」砂場が答える。

田中は顔をしかめ首を横に振り、また腕を組んで答える。

「だいぶ古いものですよね、20。これ以上は出せません」

今度は砂場の方が腕を組んで考える。

「いいでしょう!じゃあ20で!」

砂場と田中は下品な笑みを交わす。

「しかし今は手持ちがないので、連絡先を教えてください」

二人は携帯電話番号を教え合い後日、田中が金を用意出来たら砂場に連絡することで話は付いた。


それを見越したように松が親子丼を二人の前に置くと砂場は松にレンゲを要求しすぐに丼に差した。丼に口を付けがっつくように意地汚く掻き込む砂場を横目に田中はゆっくりと箸を手にした。

上に添えられた三つ葉が香る。鶏モモ肉は赤みが無くなる寸前まで火が通っているが玉子は絶妙な半熟だ。

田中は卵かけご飯であっても椀に口を付けるようなことはしない。丁寧に箸で親子丼を食べ始めた。

出汁に醤油に味醂、そして砂糖。ただそれだけの味付けだ。

だがこれは松の仕事だ、その加減は絶妙なのだろう。

添えられた味噌汁の具は豆腐のみだ。同じ丼でも重いカツ丼ならば豚汁でもよいくらいだが繊細な味付けの親子丼には合わないだろう。そこにはネギもワカメも要らない。豆腐だけで良い。

さすが松さんだ。

田中は豆腐を摘まみし味噌汁を啜り親子丼を食べ終えたが何も感じなかった。松の作ったものなのだ、不味いわけはない。だが美味いとも思わなかった。

田中はその味どころか、食べ終えたことすらわからぬまま帰途についていた。


夢だったのか?

そう思いスマホを取り出してみるがそこには登録した砂場の番号が確かにあった。

現実だったのだ。

スマホをしまおうとしたところで振動した。瑠衣からだった。

切れてくれと思いながら10秒ほどそれを見つめながらも、振動する電話マークをスライドさせそれに答えた。

「はい」

「あの・・・今日、行ってもいい?明日非番だったよね」

田中は少しばかり考えてから答えた。

「もちろんです」出来るだけ明るく答えたつもりだった。

「しかし、帰宅途中なのであと30分くらいかかります」

「そうなの?じゃあお酒買っていくね、何がいい?」

「どなん以外でお願いします」

ブー!と瑠衣が唇を鳴らし不満を伝えた。

田中の自宅の冷蔵庫の中にあるのは僅かな缶ビールとワインだけだが瑠衣はあまりワインが好きではないのだ。

「じゃあビールと何か買っていくね!ご飯は食べた?」

「ええ、軽く済ませました」

「そうなの?じゃあ待ってるね」

「急ぎます」そう言って田中は通話を切った。

瑠衣は田中が自宅にいると思って近くまで来てから電話をかけてきたのだろう。そう思うと田中の口角が僅かに上がる。ほんの僅か。


田中がエレベータを降り部屋へと向かうとドアの前にいた瑠衣がはにかんだ笑顔を向け小さく手を振った。

「入っていて良かったのに」

「一緒に入りたいの」瑠衣はそう言って田中と手を繋ぎ、田中はドアノブに鍵を差し回し二人は部屋へと入った。


田中はテーブルにつき缶ビールを飲みながらキッチンでコンロに向かう瑠衣の後ろ姿を見つめていた。

田中はその隣に立ち、あれこれと指示をされる自分を思い描く。

自分が出来る事は少ない。焼きそばを作るとなれば粉末ソースを振るだけだし、ラーメンを作るとなれば添付の液体調味料を絞り、何か炒め物でも作るなればクックドゥの封を切るだけだ。

だが瑠衣はちょっとした食事や酒のアテをさっと作る。


キッチンの瑠衣の横に立つ田中は時に呆れられ、時に叱責されるのだ。そして結局は邪魔でしかなくテーブルで静かにビールを手にするのだ。

田中はそんな未来を思い描いていた。だがそんな幸せにはもう手を伸ばせない。


瑠衣がテーブルに料理を置いた。

真っ赤なソースの絡んだソーセージとゆで卵。サニーレタスやトマト、キュウリといった野菜がたっぷり盛られたボウル。

「野菜と一緒に食べてね」瑠衣はそう言ってソーセージを一つ取りサニーレタスで包んで口に入れた。

「ちょっと辛いかも」瑠衣はグラスに注がれたビールをあおる。

瑠衣の手にするグラスにはたっぷりと氷が入っている。

グラスに氷を入れそこにビールを注ぐ。沖縄では一般的だそうだ。

真夏ならば美味しそうだが今は真冬の二月だ。田中は缶のままビールを飲んでいる。

田中はサニーレタスを一枚とりそこにソーセージとトマトを乗せ軽く巻いてから口にしてみた。

「ちょっとタバスコを入れすぎちゃったかも・・」瑠衣が片目を閉じ言った。

確かに少し辛い。そして複雑な酸味。

ソーセージをケチャップとウスターソースで炒め、そこにタバスコを振ったのだろう。

オカズとしては丁度いいかもしれないが酒のアテには少し味が濃い。

だがトマトのジューシーさが口の中に広がるとその濃さが薄まり、サニーレタスが両者を上手くまとめてくれる。


瑠衣が首を傾け(どうかな?)と少し心配そうな顔をする。

これは・・・。

田中は一気に缶ビールをあおると立ち上がり瑠衣に習いグラスに氷を入れ席に戻った。

「これは、沖縄ではよくある感じですか?」

田中の問いに瑠衣は首を振った。

「沖縄にはポチギっていって、うーん・・・チョリソーに近いソーセージがあるんだけど、ケチャップで炒める事はあるかな。でもケチャップだけだと甘すぎて物足りないからウスターソースを足してタバスコ入れるのがワタシ流ってところかな」

瑠衣は小さく首をかしげて田中を見つめる。

田中は眉をしかめ首を振り言った。

「これはちょっと・・・」

それを聞いて瑠衣が両手を握り悲しそうな顔をしたところで田中が返す。

「ビールを飲みすぎちゃいますよ」

その後も瑠衣はオリジナルアレンジを披露した。

ブラックペッパーを挽きかけた物には田中は首をかしげたが、差し出されたスライスチーズを乗せてみた時には笑顔を向けた。


テーブルの上に7本ものビールの空き缶を乗せたまま二人はベッドの上にいた。

スピーカーからはThe CranberriesのDreamsが流れていた。

瑠衣がドロレスのハーモニーに合わせるように苦しそうな喘ぎ声を上げるが田中の動きは止まらない。


もっと欲しい、放っておけない。あなたを逃したくない。


ドロレスが二人の気持ちを代弁するかのように歌う。

その通り、瑠衣はベッドにうつ伏せになり、そこに田中が覆いかぶさっている。逃れようにも逃れられない。

今日の田中のセックスはいつものようなゴール手前で焦らすそれではなく瑠衣はもう数えきれないほどに絶頂を迎えていた。それは何回もイクというよりも常にイキ続けているような状態だった。


私の人生は変わり続ける。

ありとあらゆる方向へと。

あなたは私の夢そのもの。

だがそれは決して手にできない。

あなたは私の夢だから。

あなたは私の夢。


ドロレスの歌声と共に田中も果て、腰を僅かに震わせるとその動きをようやく止めた。

田中が瑠衣の横になると瑠衣は蕩けた顔で田中を見て、力の抜けきった身体ながらもその胸に顔を埋めた。

田中は瑠衣の頭を優しくゆっくりと撫でその髪のにおいを嗅いだ。爽やかな汗のにおいがした。


瑠衣の身体を満たしていた快楽が抜け始めると田中は起き上がりベッドから出ると微かにさみしそうな顔を上げた瑠衣を軽く抱きかかえバスルームへと向かった。


二人で湯船につかり瑠衣の肩を揉んでやる。瑠衣の身体は水泳のインストラクターをしていると言うだけあって華奢でもなくポッチャリでもなく筋肉質だ。

首をマッサージしてやり、力を込めた指がその背中を這うと瑠衣が吐息を漏らした。肩甲骨に沿って軽く指を押し込むと瑠衣が気持ちよさそうに首を傾ける。

田中がその太さを確かめるように瑠衣の二の腕、上腕二頭筋短頭を掴むと瑠衣は逃げるように両腕を閉じた。

「痛かったですか?」心配そうに田中が聞いた。

「太い・・・でしょ」首を落とし恥ずかしそうに瑠衣が答える。

「マッサージのしがいがありますよ」

「それ褒めてるつもり?」

「いや、褒めているつもりはないです。私は好きですというだけです」

瑠衣はさらに首を落とし腕を拡げた。

田中は瑠衣の腕を念入りにマッサージしてやり、それが終わると瑠衣の手指を揉み始めた。

念入りに手の平を揉み、指から何かを絞り出すように引っ張りもした。


そう言えば男の子と手をつないことあったっけな・・。瑠衣は思う。

あるわけがない。

瑠衣が思い出したくもない過去を振り払おうとすると田中はシャンプーを垂らし瑠衣の髪を洗い始めた。相変わらずゆっくりと、そして優しく。それが洗い流されトリートメントを付けマッサージをされ始めると瑠衣はセックスとは違う田中だけが与えてくれる快楽に身を委ね始める。瑠衣が湯船に顔を落としそうになると田中は身体を後ろに傾け瑠衣の頭をその胸に乗せてやり優しくその顔のマッサージを始めた。


瑠衣はキッチンに立ち、晩ごはんを作っている。

今日はスパム入りのチャンプルーだ。フライパンにごま油を垂らし入れ細かく切ったスパムを炒め、もやしにニラ、シメジに色合いとして短冊切りの人参を足してさらに炒める。

男が何か手伝うと言ってくるのだが邪魔なだけなので、コーヒーでも淹れておいてと告げる。

ゆで上がった沖縄素麺をフライパンにいれ軽く炒め合わせたところで鰹出汁を足しておいた溶き卵を加えサッと炒めたら完成だ。二枚の皿に盛り分けテーブルに置くと男は二杯のアイスコーヒーを用意している。


それは瑠衣の夢だった。

うとうとと眠りかけていたがトリートメントを洗い流すシャワーで辛うじて目が覚めた。

「のぼせそう」

瑠衣がそう言うとトリートメントを流し終えた田中は立ち上がり湯船を出ると瑠衣に両手を伸ばした。

抱えられるように湯船から出ると田中はバスタオルで丁寧に瑠衣の身体を拭いてくれる。タオルを変え髪に優しく当てられるとまた寝落ちしそうになる。田中はそのまま自身の身体もタオルで拭き終えると瑠衣を抱きかかえ上げた。

「え?ちょっと!?」

驚く瑠衣に田中は微笑みバスルームを出ると瑠衣をベッドの上に乗せヘアドライヤーを手にした。


田中は瑠衣の髪を乾かしてやる。

櫛とドライヤーを手にどこまでも優しくゆっくりと。

名残惜しむかのように。


疲れ切った瑠衣はあまりの心地よさで半ば寝ているような面持ちで思う。

もう寝たい。ベッドに横になりたい。

瑠衣はまた夢を見ていた。


男はとても不器用だった。包丁を手に野菜を切るどころか卵を割ってと頼むことすら躊躇うくらいだ。

だが男は瑠衣に優しかった。

本来、男には優しさと言う物はない。男と言う物の存在価値はその強さであるからだ。

弱い男はより弱い存在である女を見下そうとするし、強い男にとって遥かに弱い存在である女は所有物でしかない。そこに優しさなどない。

優しさとは自分の強さと関係なく相手を同等と思っているからこそ生まれる慈愛の精神だろうからだ。

だが男は申し訳なさそうにせめてとコーヒーを挽きながら瑠衣の料理を待ちわびてくれる。

瑠衣はテーブルに料理を並べる。

瑠衣が心配そうに見ていると男は食事を始め、頷きながら瑠衣に笑顔を見せる。

二人は笑顔で食事を続ける。

男は時に賛辞の言葉を口にし見ていて気持ちがいいくらいに食べ進めていく姿を見せてくれる。

食事を終え瑠衣が後片付けをし食器を洗い明日の米も研ぎ終えると、男はコーヒーを淹れソファーに座っている。その前のテーブルにはもちろん瑠衣の為に用意したカップも並んでいる。

男が手にするカップを満たしているのは真っ黒なこれぞ珈琲と言った物だが、瑠衣の為に用意されたカップに入っているのはミルクがたっぷり入った薄茶色のカフェオレだ。瑠衣は男の横に座りカップを手にする。

カフェオレはとても甘く、それは角砂糖二つ分の甘さだ。

瑠衣は心の底からの安らぎを感じ男の肩に頭を預けた。


瑠衣の夢に現れた男、それは田中だった。


瑠衣の髪を乾かし終えた田中は彼女が寝息を立てているのを見てそっとベッドに寝かせ毛布を掛けてやる。

田中はベッドの傍らに屈みこみ瑠衣の顔を見つめていた。

瑠衣はすぐに目を覚まし田中に笑みを浮かべた。

田中がそっと唇を重ねると瑠衣は満足そうに田中の手を取りベッドへと誘った。

田中が、猫のように膝を曲げて寝る瑠衣の背後に横になると瑠衣は田中の手を取り自身の腰に回させた。

田中がそっと腕を撫でてやると瑠衣はそれにそっと手を重ねる。

そしてすぐにまた小さな寝息を立て始めた。

それを聞いている田中もまたすぐに眠った。


スマホのアラームがけたたましく鳴り響いた。

しまった!田中が飛び起きアラームを止めたが当然瑠衣を起こしてしまう。

「すいません」

「んーん、いいよ」瑠衣はそう言って両手を口に当て一つ大きな欠伸をした。


非番に瑠衣が着てくれたと言うのにアラームを止めておくのを忘れていた。

「おはよー」そう言う瑠衣はまだ眠そうだった。

「おはようございます」

「外はまだ暗いんだね、今は何時くらい?」

「その、五時半です」田中が申し訳なさそうに答え暖房をつける為にベッドから出た。

二月の朝の五時半だ、外はまだまだ暗い。そして寒い。

「カナくん早起きなんだね、私は午後からだからこんな時間に起きたことないや」

「ごめんなさい・・」

「んー?私はいつも11時くらいまで寝ているかな。それでトースターにパンを二枚入れてパパっと着替えてね。トーストにジャムとかツナマヨを塗って急いで食べて歯を磨いてね、それであわてて出勤するの」

小さなんショーツしか身に着けていない瑠衣はそう言って毛布を羽織ったままベッドから立ち上がるとブラジャーを手にし器用にそれを付けた。

「今日も仕事ですよね」

「うんそうだよ」

瑠衣は答えながら毛布をベッドに置くとジーンズを履きタイトなTシャツを着るが、寒さに身体を震わせてさらにジャケットを羽織った。

「東京って寒いよね」

「ええ、沖縄よりは」

申し訳なさそうにしている田中に瑠衣は紅茶を要求した。

「あっついのでお願いね、砂糖は・・」

「2つですよね」そう答える田中に瑠衣は笑みで返す。

田中はコンロにヤカンをかけ冷凍庫からティーバッグを二つ取り出しカップに入れた。

落ち着かない様子でヤカンを睨む田中に瑠衣は素直な気持ちを伝える。

「あのさ、11時に起きて詰め込む様にパンを食べて出て行くのと、今からゆっくりと朝ご飯を食べて5時間一緒にいられるのどっちがいい?私は・・・」

どっちだと思う?瑠衣は首を傾げ田中を見た。

田中は下唇を嚙みながらも笑顔で振り向いた。

「でもまだ朝ご飯には早いかな」

「そうですね」


二人は湯気を立てるホットミルクを手にマンションの屋上で東京の朝日を眺め、簡単な朝食を作りそれを共にしその後はまたコーヒーを楽しんだ。

瑠衣が身支度を整え靴を履き玄関に立つと目を瞑って振り向き顔を上に向けた。

田中は身を屈めて優しく唇を重ねた。

二人が離れると瑠衣はいたずらっぽい笑みを浮かべ田中の首に唇を当て強く吸い、驚く田中を尻目にドアを開けた。

「さっむい!」

瑠衣は田中に手を振り「またね!」そう言って出て行った。


田中は閉じたドアを見つめながらたった今、瑠衣に唇を当てられた首にそっと右手を当てた。

そして何もついているわけがない右手を見てギュッと力強く握り込んだ。

今すぐにドアノブに手を伸ばし彼女を追いかけプロポーズしたかった。

二人の年齢は一回りほど離れてはいるが彼女はきっと受けてくれるだろう。そして田中は警部補になり幸せな家庭を築けるだろうし、それは母をとても喜ばせるだろう。


だが田中はドアノブに手を伸ばすことは無かった。

それは田中が瑠衣ではなく砂場を選んだからだ。

砂場を選べば田中は警部補には成れず、瑠衣に気持ちを伝えることも無い。

それは田中の正義感の表れではないし、おそらく佐河は自殺ではなく砂場に殺害されたのだろうからでもなく、砂場に通じている者が警察機構内部にいるからでもなく、それがおそらくは渡部さんだろうからでもない。


部屋の奥からThe CranberriesのZombieが流れてきた。


お前の頭にいるのは?

お前の頭にいるのは?

お前の頭の中に何がいる?

それは亡者だ。亡者だ。亡者。


田中が瑠衣ではなく砂場を選んだ理由。

それはあの男が真紅のルビーの指輪を手にしていたからだ。

それは法では裁けない。

それを裁くのは田中の役目だからだ。


亡者に欲望は無く何も求めない。ただ彷徨うだけだ。

ただ彷徨い、殺すだけだ。



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