第五十七話 忍谷という殺し屋
「ミミ、こっち来いよ」
ふんぞり返る様に椅子に座る原田勝二がズボンのベルトを外しながら言う。
「いえ、向井社長からの書類が来ています。必ず目を通してもらえと・・」
それを遮って原田が言う。
「いいから来いよ」
「急ぎだそうです、必ず今夜持ってくるようにと」
ベルトを外しズボンに手をかけていた勝二の手が止まった。
「そうか!今夜か!場所は何処だったっけか」
「新宿です。双竜に八時です」
「そうか、そうだったな」
ミミと呼んだ女の下着を剥ぐか、ペニスを咥えさせその頭を押さえつけようとしていた手がタバコを摘まんだ。
原田は煙草に火を点け「急げ!!」とミミを急かした。
勝手な男だ。ミミは思うがもちろん口には出さない。いや、出せない。
ミミ。
三浦美香は書類の束を手に社長室を出て事務室で仕事にかかる。
机につき書類を拡げ目を通していく。
次の解体現場の書類だ。
原田社長のこの会社、ウィナーズコンストラクション。解体業がなぜコンストラクションなどと言う真逆の名前を付けたのだろうか?それは原田と言う男を知ればすぐにわかる。あまり頭が良くない。
それはともかくウィナーズコンストラクションが解体を請け負い、向井社長の会社、向井土木がそれに伴う監督等を派遣すると言ういつもの流れだ。
面倒なところは既に向井土木が全て段取りしてくれている。役所や警察への届け出も、工事に必要な人員や重機、解体工事後に出た廃材をどこに持ち込めばよいかも全てだ。
三浦美香のするべきことはそれらを把握しこちらの社員を滞りなく差配することだ。
それは社のパソコンにそれらを打ち込むことで終わる。
工事の日時、必要な機材に重機に人員。念のため解体工事後に出る廃材をどこに持ち込むのかも入力しておくがそこらは解体工事当日に向井土木からきているはずの現場監督が滞りなく指示を出すだろう。
ハッキリ言ってこの会社、ウィナーズコンストラクションは向井社長のおかげで存続していると言っていいだろう。ここの社員は社長と同じでロクなモノじゃない。
私もそうだが・・・。と三浦美香は思う。
美香の月給は30万ほど。
アラサー女性事務員にしては高いかもしれないが、社長付きで社の雑用の全てを取り仕切る役割では高くは無いし、頻繁に原田の性処理の相手をしなければならないとなれば決して高いとは言えないだろう。だが手取りは多い。
プリウスを運転していた美香は路肩に止め助手席に座る原田に書類を渡そうとした。
「お酒を飲む前に渡してください」
酒癖が悪いと言うよりそっちが本性なのだろう、酒を飲んだ原田は何をするか分からないところがある。
原田は美香のその言い草が気に入らなかったのだろう、その右手は書類には伸びず美香の顎を掴んだ。
「社長!?」
「咥えろよ」
原田は右手で美香の紙を掴み引き寄せながら左手でベルトを外しズボンのジッパーを下げ始めた。
(この男は・・・!)美香は心の中で悪態は付くが抵抗はしない。あらわになった原田のペニスに顔を抑え込まれようとしたところでプリウスの助手席の窓がノックされた。
「ああ!?んだこら!!」
原田が怒声を上げつつ窓を開けるとそこには向井社長の姿があった。
「あ!兄貴!」
「勝二、こんなところで何してんだ」
「いや、時間あるかなと思って・・」
向井社長はチッと舌を打った。
「もう10分すぎてるぞ。早くしろ」
「ああ、すぐに終わるよ」原田そう言って美香の顔を更に引きよせた。
「そうじゃねえ、こんな街中で何するつもりだ。早く出ろ」
それを聞いて今度は原田が舌を打って美香の顔を突き飛ばすように離し車を降りた。
「今日はもういい」
原田それだけ言って向井と連れだって歩いて行こうとするとしたが、美香はすまなそうに向井を呼び止め書類を直接差しだすと向井は美香にどこか含みのある頷きを返し原田と歩き去った。
ミミ。
三浦美香は北陸の出身の女で都会に憧れ東京に出てきたというありふれた女だ。
地方のいわゆるFランクの地元民すら良く知らない大学を卒業し逃げるように東京に来てみたはいいものの、当然まともな就職先は無く東京にしがみ付くために夜職と言えばいいかキャバクラ嬢になったような女だった。
ミミと言うのはその時に源氏名だ。
学生の頃からどちらかと言えば男の言い寄られることの方が多かったし、風俗業の世話になるほど金遣いが荒いわけでもなかった。
美香は憧れの東京に来て、初めは足立区の場末と言っていいキャバクラで働いていたがその若さと、東京に来るにあたって必死に隠そうとしていた新潟の南部訛りが逆に受けるようで十分に金を稼ぐことが出来た。
初めは簡単に金が稼げた。数少ない地元新潟の友人が新橋のOLとなり新卒で20万に満たない手取りで東京の高い家賃はもちろん食費にすら苦労しているのを傍目に美香は食事に困ることなどなかった。お寿司が食べたくなったら客の肩にそっと頭を乗せるだけでいいし、焼き肉が食べたくなったらその手を握ってやればよかった。脂ぎったオッサンと席を並べて食事をするのはあまり気分のいいものではなかったが・・・。
それでも金を稼いでいた美香はそのうちに江戸川区新小岩へと移り、さらにランクを上げ台東区蔵前のキャバクラで働くようになった頃には地元の友人とはすっかり疎遠になっていた。
その理由は、カフェでの軽食でも夕食を共にする時でも店を決めるのは美香でそしてその支払いも美香だったからではなく、いつもいかにも安そうなパンツスーツ姿の友人に対し美香がそれなりに高そうなブランドの服を着ていたからでもなく、友人に取引先の男性と良い感じになってきていると惚気られたからでもなかった。
いや、それらの全てが理由だったのかもしれない。
高校から付き合いの続く友人から見下すような目を向けられていることに気が付いてしまったからだ。
食事をし美香が支払う。初めはすまなそうにしていた友人がいつしかそれが当然だと言わんばかりの態度を取るようになっていた。
手取りで言えば美香の方が遥かに多い。初めはそれに対する嫉妬かと思っていた。
だがアラサーと言う言葉に不安を感じるようになり、その友人から結婚披露宴の招待状が届くと嫉妬しているのは美香の方になった。
新潟から出てきた美香には友人と呼べる人がいなかった。いるのは同じ店で働く女性だけだった。
その伝手を頼りに合コンに顔を出してみたりはしてみたが美香がキャバ嬢だと分かるとどの男も同じだった。
「ヤれるかも」という今までさんざん見てきた男の顔だ。
スキルアップという事も試してはみた。スイミングスクールや英会話教室に通ったりはしてみたが長くは続かなかった。
高校時代にそれが出来なかったから今、この状態なのだ。
誘われるままにホストクラブと呼ばれるところに行ってみたりもした。
だが自分より頭の悪そうな男たちが「俺の為に金を使え」と言ってくるような場所で、これの何が楽しいのか美香にはさっぱり理解が出来なかった。
なぜ私が、キャバクラにでも来なければまともに女性と話す機会すらないオッサンどもを相手に科を作り媚びを売って必死に稼いだ金をこんなバカに使わなくてはならないのか。
中にはホストへ貢ぐ金がキャバ嬢での稼ぎでは足りなくなり風俗店へと身を落としていく者までいた。
ホストの為にとコッソリとそれをするのならまだ分かるが、ホストに言われるままに薄汚いオッサンとその身体を舐め合うような仕事へと就くのは本当に理解しがたかった。
美香は昔に読んだ本を思い出した。
「男は王に成ろうとし、女は王を産もうとする」そんな題名だったか。
それは、世界に名を馳せるような一流の企業を起こすのは男、ノーベル賞を受賞するような一流の学者も男、星を並べる超高級レストランのシェフ・ド・キュイジーヌも男。
なぜそこに女は入り込めないのか?という内容の本だった。
冗長な内容だったが結論は「男は何かを得ようとし、女は何かを育てようとする」と言ったところだった。
太古の昔、男は獲れるかどうかも分からない獲物を探しに出かけ、女は夏になれば必ず収穫できる麦を育てた。
それが現在でも同じで、男は上手くいくかもわからない会社を立ち上げるし答えがあるのかすら分からない研究に付き進める理由だと言う。
男は見えないゴールを探し迷う生き物で、女は見えるゴールを目指し堅実な道を進む生き物。
それが男女の本質の違いだと言うのだ。
「男は何かを得ようとし、女は何かを育てようとする」
今になって美香にもその意味が理解できた。
キャバクラの客はキャバ嬢とヤるのが目的で、ホストクラブに入れ込む女はホストを育てるのが目的なのだと。
だが、キャバクラの客がキャバ嬢とヤれたからといって王には成れないように、キャバ嬢が風俗嬢へと身を落としてまで育ててもホストは王には成らない。
王に成らない以上、育てたところで見返りは無い。
普通に考えれば愛し合っている男女ならばお互いを独占したいはずなのだ、外に出したくはないはずだ。
結局のところ、キャバクラの客もホストもその本質は同じだ。
女を落としてヤるか、金を貢がせるかの違いでしかない。
風俗へ移るというキャバ嬢にそれを諭してみたがまるで効果は無かった。
そう、そこにはお互いに愛などは無く、ただ「育てたい」と言う歪んだ本能しかないのだ。
そうと分かっていてホストクラブにハマる事の無かった美香だが、もちろん不安が解消されたわけではない。何一つ解消されはいない。
自分には何もなく、周りにいるのはヤりたいだけの男だけだった。
そこに現れたのが原田だ。
原田はいつも高そうなスーツに身を包み酒を飲んでもネクタイを緩める事すらない紳士で、そしてリッチで気前が良く、いかにも高そうな車はいつも違う物で美香がテレビでしか見たことが無いようなレストランや料亭に連れて行ってくれたりした。
「原田さんは止めておけ」と言う周りの声はただの嫉妬だと思っていた。
確かに年齢差は大きかった。美香は20代半ばだったが原田は50を超えていた。
美香が一度くらいは・・・と思うくらいに原田は金を落としてくれていた。
客と寝ることは初めてではない。
だがそこで見たものが映画かドラマでしか見たことが無い入れ墨だった。
「原田さんは止めておけ」その言葉の意味がようやく分かった。
美香の頭には、覚醒剤とかソープと言った単語が浮かんだが原田のセックスはごく普通のモノだったし、そのペニスに幾つもの寄生虫のような突起が付いているわけでもなかった。
だがその後の原田の態度は変わった。
美香を誘うことは無くなったが、それは命令へと変わり幾度となく肌を合わせるうちに美香は原田のウィナーズコンストラクションで働くことになった。
もちろん原田の会社ににいる男たちもキャバクラに来るような客と似たような男達だった。
いや、もっとひどいか。
社内に女性は美香一人で常に身の危険を感じてはいたが幸い社長の女に手を出すほど頭が悪い者はいなかった。新年会だの慰安旅行だのと社員が集まって出かける事になれば必ず誰かしらが喧嘩を始める。もちろん、その相手は社内の人間ではない。
まるで猿の群れだ。
だが美香はその群れから逃げることは出来なかった。
人生に強い焦りを感じ始め、強いストレスに耐えかねた美香は手を伸ばしてはいけないところに手を出してしまった。
毎月の向井土木からの入金は現金だった。ウィナーズコンストラクションは向井土木の下請けと言っていい。向井土木がとってきた仕事の実務をウィナーズコンストラクションが請け負うのだ。
ウィナーズコンストラクションの経理も任されていた美香は自分の前を流れていく金についてを出してしまった。
もし原田にバレたら・・。それが頭の隅をかすめているうちは良かった。毎月毎月向井土木に集金に出向き時に数百万円に及ぶ金を受け取り銀行に入金する。ただそれだけだった。
だが、ただ自分の前を通り過ぎていくだけの大金を見ていると考えてはならないことを考えてしまう。
50過ぎの年寄りの性処理まで強要されているのだ。少しくらいいいのではないか?
もちろんそんな言い訳が原田に通用しないことは分かっている。だから最初はほんの数万だった。バレたら、落としたとか集金袋の隅で見落としたなどと言い訳が出来そうな金額だった。
だがそれが二度三度と続けばもうその言い訳は通用しない。美香は帳簿を操作するようになった。重機のリース会社への支払いや廃材処理業者への支払いを水増しするようになった。
原田の恐ろしさが消えたわけではないし、決してバレない完全犯罪だと思っているわけでも無かった。ただ少し帳簿を書き換えているだけなのだ。
横領した総額は七桁を軽く超えもはや取り返しのつかない状況になっていた。散財するために横領したわけではないので丸ごと残ってはいるので返すことは出来るが、返す方法がない。
なぜこんなバカなことをしてしまったのか?それは私を嘲笑うために披露宴の招待状を送ってきた友人のせいだ。
あの女のせいで私は・・・。
美香は向井社長が差しだした札束を見て思った。
今月は特に多い。380万飛んで4800円。
いっそのことこれを手に逃げようかと・・・。
もちろん無理だ、原田は美香の実家の住所を知っている。あの男は何をするか分からない。
新潟の実家は東京から200キロ離れているとはいえあの男が諦めるか?諦められるような金額ではないし、あの男ならたとえ数万でもそのメンツの為に何かしらの手は打つだろう。
そしてそれはバレた。
いや、とっくの昔にバレていたのだ。
「お前、横領しているだろう?」
「は!?し、し、ししていません!!」
無駄なのは分かっている。美香の身体は震え歯もガタガタと音を鳴らしている。
「勝二のところの経理が言ってきたんだがな」
「ウチの経理が?そんなのウソですよ!なんでうちの経理が向井社長にそんなことを!?」
向井社長がため息をついて言った。
「そりゃあ勝二に言ったらお前がどうなるか分からんからだろうな」
バレた!美香は言葉を発せなかった。
「いや、分かるか。分かるからこそ俺に言ってきたんだろうよ、何とかしてあげてくれってな」
美香は何も言えずにただ首を振っていた。それは横領に対する否定ではなく、この認めたくない現実に対してだった。原田と同じく向井社長も元ヤクザだという事はもちろん美香も知っている。そして二人は兄弟と言う間柄だ。向井社長はそう言った言葉を口にすることは無いが原田は今でも向井社長を「兄貴」と呼んでいる。向井社長が一介の女子事務員とそんな仲間のどちらを取るかは考えるまでもないだろう。
「なあお前、どうするつもりだ?」
「ど、ど、どうって・・はい?」
「まあどうにもできんわな。横領分はオレが補填して経理には上手く修正しておけと言っておいた。勝二の奴にはバレんだろう」
「え?いや、向井社長が・・?」
「なんでかって?そりゃあ俺だって今は勝二がいなくなったら仕事に支障をきたすからな」
美香の横領が原田に知られたら原田がいなくなる。なぜいなくなるのか?それは考えるまでもない。刑務所に入ることになるだろうからだ。罪名は、殺人だろう。
「そ、その・・払います!取った分を払います!!」
美香は震えながらも必死に保身を図ろうとするが意味は無かった。
「いらねえよ、だが二度とやるなよ。次は無いからな」
向井は数百万を建て替えたとは思えないほど冷たく言い放った。
向井と原田は店に入りカウンターに座った。
「なんだよ、個室はねえのか!」
原田勝二が板前に怒鳴り声を上げるが向井龍二が押さえつけるように言い返す。
「勝二!昔とは違うんだ。予約が取れなかったんだ」
「予約ぅ!?おい!今すぐ兄貴に個室を用意しろよ!空いてないなら今いるヤツを叩き出せや!」
「やめろ勝二!今日は静かに飲みてえんだよ」
「なら個室の方が良いだろうが!おい!早くしろ!」
原田は板前を脅すように肩を怒らせた。板前にはその肩の下の入れ墨が見えただろう。怯えた板前が仲居に顔を向け口を開こうとすると向井が割り込んだ。
「勝二、今日はオヤっさんの弔いだ、静かにしろ」
向井は大丈夫だと仲居と板前に目を向けた。
「まあそうか、祝いの日か」原田はそう言ってタバコを取り出し火を点けた。
「禁煙とか言わねえよな?」そう言って板前に向かってタバコの煙を吹いた。
二人は昔話に花を咲かせた。
向井は昔を懐かしむ様に静かに話していたが、原田は自身のかつての武勇伝を周りに聞かせるように大声で喋った。
カウンターにいた他の客はすぐにいなくなり店内は二人の貸し切りと言っていい状態になった。
バブルの頃とは違い暴対法のある現在ではヤクザを名乗っただけでリスクがある。
原田はここでそれを口にしてはいないが入れ墨をちらつかせここまでの言動を見れば通報されたらかなり面倒なことになるだろう。
だが板前は他の客が追い出されるようにいなくなったこの状況においても警察に通報するようなことはしない。原田という男を知っているからだ。
一般人にしてみれば警察の厄介になるなど絶対に避けたいことだし、刑務所に入るなど人生が終わると感じるだろう。
だが原田のような男は警察署の留置場に入ることなどそこらの定食屋に入ることと大差ないことだし、刑務所など人生の終わりどころか、そこから人生を始めてきたような男なのだ。
板前は一言も発さずに静かに料理を振舞い仲居は酒を提供し続けた。
「佐河のオッサン、ようやっとイッてくれたよな。ったく親父面していつまでも金をむしりに来やがってもう時代はバブルじゃねえってんだよなあ兄貴!」
「ああ、そうだな。だがかつての親父だ、口を慎め勝二」
向井はそう言ってかつての弟分をたしなめるが原田は金をせびるだけになり目障りでしかなくなっていた佐河が死んだことが嬉しくてたまらないようだった。
向井にしてもそれは同じだが、佐河がなぜ死んだのか?それを口にされては困る。向井は原田と相談の上で佐河を殺害することに決めそれを殺し屋である忍谷に依頼したのだ。
向井がキツい目を向けると原田は分かった分かったとばかりに両手を向けた。
「しかし自殺か。松が見つけたのかな?」
「いや、砂場さんだそうだ」
「砂場?ああ、あの小間使いか。組が解散してもダニみたいに佐河に張り付いてたらしいしな。まあお似合いの二人だ。ああはなりたくねえよな」
原田は鼻で笑い言う。
ああはなりたくはないか。お前は何も変わっていないがな。
向井も鼻で笑い返すがその本当の意図が伝わることは無かった。
「昔はよく二人で暴れたもんだよな・・」
向井は昔話に水を向けた。
「だよなあ、あの時な、堤の野郎にカチ込みかけた時よ!兄貴は止めたけど行って良かったろ!?堤の野郎ブルっちまってさ、泣きながら指詰めたもんな!」
「ああ、そうだな」
かつての武勇伝となると原田の話は止まることが無く酒もだいぶ進んでいた。
「おい大丈夫か?飲み過ぎじゃないのか?」
「はあ?飲み過ぎだぁ?酒なんてブッ倒れるまで飲むモンだろう?」
そういって原田は立ち上がった。
「おい!灰皿くらい取り替えろ!」
慌てて仲居が替えの小鉢を手に走り寄ってくる。
今時の割烹らしくこの店には灰皿などなかったので急遽に小鉢で代用していたのだ。
「勝二、どうした」
「ああ?トイレトイレ。トイレだよ!」
そう言ってトイレに向かう原田の背を見る仲居の目は怯えている。
「申し訳ない、身内の不幸があったもんで」
向井は頭を下げ釈明するがまるで意味は無かった。
「もう帰りますんで」少しでも仲居を安心させておきたい。
「あいつは二度とここには来ないから」そう出かけた言葉を飲み込んだ。
仲居がカウンターを拭き吸い殻の入った小鉢を取り替え背を向けたところで向井は目の前に立つ板前に声をかける。
「何かシメで良いのあるかな?」
やっと帰ってくれると板前がホッとし向井に背を向け冷蔵庫を開けた時に、向井は原田のタバコを手に取りポケットにしまい込むと代わりのタバコを取り出し何食わぬ顔で置き、数本抜き取り中身を同じくした。
原田が千鳥足で戻るとさっそくタバコを咥え火を点けた。
「勝二、シメを頼んだ。これ食って帰るぞ」
「ああ?タイ茶漬け?俺はまだいけるぜぇ!!」
「いいから食え」向井はそう言って両の茶碗に昆布茶を注いでやり、椀を手にタイ茶漬けを啜り始めた。
それ見て原田も仕方なくレンゲを手に椀に手を伸ばすが見事にひっくり返してしまう。
「あ、あれぇ?」
「飲み過ぎだぞ勝二」
「いや、そんな飲んでんねえんな・・・」
原田は呂律も回らなくなり身体を大きく揺らし咄嗟に向井が支えてやるとカウンターに突っ伏すように倒れてしまった。
「勝二!おい!」
「ああ?まだ飲むぜえ・・」
原田はそう言って身体を起こすがグルグルと回るように動き向井が抑えていなければ椅子から転げ落ちそうなほどだった。
向井はカウンターに突っ伏した原田を見て(ゲロは吐くなよ)と思いながらその背中を撫でてやりながら仲居が差しだした伝票を受け取りポケットから取り出した封筒を重ねて返した。
「釣りはいい、今日は迷惑をかけた」向井はそう言って店への支払いを済ませた。
封筒には伝票に記された金額の四倍近い10万円を入れておいたが今日の勝二の振舞では喜べるような金額ではないだろう。
仲居が背を向けたすきに向井は原田のタバコと小鉢に残った吸殻をポケットにしまい、念のためにおしぼりで小鉢を拭いそれもポケットに入れた。
もうこの店には顔を出せないな。そう思いながら向井は原田を支えながら店を出た。
「兄貴ぃ、つぎはどおえいう?」
向井に支えられ何とか立っているだけなのに原田はまだ元気なつもりの様だ。
まあそうだ、こいつは昔からこうだった。
酒を飲み始めたら潰れるまで、気を失うまで飲むのだ。誰かが介抱してくれるはずだと思っているわけでもなければ、道端で目覚める事になっても良いと考えているわけでもない、何も考えていないのだ。
向井は周囲を見渡すと一台のタクシーが目に入った。手を上げるとそのタクシーはゆっくりと動き始め赤い「空車」のランプを付けて二人の目の前に止まり後部ドアを開けた。
「おい勝二、しっかりしろ!ほら帰るぞ」向井はそう言って原田をタクシーに押し込めた。
「ああ?まだのえるってぇ・・」原田はそう言うが身体はタクシーの後部座席に倒れ込んでいた。
「後は頼む」
向井そう言うとタクシーのドアは閉まり、そして走り去り向井はそれを見送った。
タクシーは首都高速四号線下りの初台乗り口の手前で止まった。
運転手は後部座席を振り返り注射器を取り出すと原田の頸動脈に刺しシリンジを押し込むと「いてえな!あえ?おあめは、ふなは?」原田はそう言ってすぐに気を失った。
そして、もう二度と目覚めることは無い。
砂場は車を走らせ首都高四号線を下り高井戸を過ぎ中央道へと入りそこから圏央道へと道を変え八王子西ICで降りさらに車を進めた。途中でタクシーを装う行灯や空車のランプも外してあるのでもうただの白いカムリだ。
後部座席に横たわる原田はアルコールを多量に摂取した上にアルプラゾラムを含んだタバコを吸い身体の自由が利かなくなったが更に少量のガンマヒドロキシ酪酸を注射しておいた。
ほんの少量だ。暴れられては困るが万が一にも警察に止められて、死んでいますではシャレにならない。
原田はまだ時折ぼやくような声を上げるくらいには生きている。
砂場は更に車を走らせ奥多摩の山奥にまで進んだ。
そこにはすっかり古びた倉庫があり小型のショベルカーが入っている。
それを使い既に人を一人くらい収めることが出来る程度の穴は掘ってある。
砂場は後部座席の原田に肩を貸すようにしタクシーから降ろした。
「ああ?うなあ?あんでおまえ?」
砂場が手を放すと原田は地面に転がり倒れた。
「あんにふう、えめえ!」身体の自由が利かず呂律も回らない原田に砂場が更にガンマヒドロキシ酪酸の注射を打つと原田はそれ以上無駄な言葉を発することも無くなった。
ガンマヒドロキシ酪酸はアルコールと組み合わせると意識を失うほど強力な薬物だ。
砂場は意識を失いかけた原田を引きずり穴へ落とした。
穴へと落ちた原田はまだ何かを見ようとしていた。
普通の人間なら多量のアルコールにアルプラゾラムを吸いガンマヒドロキシ酪酸を注射されたら死んでもおかしくはない。意識を保っているだけでも大したものだ。
「さすが、二郎兄弟」
砂場はそう呟いてスコップを手にして穴の下の原田へ土をかぶせていった。
砂場が原田に対し即座に死ぬような毒物ではなくガンマヒドロキシ酪酸のような薬物を使ったのは生き埋めにしたかったからだ。
別にこの男に恨みがあるわけではない。確かに佐河組時代の勝二は砂場を小間使いのジジイと見下していたがそれは当然のことで砂場がそう装っていたからだ。暴力を見せつける二郎兄弟とは違い砂場は地味な殺し屋なのだ。誰にもその素性を知られるわけにはいかない。
原田勝二はかつては向井龍二と共に二郎兄弟と呼ばれた伝説のヤクザだ。
ただ死体を埋めるのでは面白くない。
砂場が土をかけていると朦朧とした意識の下でも殺されつつあるという事を理解したのだろう、原田は目を見開き言葉にならないうめき声を上げた。
だがもちろん身体はほとんど動かない。砂場は原田の足元から土をかけて行き、それが胸元まで達しても原田は燃えるような目を砂場に向けたまま口を開いた。
砂場は土をかけるのを止め耳をそばだてたが原田の口が聞き取れるような言葉を吐くことは無かった。
「さすがだ、勝二さん」
砂場は原田の開いた口に土をかけた。最後に何を言いたかったのか聞いてはみたかったが大体予想は付く。この期に及んでもその目は命乞いの慈悲を求めることも無く怒りに震え燃えていた。
原田の身体がすっかり土に覆われると一旦シャベルを置きブルーシートをかけ再び土をかけ続ける。
こうしておくと仮にその身体に自由が戻り土を掻き這い出そうとしてもブルーシートがそれを阻むのだ。
砂場がブルーシートに土を落とし続けるとついにはそれすら土に覆われた。念のためにもう一枚のブルーシートを落とし拡げ更に土をかけていく。
昔はよく石灰を振り掛けたものだがブルーシートの方が確実だ。遺体が腐敗し空間が出来た場合、土が崩れそれが地表にまで影響を及ぼす可能性があるがブルーシートを張っておけば土が崩れにくくなるし、腐敗臭の拡散が抑えられ野生動物がその匂いに引き寄せられ掘り起こすことも無いだろう。
奥多摩は東京とはいえ少なからずクマが生息しているのだ。
まあ埋めに来るだけで掘り起こされているかどうかを確認しに来ることは無いのだが、仮にクマに掘りここされていたとしてもそもそもこんな山奥に人が来ることは無いだろう。
二枚目のブルーシートも土に覆われ見えなくなると砂場は小屋のショベルカーに乗り込み穴を埋め続け最後にはその上を何度も往復し土を固め踏んでから小屋に戻した。
砂場はレモンイエローのスマートフォンを取り出し電話をかけた。
相手はすぐに出た。
「はい、向井です」
「ああ、龍二さん、終わりましたよ」
砂場がそう答えても向井はすぐには返事をしなかった。かつての弟分の始末を依頼した罪悪感からではないだろう。砂場はそれに答えてやる。
「もう2メートルほど地下にいますよ」
「そうですか」向井の声は少し明るくなる。
もうすでにお互いの素性を知っている。向井はそれとなく忍谷と言う殺し屋が砂場だという事に感ずいてはいたし、砂場は原田を殺すにあたって向井の協力が必要だったからだ。
向井は砂場からアルプラゾラムを仕込んだタバコを受け取り、酒を飲んだ勝二が吸うように仕組んだし、吸殻も忘れずに回収しておいた。
「ところで龍二さん、あの事務員はどうするんです?」
「事務員?」
「あの三浦という女ですよ、あなたの乗っ取りを知っているでしょう」
「い、いや・・それは金を持たせて・・・」
「そうですか。ではこれで」砂場はそれだけ言って電話を切りカムリに乗り込み車を走らせた。
砂場は車を走らせながら考えた。
世の中は変わった。
システムが変わったとでも言えば良いのか。
砂場は殺し屋になろうとしてそうとなったわけではない。
ヤクザとしての力や名声を誇示するための暴力は二郎兄弟の得意とするところだった。砂場はそれとは違い人知れず静かに消えて欲しい者達に対応していくうちに磨き抜かれて言った技術だ。
陰で「忍谷」と呼ばれるようになったのはその殺しの技にある。忍谷の標的となる者は札束を前にしてもそれを見ることも無く首を横に振る地権者だったり、鼻薬の効きの悪い警察機構の人間だった。
そう言った者たちの背後に忍谷が立つと彼らは電車やトラックの前に身を投げ出してしまうのだ。
砂場の初めての殺しは単純に突き飛ばし電車に轢かせるという無様なものでそこに技術と呼べるようなものはなく隣にいた男はそれを見ていた。当然砂場は殺人の疑いをかけられかけたが当時は監視カメラはまだ一般的ではなく捜査の手が砂場まで及ぶことは無かった。それに当時は今よりも犯罪件数が四倍以上で自殺か事故かもしれない事件にはそれほど時間を割かなかったという事もある。
砂場は必然としてその技術を高め、今ではほんの数回、対象の身体を触るだけで事を終えることが出来る。
ほんの一歩か二歩、前に進ませるだけだ。それだけでターゲットは数十トンの鉄の塊とぶつかることになるのだ。
忍谷の技術は合気道に近い。二本足で立つ人は思いのほか不安定だ、重心は定まらず常に移動している。
人はそれを無自覚に修正し安定して立っていると勘違いをしている。
忍谷は対象の背後に立ちそっと触るだけだ。それだけで対象の重心は移動し、それを無自覚に修正しようとする。そのズレた重心をさらに逆方向からそっと押すと対象は更に重心を大きく揺り動かすことになる。そこにもう一押しすれば対象は一歩か二歩進むことになる。
そこには数十トンの鉄の塊が・・・。
それだけだ。
しかしそれもそこら中に監視カメラが設置されるようになるとそう簡単にはいかなくなる。
だが世の中は変わった。
このレモンイエローのスマートフォンがそれだ。
これが何なのか砂場にはよくわからない。これを手にしたのは10年以上も前の事だ、詳しくは覚えていない。
分かっているのはこれを手にするという事は強大な犯罪組織の一員となったという事と、その力は絶大だという事だ。この力を使えば忍谷はネットワークから完全に姿を消すことが出来る。
砂場が忍谷としての仕事をこなした時、その姿は監視カメラのデータから消えることが出来る。
砂場が佐河組の構成員というより小間使いの年寄りだった頃、まだまだ日本の景気が良かった頃だ。
二郎兄弟のような武闘派ヤクザがその力を誇示し振るった暴力の後始末を砂場がしていた頃は本当に小間使いのような扱いだった。
二郎兄弟が暴行や脅迫といった派手な暴力で荒稼ぎし時折、数年の小便刑を勤め上げただけでも組から数百万の金を受け取っていたが、その後始末、つまりは死体の処理や静かな殺しをしていた砂場の受け取る金は小遣い程度のものだった。
そして時代が変わった時、バブルが終焉を迎えた時に佐河の親父はチンケなブローカーに騙された。
多くの者は終焉を感じ取っていたのだが、佐河には感じ取れなかったのだ。組の資産の大半をブローカー
に預けたどころか借金までして金を用意した。暴力を従えて生きてきた佐河のような男は、法に熟知しスーツを着て文字通り桁の違う金を稼いでいたサラリーマンヤクザを嫌悪していた。それなのにその真似事が出来ると思ったのか、出し抜けるとでも勘違いしたのか。
当然結果は火を見るよりも明らかだった。佐河組は全てを失った。
砂場は勝二が捕まえたブローカーと共に奥多摩の山奥に行った。勝二はうっ憤を晴らすかのように金属バットでブローカーの手を砕き腕を折り膝を粉砕し、全身を殴り続けブローカーが死んでもなお殴り続けた。当然、その死体の後始末は砂場の役目だったがそれでただの一円の報酬も受け取ることは無かった。砂場が手にしたのはブローカーの指からコッソリと抜き取った真紅のルビーの指輪の一つだけだった。
だがブローカーを殺したところで投資した金が戻るわけではない。
それも銀行相手ならまだ得意の暴力を振るい借金を踏み倒すか、少しは金を取り返すことが出来たかもしれないが、そこに出てきたのは佐河が忌み嫌っていたサラリーマンヤクザだった。
真正面の戦争でも仕掛けることが出来たのならまだ佐河組にも目はあっただろうが、金だけは持っているサラリーマンヤクザは暴力はもちろん権力も買うことが出来たのだ。
佐河組は連日のガサ入れでまるで臨時警察署のような状態になった。飯を食いに行く、酒を飲みに行くだけでも制服警官に付きまとわれ軽くて手を振り払っただけですぐに応援が山ほどやってきて手錠がかけられたかと思えば山ほど罪状を積み上げられた。事ここに至っては最早佐河組に金が残っていないことは誰の目にも明らかでチャカを片手にカチ込みを強行したところで万が一に生き残れ刑務所で務めを果たしてきたとしても何一つ報いが無いと言うのは勝二でさえ理解していた。
佐河組は全てを失い解散の憂き目にあったというわけだ。
佐河は全てを失い、松やビジネスマン気取りを始めた二郎兄弟にたかる様になったというわけだ。
そして砂場は佐河に張り付き、昔のままの小間使いを続けた。
だが砂場を忍谷へと変えたのがこのレモンイエローのスマートフォンだ。
よく覚えてはいないが砂場がこれを手にしたのはもう十年以上前か、いや二十年近いか?
この小さな機械の向こうに何があるのか誰がいるのかは分からないし興味もない。
ただ、この小さな機械を通して依頼を受け忍谷としての仕事をするだけで佐河組の時とは違い大金が手に入るのだ。
初めは半信半疑というより自暴自棄だった。たかり屋へと落ちぶれた佐河の小間使いを続けるよりはいっそのこと刑務所に入ったほうがマシかもしれないとさえ思ったからだ。
だが砂場は信じられないほどの大金を手に入れた。
そうなるともっと金を得たいと思うようになり刑務所など冗談じゃないと思うようになる。
砂場は忍谷としての殺しの技術を磨き上げた。このスマートフォン越しに来る依頼は多いがその中から厳選し確実に可能だと思える物だけを受ける。
女は楽だ。特に若い女だと良い。尻でも肩でも背なかでも良い。
誰かに背後から触れられたら男は「誰だ!?」と向かってくる可能性が高いが、女は反射的に逃げようとする可能性が高い。その反応は若ければ若いほど顕著だ。その場合は重心を崩した身体を押すより咄嗟に浮かした足をそっと押してやるだけで大きくバランスを崩す。
どこかの駅で若い女を殺した時はいつだったか?10年以上前だったか。あの時は若い男が容疑者として捕まったからなんとなく覚えている。
このレモンイエローのスマートフォンの向こうにあるのはハックエイムという犯罪組織。
砂場が知っているのはそれだけだし、それ以上知りたいと思う事もない。
ただ向井がこれを通じて依頼をしてきたと言うだけの話だ。
そして向井はやはり武闘派を気取っていただけの時代遅れのヤクザなのだ。土木関係の人材派遣会社を経営しているだけでインテリヤクザの仲間入りができたと勘違いしているただのバカだ。
原田の会社を乗っ取るために三浦とか言いう事務員を取り込んだようだが、なぜそこから原田失踪の疑いをかけられる可能性を考えないのか。
向井はあの事務員に金を掴ませれば黙っていてくれると考えているのだろう。
いや、そう思い込みたいのだ。向井は殺しを恐れているのだ。自分で殺すわけでもないのに、殺しを依頼することを恐れている。佐河と原田の殺しを依頼してきたくせにだ。
女は殺したくないとでもいうのか、これ以上殺したくはないとでもいうのか。
バカな男だ。
もしあの事務員が白紙の委任状や株式の譲渡書類、それに印鑑を向井に渡したと証言すれば原田失踪に疑いがもたれる。原田が埋まっているのが奥多摩という事まで知れることは無いだろうが疑いを持たれるという事がどれほどのリスクになるかという事まで向井は理解が及ばないのだ。
最悪なのはそれを脅迫のネタに使われることだ。
あの事務員が向井の指示の上で原田の会社から書類の偽造をしたり印鑑を盗み出したことをネタに脅迫して来たら?
原田ならば即座に事務員を殺すだろう。それにより知られたくない事実が明らかになるとしてもだ。
自らのメンツが傷つくことよりも相手を潰すことを優先する。そのリスクが数年か数十年に及ぶ刑務所生活であったとしても気に留めることも無いバカ。それが武闘派ヤクザと言う物だからだ。
だが向井は違うバカなのだ。
金にならないな。
砂場はそう思いながらスマートフォンを取り出し三浦という事務員の情報を集め始めた。
そこに電話がかかってきた。
スマートフォンには「松」と表示されていた。




