第五十六話 照間瑠衣と田中
人参を半分に切りピーラーで皮を剥いて短冊に切り分ける。ニラを洗い切り分ける。ゴーヤは無かったのでピーマンで代用する。ピーマンを半分に切りワタを取り除き同じように細切りにしていく。
「ピーマンなんですね」背後から田中が声をかけ照間瑠衣が答える。
「ゴーヤが売ってなかったからね、ごめんね」
「いえいえ!そういう意味じゃなく単に・・その・・」
「興味?」
「ああ、それです」
田中は瑠衣と身体を合わせる仲になっても丁寧な言葉使いが抜けない。
瑠衣は水を張った鍋を火にかけてからモヤシをザルにあけ田中に差しだした。
「え?これは」戸惑う田中に瑠衣は言う。
「根っこを取るの!」
「ええ?もやしの根を取るんですか?」
「そうよ、根っこは食べたくないでしょ」
そう言われても・・。そう言うものなのか?中華料理屋で野菜炒めなどを頼んでももやしの根を取って出すような店はあるのだろうか。気にしたことすらないというのが正直なところだ。だがここは言われた通りにした方が良いだろう。
モヤシを一本摘まんで根を取りこれでいいかと見せると瑠衣はニコり微笑んで頷いた。
「じゃあ後はお願いね」そう言うと瑠衣はまたコンロと向かい合う。
え?これを一人で?田中は少し驚いたが、ふと母を思い出した。
杉並の豪邸ではよくその広い庭でパーティーが開かれていたものだ。そこにいた者は皆酷く酔いまだ幼かった田中にジュースだと騙して酒を飲ませようとする酔客が少なくなく、時にはその小さな身体をプールに投げ込まれるようなこともあり、田中はパーティーが開かれると自室にこもりその窓から(早く帰れ)と恨みがましく見ていたものだった。
庭には近所のフランス料理店のシェフやイタリヤ料理店のクオーコが腕を振るった料理が並んでいる。寿司が並ぶことはあまりなかった。バブルの絶頂期は急激な円高の影響で質の良い日本製品より外国製品が好まれた。いや、好まれたというより日本人が今までろくに目にしたことが無かった外国製品に飛びついただけの話だ。
一番わかり易い例がボジョレヌーヴォーだ。バブル当時のその熱狂ぶりは醜い成金、まさにエコノミックアニマルにふさわしい振舞だった。
ボジョレヌーヴォー=ワインの新酒といった認識で持て囃されたものだが正確にはボージョレ産のワインの新酒という意味だ。当然フランス全土でそれぞれのヌーヴォー=新酒があり、フランスと同じくワイン大国であるイタリアでは新酒=ノヴェッロと言われる。
そのような中でボジョレヌーヴォーだけが日本で持て囃された理由、それは当時のバブルジャパンが金は持っているが物の価値を知らないエコノミックアニマル、金を持つ猿だったからだ。
ボジョレヌーヴォーと言うのはその年のワインの出来を確かめる試飲の意味が大きい。
アルコール度数の低いビールや水を足す日本酒の様に時間を置くと腐ってしまう醸造酒と違いワインはその過程を天使の分け前と言うほどに時間の経過によって深みを増していくものだ。
つまり本来はボジョレヌーヴォーにそれほどの価値は無い。だが当時の日本はそんなものに大金を払い空輸しカウントダウンをしてまで持て囃したのだ。
同じように杉並の田中邸を訪れる者達も熟練の寿司職人が焼いた出汁巻き玉子よりフランス産のチーズを、新鮮な旬の刺身よりイタリア料理のカルパッチョ、イクラより遥かな高価なキャビアばかりを楽しみそこに日本料理、今でこそ世界的に認知された和食が並ぶことは少なかった。
そこに並ぶ酒もまたワインやブランデーばかり。時にスコッチが並ぶこともあったが焼酎や日本酒が並ぶことは無かった。
もちろんそれは田中邸を訪れた者達の食の好みというわけではなく、彼らが、バブルの成金達が気にしたのはその味ではなく、外国産であるという事とその値段だけだ。
田中の母もそう言った者達に手間と時間をかけて料理を作り供していた。栗金団を作り当時も今も珍しかった家庭用自動餅つき機で餅を作り松茸の佃煮を作った。
だが母の日本料理に手を伸ばす者はほとんどいなかった。
田中邸を訪れる者達は母が手際よく捌き天婦羅にした旬のハゼよりも、マヨネーズをたっぷりと浸けて食べるエビのフリットに手を伸ばしていた。
田中は母の作った料理が早く食べたくて窓から酔客を睨み早く帰れと願っていたものだ。
母の作り料理はどれも美味しかった。田中はたまに連れて行ってもらう近所の寿司屋が好きだったがやはり母の料理が一番だった。父の記憶はあまりないがそういった母の調理を手伝っていたようには思えない。
そうだ、母が元日に作るお雑煮は関東では珍しく塩鮭が入っていた。それは母の故郷の味だった。
母と住まいを別にするようになっても田中は正月ともなれば実家を訪れ母の作る塩鮭のお雑煮を食べ、栗金団を摘まみ、松前漬けをあてに母ととっておきの日本酒を楽しむ。
だが田中が一番好きな母の料理は別にある。
母は学校が半日で終わる土曜の午後には時折インスタントラーメンを作ってくれた。
茹でたモヤシとキャベツと半分に切ったゆで卵を乗せたサッポロ一番の味噌ラーメンだ。
「お父さんには内緒ね」と母は笑って言っていた。
田中の父は「貧乏くさい」とインスタントラーメンなど絶対に口にしなかった。
田中は今でもインスタントラーメンと言ったらサッポロ一番味噌ラーメンが一番好きだ。
そう、今でもたまに作ることがある。湯を沸かして先に卵を茹でておいてから、麺とキャベツにモヤシを茹でる。粉末スープを溶かし入れて完成だ。半分に切ったゆで卵は豪華に二つもある。
子供の頃はそのゆで卵の黄身を先に食べ残った白身をレンゲのように使いスープを飲んでいた。
母はあのラーメンを作る時にモヤシの根を取り除いていただろうか。思い出せない。
おそらく取っていたのだろう。
母はこんにゃくまで自分で作っていた。それは煮物に使うような硬いコンニャクではなく刺身で食べるフワリとした食感のコンニャクだった。
帰国したら聞いてみよう。
「終わったかな」
瑠衣が聞く。
「え、ええ何とか終わりました」
瑠衣は少し首をかしげたが一人納得したように根を取り終えたモヤシの入ったザルを受け取った。
いつまでも他人行儀な田中の言葉使いに対するものだろう。
「あとはすぐに出来るから田中くんはお酒でも用意しておいてっ」
「田中くん」という瑠衣のささやかな意趣返しを受けた田中は素直に冷蔵庫からビールを取り出しテーブルにつき曲をかけた。シアのチープスリルが流れ始める。
「先に飲んでていいよ」瑠衣はそう言ったがさすがにそれはせずにじっと瑠衣の背中を見つめていた。
水泳のコーチをしているというだけあって瑠衣の肩や背中は一般の女性よりがっしりしていて実に健康的だ。塩素で焼けたというわずかに色の抜けた黒髪も、冬でも薄い小麦色の肌も魅力的だった。
調理を終えた瑠衣は皿を手にテーブルに置いた。
ソーメンのチャンプルーに穂先メンマの乗った冷奴、それに寒ブリの刺身にほうれん草の胡麻和え。
全てキッチリ二等分。
「どうぞ」と瑠衣が言う。
田中は「どうぞ」とグラスをビールに注いだ。
「いただきます」と二人が言い食事を始めた。
チャンプルー。ようは沖縄風の野菜炒めだ。豆腐が入っており溶き卵で絡めてある。
これにはさらに茹でたそうめんが入っていた。
「沖縄でもそうめんは食べるんですか?」
「食べるよー、こういう風に炒め物にすることも多いかな。沖縄のそうめんは炒めてもベタベタくっつきにくいんだけどね」
瑠衣はソーメンチャンプルーの仕上がりに少し不満そうだ。その顔は、沖縄の食材を使えればもっとおいしくできたのにと訴えている。
いや、十分に美味しい。たっぷりの野菜とツナ缶にソーメンに卵が絡み、味付けは鰹出汁と僅かに醤油。
箸で根を取り除いたモヤシを摘まみ見た。確かに見た目は綺麗だが味に変わりがあるのだろうか。
「なんか糸クズみたいでイヤじゃない?」瑠衣が田中の思いを見透かしたように言った。
田中はモヤシを口に運んだ。味は変わらないと思う。
「そうですね」田中は答え、きっと母もモヤシの根っこは取っていただろうと思った。
田中は職業柄、早食いだが女性と食事を共にする時の最低限の礼儀は持ち合わせているつもりだ。
しかも食事を作ってくれたのは瑠衣なのだ。共にじっくりと味わっていった。
「これチャンプルーって言うんですよね」
「うん、こっちだと炒め物に卵を入れることは無いよね」
「そうですね。でも美味しいです」
「良かったー」瑠衣が微笑み田中の箸が思わず止まる。
「え?なに?」
「いえ、見とれてしまって」
田中は自分でも驚いた。随分と照れ臭いことを言ったものだ。
だが瑠衣は照れることもなく、んー?と顔を寄せてきた。
田中は顔を豆腐へと向け直し箸を伸ばした。
「なにに見とれたのー?」
「いや、ごめんなさい。本当に」
田中は豆腐を摘まんだ箸を止め左手で、おそらく真っ赤に染まっている顔を覆った。
お世辞ではなく本気でそう思い口にしてしまったからこそ余計に恥ずかしかった。
幸い瑠衣はそれ以上田中を追い詰めるようなことはせずに黙々と食事を続けてくれた。
食事を終えた二人はどちらが食器を洗い片付けるかでしばし揉めたが家主である田中がそれをすることで落ち着いた。
二人はベッドに腰かけ瑠衣が買ってきたギンビスのアスパラガスビスケットとクリームチーズを摘まみに沖縄の泡盛であるドナンを飲み始めていた。
アルコール度数は60度。アマゾンプライムで瑠衣の選んだハートロッカーを見ていたのだが田中はすぐに映画に集中できなくなってきた。
グラスには氷とアルコールの塊のようなドナンに香りづけ程度のレモンを絞るだけだ。田中はチビチビと飲むのだが瑠衣は、シークワーサーがあればもっと美味しいのにと言いながらグラスを空けていく。
瑠衣が田中に身を寄せると田中はその腰に手を回した。
「ワインでもよかったのに」瑠衣は言う。
「いえ、悪くないですよ」田中が返す。
アルコール度数だけで考えればワインに比べてドナンはとてもキツい。しかし意外と旨いものだった。60度というワインとは比べ物にならないアルコール度数だがどこか甘い感じがする。田中は泡盛はあまり好きではなかった。残波は八重山と言った王道ともいえる泡盛を飲んだことはあるが泡盛特有の風味と言うか香りが苦手だった。
しかしこのドナン60度はそのアルコール度数の高さのせいかそう言った臭みはほとんどなくほんのりと香る甘さが旨かった。
しかし瑠衣は酒が強い。田中のグラスに二杯目を控えめに注ぎながら自身のグラスにはなみなみと注いだ。
瑠衣はグラスにレモンを垂らすと一気にグラスの半分ほどを飲んでからグラスをテーブルに置いた。
そして田中のシャツをまくり上げその背中を撫で始めた。
田中がハートロッカーを一時停止するとスピーカーからはベイビーピンクが流れ始めた。
男の性欲と女性の性欲は違うのだと田中は思う。
田中が腰を動かすと瑠衣は小さな吐息を漏らす。
田中が瑠衣に覆いかぶさるようにして吐息を漏らす唇にキスをすると瑠衣は田中の背を抱きしめ舌を絡めてくる。
田中が腰を動かすたびに瑠衣の吐息は喘ぎ声へと変わり行きついには田中の背に腕を回し身体を震わせた。田中はしばし動きを止め息を漏らすその首を撫でると瑠衣はその手を掴むと田中の指を咥え舐めた。
男の性欲と言うものは10を0にするものだが女性の性欲と言うものは0を10にするものなのではないかと田中は思う。
瑠衣は今5くらいだろうか?だが田中はまだ10のままだ。
田中は瑠衣の口から指を抜き代わりに唇を重ねると瑠衣が舌を絡めてきた。
田中がまた腰を動かし始めると瑠衣は息を漏らし始めそれはすぐに大きくなっていきまたその身体を震わせる。田中はまた動きを止め瑠衣の顔を両手で包む。瑠衣は猫の様にその両手に顔をこすりつけた。
田中が今度は瑠衣の回復を待たずに腰を動かすと瑠衣は待って!とばかりに両手で田中の胸を押すが田中の動きは止まらない。
田中を抑えようとする瑠衣の両手の力は無くなり代わりにその身体が逃げるように悶える。
「お願い、まって・・」瑠衣は泣くように懇願するがその顔を見た田中の動きは逆に大きくなる。
瑠衣は身をよじるが限界に達すると田中の背中に爪を立て全身を痙攣させ、田中も行為を終えた。
瑠衣は息も絶え絶えにその目に微かに涙を溜めながら「いじわるだよね」と言った。
田中は瑠衣の脇に横になるとその太い腕で瑠衣を抱き寄せた。瑠衣は田中の厚い胸に満足げに顔をゆっくりとこすりつけた。
「喉乾いちゃった」そう言い瑠衣は全裸のまま立ち上がった。
「ビール貰うね」瑠衣は冷蔵庫から500ミリの缶ビールを取り出しプルタブを引き起こすと気持ちいいくらいにビールを勢いよく飲み始めた。
「飲む?」そう言って田中にビール缶を差しだした。
田中は口を開かずに手を差し伸ばし瑠衣はそれに答える。
田中が受け取ったビール缶は半分ほど無くなっているだろうか、瑠衣は女性の割に本当に酒が強い。
それは瑠衣が南の女性、沖縄女だからなのか、そもそも女性に比べ男性の方が酒に強いというのがただの根拠のないステレオタイプなのか。田中はゆっくりとビールを一口飲んだ。
瑠衣はベッドの脇に置かれていたタバコを一本手に取るとベランダに出て行った。
「ちょ、ちょっと待って!」思わず田中が驚くが瑠衣は事も無げに「電気を消して」と返す。
田中は少し考えてから部屋の電気を消しベランダでタバコに火を点ける瑠衣の横に立った。二人を明るく照らす灯りは無くなり都会の薄い闇夜の中に二人は立っていた。
瑠衣が全身から湯気を立たせながらフーッと紫煙を噴き出すと田中にタバコを渡した。それを受け取った田中も瑠衣の横でタバコを咥え一息吸いビールを飲んだ。
瑠衣がせがむ様に顔を向け田中は濡れた口にタバコを差してやった。また瑠衣が一息吸うと今度は頭を上に向け口を開けた。田中は慎重にその小さな口にビールを注いでやる。少しばかり零れたが瑠衣は気にせずに目を瞑り口に注がれたビールを飲み干した。
口から零れたビールが首を伝い胸へと垂れた。
瑠衣は蕩けるような目つきを田中に見せ、田中はタバコを空になったビール缶に入れ落とすと少し身を屈め胸を伝ったビールを舐めとってやった。
瑠衣がゆっくりと田中の首に両手を回し二人は深く唇を合わせ舌を絡ませた。
「さすがに寒いですよ」田中がそう言うと瑠衣は少し笑いながら「お風呂入る?一緒に?」と言ってくる。
「いえ、狭いですから」と田中は逃げる。
男の性欲と女性の性欲は違うのだろう、田中もう0だが瑠衣は・・。
男の性欲は10を0にするもので、0になったら終わりだだ、女性の性欲は10になったからといって終わるとは限らないのだろう。
直接的な言い方をすれば男は達すれば0になるが、女性は達したからと言って10になるわけではないし10で終わりではない、という事なのだろう。
それに二十歳そこそこの男子ならいざ知らず田中は既に40半ばなのだ。
田中は一人風呂へと逃げた。
そんな二人を見ていた男が一人。
鈴木巡査だ。ご丁寧に暗視スコープを使い二人を見ていた。
瑠衣は風呂場へと向かう田中の背を潤む視線で見つめていた。
瑠衣は今まで数多くの男にその身体を委ねてきたが田中のセックスは今まで味わったことの無い快感を与えてくれる。最初は堅物で女性経験の少なそうなつまらない男だと思っていた。そんな男のセックスなど予想が付く。AVを参考にしたような自分本位の独りよがりのセックス。そんなセックスなど時間の無駄だろうと思っていた。
だが田中は十分すぎるほどに前戯に時間をかける。
田中はその屈強な体つきに似合わずその指で瑠衣を優しく撫でてくれる。その柔らかい唇をそっと重ねてくれる。その舌が瑠衣を熱く這う。
どれももどかしい。もう少し強くしてくれれば・・・。もう少しずらしてくれれば・・・。
あと少し・・!というところで田中の指や唇や舌は動きを止め別のところへと行ってしまう。
初めは(そうじゃないヘタクソ!)と内心舌を打っていたがそうではなかった。田中は分かってやっていたのだ。
男って言うものは「あーいくー!」と叫んで膣を締めてやれば満足するものだったが、逆に田中は瑠衣をそう簡単には満足させてくれなかった。
田中は瑠衣がイキそうなのが分かるようだった。長い前戯で何度ももう少しと言うところまで連れていかれのだが決して最後までは連れて行ってくれない。何度も何度ももう少しと言うところまで連れていかれて涙目になる瑠衣を見るとやっと身体を重ね合わせてくれる。それだけで瑠衣は達してしまうがこうなると田中のもどかしさは無くなる。打ち付けるような乱暴な動きではなくやはりゆっくりとしたものなのだが瑠衣のダメなところが分かり切っているようで、瑠衣は先ほどまでのもどかしさへの物とは違う涙を溜める。二人が触れあっているのは一箇所だけなのに瑠衣は全身で田中を感じる。そして田中は瑠衣が今まで到達したことの無い場所へと連れて行ってくれるのだ。
男にとってセックスは短距離走で女にとってのセックスは長距離走だ。男は早くゴールしたがるものだが女は遠くまで一緒に走って欲しいのだ。
瑠衣は今までの数多くの男とのセックスは覚えてもいないし、思い出したくないものもあった。しかし田中とのセックスは忘れられない。それはなぜなのか?
簡単だ。今までの男たちは瑠衣に金を与えてくれたが田中は瑠衣に別の物を与えようとしているのだろう。
それは・・。
瑠衣がその思いを鼻で笑い飛ばすとスピーカーからマルーン5のシュガーが流れた。
私は傷だらけの壊れかけ
だから今すぐにあなたが必要なの
あなたと一緒なら強くなくても良いから
あなたに愛されたいわけじゃないの
ただあなたの愛を深く感じていたいだけ・・・・。
瑠衣はベッドへと戻り毛布を手にしそれを羽織るとタバコをもう一本取り出し咥え火を点けた。
スマホを手にしロックを解除し隠されたアプリを起動する。
自身を中心とした地図が表示され近くに光点があるのが分かる。鈴木の現在位置だ。
あの変態は全くどうしようもない。
瑠衣はベランダに出てタバコを吹かす。どうせあの変態は双眼鏡か何かで覗いているのだろう、瑠衣は見せつけるように毛布をはだけまたタバコを吹かした。
マリファナがあれば最高なのだが。
もちろんインディカ種ではなくサティヴァ種だ。
映画を見るわけでもなくナタリーインブルーリアのトーンでもかけて二人でソファーに座り田中の太腿に頭を乗せてそっと髪を撫でて欲しいのならインディカ種をメインにブレンドしたいいヤツをキメれば寝ているようでありながらどこまでも癒されていくような感覚を味わえるだろう。
だが田中となら必要なのは当然サティヴァ種だ。
インディカ種メインのブレンドならケチってもいいがサティヴァ種メインのブレンドを買うなら余計なことは考えずに「一番いいヤツをくれ」と言うべきだ。
それを田中と回しながら吸うのだ。
吸う場所はもちろんソファーではなくベッドだ。
サティヴァ種のいいヤツをキメた後に田中のあのどこまでも焦らすようなセックスを味わってみたい。
お互いを求め合い力尽きるまで快楽に溺れたい。
そして空腹で目覚めたら食パンにスライスしたスパムと薄くスライスしたタマネギを挟んだだけのサンドイッチをコーヒーで流し込むように食べ、また求め合うのだ。
どこまでも、いつまでも……。
あなたが誰であっても
私が誰であっても
ただ一緒にいたいの
少しでいいの
あなたの愛を感じさせてくれれば
瑠衣は声を出して笑い耳障りな歌をかき消すと部屋へと戻った。
少し涙ぐんでいたのはセックスの快感の名残か冷たい冬の夜風のせいだろう。
田中は風呂場でシャワーを浴びながら瑠衣が入ってきてまた求められるのではないかと戦々恐々としていた。いや、少しの期待が無いとは言えないが。
髪を濡らしヘアーワックスを軽く洗い落としながらシャンプーを手に垂らし髪を洗い始める。軽く洗りすぐにシャワーで泡を落としもう一度シャンプーを手にする。今度はゆっくりと頭皮をマッサージしながら洗っていく。
部屋のスピーカーからマルーン5のシュガーが聞こえてきた。
ここにいるよ
もう少し愛が欲しいかも
君との愛は抜群だし
もう少しなら・・
田中は自分を誤魔化すようにわざと下世話な感じにシュガーを聞き、歌をかき消すように頭からシャワーを浴びた。
君と一緒に進みたい
そして少しでいいから君の愛を感じたい
お願いだよ、一緒にいて欲しい
甘い甘いきみが欲しい
僕だけが触れたい
きみは熱いからさ
あの南の海よりも
田中は自分の年齢はもちろん瑠衣の年齢も知っている。
一回り離れている。
それでも。
もう他の誰にも触れさせたくない。
瑠衣は部屋へ戻ると田中のスマホを手に取った。
既に表面にパスワード監視用のアプリは仕込んである。
あとは表面上に張り付いていたそれを使い本体を内部に仕込むだけだ。
田中のスマホは当然だがロックがかかっている。そこでまず外側監視アプリを仕込んでおいたのだ。これがスマホの内部に侵入するわけではない。例えるなら金庫室の扉の横に立って持ち主が金庫室のパスワードを打ち込むのをじっと待ち構えているだけだ。
持ち主は見られているとは知らずにいつもようにパスワードを打ち込む。監視アプリはそれを瑠衣に教える。瑠衣はそのパスワードで田中のスマホのロックを外した。金庫室は開いた。だが中身を盗むわけではなく、一つ中身を増やすだけだ。
今度は正真正銘のスパイだ。金庫室の中身を全て教えてくれる。田中の現在地はもちろんネットのどこにアクセスしたか誰にどんなメールを送ったか誰と電話したか。必要なら盗聴も可能だ。
あとはスパイを仕込むだけだ。
瑠衣が自身のスマホを並べケーブルを差し込もうとした瞬間だ、田中のスマホが振動し呼び出し音が鳴った。
瑠衣は反射的に田中のスマホを触ってしまった。
「こんばんわ、松です。ああ、彩の・・・」
田中のスマホから声が聞こえる。
しまった!着信に触ってしまった!切るわけにはいかない。
「あの、田中さんですよね?」
「あの、ごめんさない。田中さんはいま電話に出れなくて・・・」
「あ?ああ、はいはい。うーん、そうか・・・そうですか」
「ごめんなさい」
出てしまった以上、切るわけにはいかない。切ったりしたら怪しまれる。もう一度かけてくるだろう。
そうなったら?不在着信として残り田中はかけ直すだろう。そして松という男は田中に「さっき切れたけど」と言うかもしれない。この場で対応するしかない。
「いいですよ、そうだなぁ・・・じゃあ田中さんに伝えておいてくれますか。砂場さんの件ですが急ぎではないとお願いできますか」
「分かりました。砂場さんの件、急ぎではないと」
「はい。ま、明日以降でいいので。私が起きている時間ならね」
「はい、伝えておきます」
「じゃあ、おやすみなさい」
そう言って松という男は電話を切った。
瑠衣は舌を打って田中のスマホにスパイ本体を仕込む作業を始めた。瑠衣のスマホと田中のスマホをケーブルで繋ぎさえすれば一分もかからないのだが妙に遅く感じる。
このスパイアプリは実に小さくショートメッセージアプリ程度の物だ。数十メガバイト程度のもので最近のスマホの100ギガバイトを超えるストレージに追加されていても気が付く者はいないだろう。実際にその機能はSMSアプリと大差ないもので何かを記録するようなこともない。必要ないからだ。スパイアプリはありとあらゆる権限を付与されている。内部データはもちろんGPSにマイクやカメラ、全てにアクセスできる。例えば通話内容を録音しておき後から送信させることは出来ないが通話中であれば盗聴が可能だし、こっそりとカメラを起動させその映像を見ることも出来る。
鈴木のスマホをハックしても得るものはほとんどなかったが巡査部長の田中であれば情報の価値は格段に上がるだろう。もっと上の警官を落とせれば良いのだが今の瑠衣にはまだ難しい。
一歩一歩進めるしかない。バレたら一巻の終わり。その点では蔵井戸も慎重で無茶なことは言わない。
まずは田中のスマホをハックするのだ。交番勤務の警官とはいえ、警察機構の末端とは言えその情報を手にできるのは大きい。
蔵井戸は上昇志向の強い男でハッカーズでもっと上に行こうとしている。
そのためには情報が重要だ。ハッカーズでいる上で最も近づいてはならないのが警察だが、最も欲しいものもまた警察の情報だ。
偶然にも接触した鈴木。蔵井戸はあの男を落としてスマホにスパイを仕込めと言った。それは実に簡単だったがあの変態野郎を相手にした割りには得るものは少なかった。だから標的を田中に変えた。
変態警官の次はおとなしそうな中年警官。実際に相手をする瑠衣はまるで割に合わないと思っていたが鈴木と違って田中は別だった。
田中とのセックスは本当に忘れられない。
田中はキスをする時もその舌を絡めて来るときも、首筋に舌を這わせてから胸の突起を口に含み弄ぶ時も、くすぐる様にわき腹を舐め下ろし瑠衣の一番敏感なところに吸い付くときも私の目を見ている。
私が瞳を潤ませ涙が零れそうになるのを見ている。
私の目が「早く!」と訴えるのを見ている。私の目が「欲しい!」と叫ぶのを楽しそうに見ているのだ。
アプリの侵入が完了した。
瑠衣はすぐにケーブルを抜きそれをバッグへ入れた。だが一安心というわけにはいかない。
電話に出てしまったことをどう言い訳するべきか。正直に言うのがベストだろう。だがどう正直言えばいいのか?まさか、スパイアプリを仕込もうとしていたら間違って電話に出てしまったとは言えるわけがない。
瑠衣が思い悩んでいるとシャワーの音が止み、ほどなくして田中が風呂場から出てきた。
ボクサーパンツを履きタオルで髪を揉みながら出てきた田中は言った。
「お待たせしました瑠衣さん、どうぞ」
瑠衣は一瞬だけ笑顔を田中に向けたのち下唇を噛んで下を向いた。
「どうしました、具合が良くないとか・・・」
田中が心配そうに聞いてくる。
「いえ、あの・・・」
「どうしました?」
田中にそう言われ瑠衣はさらに頭を下げた。
田中は髪を揉む手を止め焦って瑠衣へと駆け寄り肩へ手を乗せた。
なぜこの男はこんなにも優しいのか。身体が冷えているのではないかと確かめようと肩に手を乗せたのだ。一緒に風呂に入ることを拒んだ事に軽い自責の念を持ったのだろう。
「瑠衣さん?」
田中は瑠衣の隣に腰を置き抱き寄せるわけでもなく、そっと瑠衣の肩に手をかけた。
「ごめんなさい・・」瑠衣は少し顔を背け言った。
田中は困惑しながら答える。
「何がですか、どうしました」
瑠衣は答えない。
田中は瑠衣を軽く抱き寄せ「言ってください」とだけ言った。
田中の脳裏に「別れ」の言葉がかすめていった。
仕方が無いだろう、なんせ一回り以上も歳が違うのだ。
正直に言えばそれはとても残念なことだ。田中は心のどこかで30歳も超えれば10かそこらの歳の差でもなんとかなるのではないかと思ってはいた。だがそれは年上の四十半ばの男の考えで女性の思いはまた別なのだろう。
瑠衣は鈴木という異常者を遠ざけてくれた田中に一瞬だけ好意を持っただけなのだ。これ以上遅くならないように、まだやり直せるうちにと別れを切り出すのかと思った。
「田中くんのスマホが鳴って、咄嗟に出てしまったの・・」
「え?あ・・。え?」
田中にかかってきた電話に出てしまった。瑠衣にそう言われ、別れ話ではないとひとまずは安心できたが、電話に出た!?
待ってくれ!どこからの電話だ!?
署からか!?交番勤務の所詮ハコ長に勤務時間外に署から電話がかかってくる事は少ないだろうがそれに女性が出たという噂は一気に広まるだろうし、それはすぐに鈴木巡査の耳にも入るだろう。面倒だ、実に面倒だ。
フランスにいる母からか?それとも花藤からか?どちらも面倒だ!!
四十越えて一人モンの男に夜遅くに電話をかけたら女性が出た。
告白でもして結婚前提の付き合いであるなら堂々としていられるだろうがそうではないんだ。
「あの、松さんて人が、砂場さんの件は急ぎではないって・・」
「松、さん・・?」
「ええ、急ぎではないでですが、起きている時間でと言っていました。明日以降で構わないと」
松さんか、一安心だ。
砂場の件。上手くセッティングしてくれるのだろう、砂場が佐河の遺構を整理するタイミングに田中が介入できるように。
「ありがとうございます」田中はそう言って瑠衣を抱きよせた。
シャワーを浴びたばかりの田中の身体は十分すぎるほどに火照っていたが、田中に寄り添った瑠衣の身体は冷えかけていた。
田中は立ち上がり瑠衣を抱きもう一度、風呂場へと向かった。




