第五十五話 自衛官花藤廉也
自衛隊稚内分屯基地。
ここは日本で最も北にある自衛隊施設だ。
かつては陸自の尉官であり、レンジャー教官として二尉に昇進し一尉への昇進も約束されその後は高卒ながら准佐官にまでが視野に入っていた叩き上げのエリート自衛官、花藤廉也がなぜ日本最北端の分屯基地にいるのかを知る者はここにはいない。
いや、それ以前に花藤が何者なのかを知る者すら、ここにはいないだろう。
ここ稚内分屯基地には陸海空、3つの自衛隊が所在しているが実行部隊が配備されているわけではなく港も空港もない。空自のヘリポートがあるくらいだ。
主な役割はレーダーによる監視。この日本最北端の自衛隊分屯基地が北からの脅威に常に厳しく目を光らせているのだ。
そんな分屯基地の奥の奥にある一つの小さな倉庫。花藤のためだけに用意された小さな箱がある。
陸上自衛隊北部方面隊第7師団第11普通科連隊第7後方支援連隊第2整備大隊普通科直接支援中隊付稚内分屯基地整備部。この肩書を持つものは自衛隊の中でも花藤ただ一人であり、この倉庫に足を運ぶのは花藤ただ一人だけだ。
小さな倉庫にいくつかの金属製のラックが置かれてはいるがそこには廃棄されるはずだった制服や長靴、鉄帽が置かれているだけだ。
花藤の任務はこれらの管理。
増えることもなく減ることもないそれらを来る日も来る日もチェックすることが花藤に与えられた任務だ。
もちろん全く意味のない任務だ。誰かが捨てるはずだった長靴や制服がラックを飾り付ける程度に集められ、蓋をするかのように花藤が据え置かれたと言うわけだ。
窓際どころの話ではなく、もちろんコレは嫌がらせ以外の何物でもない。
これは大震災への派遣中に遺体を抱き浮かべた笑みを撮られた男が自衛隊を去るまで続くであろう懲罰だ。
花藤はかつて鉄仮面と恐れられた鬼のレンジャー教官だった。
レンジャーと言うと映画に出てくるグリーンベレーやシールズのような特殊精鋭部隊を思い浮かべるかもしれないが、自衛隊にはレンジャーのみで構成された小隊があるにはあるが、それを除けばレンジャーとはただの資格だ。
運転免許で例えるなら一般の自衛隊員が普通免許であるなら、レンジャー隊員は大型免許取得者といったところか。
だがレンジャーの資格を有したところで特別な手当が付いたり、待遇が良くなったりすることはない。
レンジャー課程を終了した者は胸にレンジャー徽章を付ける。それのみだ。
大型免許が必要になる時、すなわちレンジャーの資格が必要になる時、それは有事の時だ。
自衛隊員がレンジャーを志す理由は様々だが過酷な訓練をこなしレンジャーの資格を得てその胸にレンジャー徽章を付けた者達の想いはほぼ同じだ。
それは日本を守るという想いだ。なにも有事ばかりを想定しているわけではない、災害救助などで自衛隊に要請がくればレンジャーがまっさきに派遣される。
花藤も最初は腕試しのつもりでレンジャーに志願した。素養試験は自衛官ならばさほど問題にはならないだろう。強いて言えば問題は視覚周りくらいのものだろう。
素養試験をクリアすると11週間に及ぶ教育課程が始まる。
バディと呼ばれる二人一組を作り教育課程の前半は徹底的な基礎体力訓練とロープの懸垂降下などの基礎技術訓練だ。
花藤のバディはここで脱落した。
仮にも訓練を積んできた自衛官が志を抱き挑戦してきているにも関わらず心折れるほどの訓練ではある。
その後の訓練後半は実践を想定し、より専門的な技術や戦略を学んでいく。
最後には総重量40キロを超える装備を身に着け100キロを超える距離を不眠不休で踏破するという訓練がある。
花藤の二人目のバディはここで脱落した。
花藤はといえば1度目の挑戦で難なくレンジャー徽章を手にした。
花藤の正直な感想は、思ったほどのことではなかったというところだ。
もちろん間違っても楽ではなかったが。
よく自衛隊のレンジャーと米海軍のシールズ養成課程バッズのどちらが過酷かと聞かれる。
それはハッキリ言ってバッズの方が過酷だろう。
レンジャーの教育課程をクリアしレンジャー徽章を胸に付けているのは全陸上自衛官15万人のうちの約8%ほどもいるが米海軍40万人のうちシールズは1万人に満たない。つまり3%以下だ。
もちろんそれは単純に比較できるものではない。
自衛隊のレンジャーはあくまでも教育課程でありその先は無いが、バッズはシールズへの入門資格でしかない。
レンジャー教育課程の門戸を叩くための素養試験とバッズの入門の体力審査テストを見るだけでも大きく違う。
一例をあげるとレンジャー教育課程に進むための素養試験は腕立て腹筋が25回以上、懸垂が7回となっているが、バッズの場合は、腹筋腕立ては50回以上、懸垂は10回以上だ。
レンジャー教育課程は11週間に対しバッズは24週間。
レンジャーの教育課程で花藤のバディが二人脱落したのはどちらも肉体的な故障によるものだ。一人目は腰の故障、二人目は足の骨折だった。
だがバッズはまず最初の審査だけで約2割が弾かれヘルウィークと言われる基礎体力増強訓練で約7割が脱落する。もちろん肉体的故障による脱落者は少なくはないが、自己申告による脱落者も少なくはない。
もちろん花藤がバッズの訓練を受けたうえでの評価ではない。
バッズの試練を受けていない花藤が思うのは陸上自衛隊のレンジャーと米海軍のシールズとの違いだ。
それは日本とアメリカという国の違いである。
専守防衛という制約を受ける日本ではシールズのような攻撃部隊は持てないのだ。いや、持ってはいけないのだ。
将棋で言えばシールズは攻撃の為の飛車角であるがレンジャーは日本という王将を守るための金銀なのだ。日本のレンジャーと米国のシールズのどちらが優秀かという話ではなく飛車角で攻撃する米国と、金銀で防衛する日本の違いでありそれは一概には比較できないのだ。
花藤は日本という国で特に優秀な金将と成り、今はその笑みの一つで歩以下の存在と落ちたというだけだ。
鉄仮面。
そうあだ名されたレンジャー教官の花藤の下に付いた候補生は叩き落されると恐れられた。事実、花藤の下では怪我以外での脱落者が多かった。だがレンジャー課程の最終関門、数十キロの重さの装備を纏い数十キロの道なき道を突き進み、誰よりも早くレンジャー課程の最終試験を終えて歓喜の笑みを浮かべるのは花藤の下にいた訓練生だった。
そしていざ有事と成ればそういったレンジャー隊員が先頭に立って日本を防衛するのだ。
実戦経験の無い自衛隊が有事の際にどこまで役に立つというのかという意見があるのは当然のことながら花藤も知っている。実戦経験ならば海上自衛隊には掃海任務の経験がある。
しかし戦闘経験となるとそれを経験した者は自衛隊には一人もいない。海保と北朝鮮の工作船とのあいだで戦闘行為があったくらいだ。
花藤自身、銃口を人に向けたことが無ければ、人に向けられたこともない。
有事の際に自衛官は戦闘に向かえるのか?銃口を人に向けその引き金を引けるのか?
花藤は思う。少なくとも俺は撃てる。
日本の自衛隊はいまだかつて日本の為にただの一人も殺傷したことは無い。だが自衛官は日本人の中で誰よりも多くの死を見てきたのだ。
あの日、花藤はどこまでも続く茶色の泥に覆われた世界で数える気も起きないほど多くの死を見たのだ。
花藤は撃つ。銃口を敵に向けその命を奪うために引き金を引く覚悟がある。
自分が撃たなければ、敵を殺さねば自分の後ろにあの地獄が広がるのだと思えば、それを成すであろう敵を殺すことが出来る。
もちろん懸念はある。自分のような前線に立つ者にその覚悟があったとしても、それを指揮する立場にある者達に果たしてその覚悟があるかどうか。
部隊を指揮する自衛隊幹部連中が「敵を殺してこい」と命令を下す覚悟があるかどうかだ。
花藤はかつて尉官まで昇進した。しかし部隊を指揮するのはさらに上の佐官クラスだ。
普通の会社で例えるなら尉官は課長クラス。現場の営業職や事務職を直接指揮する立場だが、佐官は部長クラスだ。課や部といった部隊を指揮するのだ。
尉官が指揮するのは中隊規模まででそれ以上の大隊、連隊を指揮するのは佐官クラスだ。
花藤はその佐官に呼び出され、笑みを浮かべる自身の写真を見せられた。
弁明しろとそいつは言った。
だが花藤はただの一言も発しなかった。泥に汚れたことの無い長靴を履く者に何を言っても無駄だ、あの地獄へと足を踏み入れた者にしか花藤が犠牲者を抱き微笑んだ意味は分からないだろう。
花藤は各地をたらい回しにされたが決して逃げなかった。自衛隊にしがみ付き続けた。
どのような嫌がらせも惨めな仕打ちも通用しないと諦めた幹部連中は花藤を日本最北端の稚内分屯基地へと押し込めたのだ。
鉄仮面の部下たちは実に優秀で花藤を庇い立てるものは一人もいなかった。
花藤は今日もラックに積まれたゴミを数えメモしファイルに閉じた。数年前ならばファイルの不備を指摘して除隊を迫られただろうが今ではその心配もない。ここには誰も来ない。
花藤は凍るようなコンクリートの床に手をつき時間の許す限り腕立て伏せを始めた。
身体を鍛える時間はいくらでもある。そして道具も。
床と壁があればトレーニングには十分だ。
15分も経つと上半身から湯気が立ち始めた。膝をいたわる様に軽く屈伸運動を繰り返したらスクワットを始める。屈み立ち上がりワンツーとパンチを放つ。また屈み立ち上がりワンツーアッパー。そしてまた屈む。
かつては鉄仮面と恐れられたレンジャー教官。部下と喜びを共有する笑みも、部下を嘲る笑みも持たずただ冷酷に「去れ」とだけ告げる男。鉄仮面、花藤廉也。
そんな男が浮かべた笑みは大震災の犠牲者に向けられていたのだ。
シャドースクワットを15分こなすと全身から湯気が立ち上っていた。暖房を作動させた。
汗ばむ身体には冬の北海道の冷気が心地よいが二分も経てば汗に濡れた身体が凍り付き始めるのだ。
タオルで丹念に汗を拭き取りジャンパーを羽織ると椅子に付いた。
花藤は大きく息を吐いた。身体は頑強そのもので自衛隊のレンジャーとしていざという時は銃を手にする気概はある。その気概だけでどれほど冷遇されても自衛隊にしがみ付いてきた。だがもう46歳だ。
いや、年齢は関係ない。花藤が最近抱くようになった恐れ。それは除隊願を手に事務方に出向いても「誰だお前は?」と言われるのではないかという恐れだ。もちろんそんなことは出来るはずがない。
本人に何も告げずに除隊処分などできるわけがない。
だが・・。
朝から晩までこの冷たい倉庫の中で一人でいるのだ。もう何年だろうか?まともに人と会話したのはいつの事だろうか?俺がここにいると知っている者はいるのだろうか?
先日、倉庫のドアがノックされた。風で折れた氷柱がドアに当たったのかと思い放っておいたがドアはまたノックされた。キツツキか何かがドアを叩いているのかと思った。そんな訳はないと思いつつも「人が叩いているのだ」という当たり前の考えが浮かばなかった。
「開けるぞ」という声と共にドアが勝手に開いた。
そこにいたのは分屯基地の陸自方隊長の伊木二佐だった。
伊木二佐は言った「花藤、お前東京出身だそうだな。ちょっと練馬の駐屯地へ使いを頼めるか。なあ、向こうに家族がいるんだろう。たまにはどうだ、四日とる。ゆっくりしてこないか」
花藤は無表情で頷き、伊木二佐は出向日はお前が決めていいからなと言い倉庫を去って行った。
花藤は呆けるように閉められたドアを見つめ幽霊と会話したかのようにボーっとしていた。
そして両手で顔を覆って泣いた。どれほどつらい訓練でも、レンジャーの教育課程でバディが脱落しても、教官として部下を追い落としても泣くことの無かった鉄仮面がほんの一言二言話しかけられただけで号泣した。
伊木二佐の行動は花藤をあまりに哀れと思ったのか、除隊を促す一撃だったのかはわからない。
だが花藤はドアをノックするのは人だと思いもつかないほどに病んでいたのだ。
花藤は向かう事になる。
殺人鬼どもが蠢く魔都、東京へと。




