第五十三話 芬达鶏肉
岸はパーキングに止められたトラックの横で文庫本のフランキーマシーンの冬を片手に電子タバコを咥えていた。
ドンウィンズロウは最高だ。
岸は面白そうな題名の本を手にし、背表紙にわずかに書かれているあらすじや作者のプロフィールなどを見て買うかどうか、時間を費やす価値があるかどうかを思い悩むことはあるがドンウィンズロウだけは別だ。文庫本であろうがハードカバーであろうが背に「ドンウィンズロウ」と書かれていてその題名が見たことが無いものなら何一つ悩まずにそれを手にしレジへと向かう。
なぜならドンウィンズロウは最高だからだ。そしてこのフランキーマシンの冬。これはまだ半分も読み進めてはいないが間違いなくドンウィンズロウの最高傑作だと分かる。
The Power of the Dogのようなシリアスなヤツも良いがやはりドンウィンズロウはボクシングよりサーフィンが良い。
岸は今、後藤の奴がスーパーマーケットに買い物に出ているのを待っているのだ。
フランキーマシーンの冬を何回かめくったところで買い物袋を手にした後藤の奴が戻ってきた。
岸はすぐにトラックの助手席へと乗り込み、後藤も運転席に座りすぐにトラックを走らせた。
それを物陰から見つめる男が一人いた。
岸には後藤が買ってきた袋の中身は想像がつく。豚肉のロースかヒレ肉のブロックだろう。
後藤の奴は晩飯となると本当に空気が読めない奴だ。
後藤の作る飯は美味いんだけどな、美味いんだが・・・。
二人はエビス屋に帰りつき岸は自室へとこもり後藤はキッチンへと向かう。
後藤は直ぐに炊飯ジャーを開け釜を取り出し白米を研ぎ炊飯ジャーに収め直す。
後は30分ほど暇だ。
手持ち無沙汰にスマホを取り出すと通知が来ていた。
「この通知は?」後藤が口に出すとキッチンのスピーカーが答える。
「トレーサーが反応しました。時刻は4時56分です」
トレーサー?あのチンピラか。あれほど脅したのにまだ絡んできたのか。後藤は少し驚いた。左手の指を全て折ってやりスマホのロックを無効にしてやったのにな。
まあ痛みを恐怖や後悔ではなく怒りに変換する奴は多い。あのチンピラはそのたぐいだというのはわかっていたから変換できないほどの苦痛を与えてやったつもりだったのだが。
後藤は引き出しからスマートグラスと操作用のリストバンドを取り出し装着した。
「トレーサーが反応したところを」後藤がそう言うとスマートグラスに地図が映し出された。
それは先ほど後藤が買い物をしていたスーパーマーケットだった。
「カメラのハックを」後藤が言うと地図の上に付近の防犯カメラやスマホの位置が表示された。
もちろん、あのチンピラが偶然にも近くにいたという可能性はある。まさかとは思うが。
後藤は指で自身の太腿を掻きカーソルを移動させ、トレーサーが反応した場所に合わせ人差し指で太腿をを二回タップした。すぐに男の顔が映った。
マジかよ、こっちのチビかよ。
後藤が驚いたのも無理はない。後藤はてっきり指を折ってやった方かと思っていたのだが、スマートグラスに映し出されたのは指を五本折ってやった男ではなく、岸に首を殴られて泣きそうになっていた方だったからだ。
チビはスマホを掲げて、パーキングに止められたトラックの横で文庫本を片手に電子タバコを咥えている岸を撮影していたのだ。
そして俺がスーパーマーケットから買い物を終え出ているのを待っているのだろう。
「トレーサーの位置情報を」後藤はそう言って人差し指と親指を擦り始めた。
後藤が見るスマートグラスに小田の位置情報の推移が再生され始めた。
サヴァイバーである俺には全てが見える。この小田とか言う馬鹿がいつどこで何をしていたのかすべて見える。
チビはスマホを掲げて俺と岸を映していたのか。ご丁寧に自分の顔の前に掲げているのでフロントカメラの映像でしっかりとご尊顔が映っているぜ。
小田の位置は変わらなかった。しかし後藤が指を擦り続け5分10分と時間を進めると小田の位置を示すポイントは移動を始めた。ポイントは新大橋通りを進み三つ目通りを曲がった。定期的にポイントが停止するのはバスに乗っているのだろう。貧乏くさい野郎だ。
後藤はもう一台のトレーサーである崎谷とか言う左手がロボットハンドみたいになったチンピラが合流するのを待った。
時間を更に進めると小田のポイントは停止した。小田かロボットハンドのねぐらだろう。しかし小田を示すポイントにもう一つのポイントが重なることは無かった。ここは小田の自宅という事なのだろう。
後藤は指を止め、テーブルの上に手を出し人差し指を二回タップすると仮想キーボードが表示される。
小田のスマホをハッキングするコマンドを打ち込み動作履歴を表示させた。
俺達を盗撮したあとに電源を切り、そして帰宅するまでスマホを操作していない。多少は用心深いようだがサヴァイバーである俺の前ではスマホの電源を切っても無駄だ。電源を切ったと思ってもそれはただ画面が真っ暗になるだけの話だ、位置情報は常に記録されている。しかもそれはGPSなどという不確かなものではない。携帯電波の基地局や周辺のwifiステーションから1メートル以下の誤差で確認できるし、今や誰もが所持しているスマホからの相互観測で小田の位置は数ミリ単位で確認できる。
バスにでも乗ればその座席の位置からスマホをポケットに入れているのか手に持っているのかまで確認できる。
後藤は今度は指を逆に擦り始め時間を逆行させた。小田のポイントは来た道を戻り始めスーパーマーケットまで戻った。さらに指を擦ると小田のポイントは自宅へと戻った。
後藤はまた人差し指で二回タップし仮想キーボードに直接時刻を入力した。崎谷の手をロボットハンドにしてやった時刻までだ。
再び指を擦り時間を進めていく。徒歩なのだろう、二つのポイントはゆっくりと移動している。途中二度ほど止まったが突然二つのポイントは消えた。
後藤は慎重に指を逆に擦り二つのポイントが消えた場所を確認し、今度は二本の指を拡げ地図をピンチアウトさせた。
ネストだ。
サヴァイバーである後藤でも目も手も及ばない場所はいくつかある。
その一つがMAEVEだ。銀龍という男とシルドラと言う女が支配する場所。拳銃使いの支配の及ばない場所だ。あそこには後藤でも手が出ない。そしてMAEVEの支店ともいうべき場所であるネストも同じだ。もちろん後藤もそこには入ることは出来るがそれは客としてだ、そこに来た他の客の素性や情報を得ることは難しい。
後藤は両手を組んで考える。あのチンピラ二人はネストに出入りできるような奴らじゃない。
だとするとあの二人をネストに入るのを許可したか、呼び寄せた奴がいるはずだ。
それはもちろん、ハッカーズだ。やはりあの二人はハッカーズに頼まれ俺達に絡んできたんだ。いや俺達ではなく岸にか。ネストに出入りできるのはハッカーズでもそれなりに高位にあるはずだ。そしてそいつは一般人を手駒に使うイカれた奴という事だ。
後藤は再び指を擦り始めた。
ネストからポイントが出て移動を始めた。しかしそれは一つだけ、小田の物だった。
そうか、ロボットハンドは殺されたか。
後藤はフッと軽く笑ったが次の敵はちょっと厄介だな、と心に留め置いた。
米を研いでからすでに30分経っていた。
後藤は炊飯ジャーのボタンを押して晩ごはんの支度にとりかかった。
小鍋に水を張り火にかけてからレジ袋の中身をキッチンに並べ出しオレンジジュースを取り出し鍋にあけてそこに中華出汁にオイスターソースを入れ火にかけた。
鶏胸肉を取り出し一口大に切り分けてからオレンジジュースで満たされた鍋に鶏胸肉を放り込む。オレンジジュースが沸騰してから数分間待ち、火を止める。
冷蔵庫から鶏卵と天婦羅粉を取り出しボウルに入れ、そこに顆粒の鶏ガラスープにガーリックパウダーを入れてかき混ぜ衣を作る。
小鍋を取りだし水を入れコンロに置き、さらに鈍器になりそうなほどに重い鋳造フライパンを取り出しコンロに置き油をたっぷりと入れて火を点ける。
忙しくなってきた。
冷蔵庫からキャベツとニラ、それにモヤシにエリンギを取り出しニラを切り分けキャベツはニラと同じくらいの幅の太千切りにしておく。エリンギはもやしと同じくらいの太さに切っていく。
ボウルに鶏卵を二つ割りかき混ぜておく。
小鍋の水が沸いたら中華出汁とオイスターソースを入れ水溶き片栗粉を回し入れる。
オレンジジュースで煮た鶏肉をザルにあけ少しばかり振ってから衣を付けて揚げる。
別のフライパンをコンロにかけファンタのミニ缶をそこにあけ中華出汁を振り煮詰めていく。醤油も入れたいところだがなるべく色は綺麗なままにしておきたい。
小鍋が再び沸騰したら溶き卵を静かに注ぎ入れたらネギの青い部分を刻みそこに散らし入れる。
ピーマンを乱切りにし、ニンジンは薄く切っておく。
鶏肉の衣が固まり色づいてきたらバットにあけ、代わりにニンジンとピーマンを入れ素揚げしていく。
同時に中華鍋を火にかける。火力はもちろん5だ。ごま油を引くとたちまち白い煙が上がる。そこに豚バラ肉を入れ塊のままほぐさずに木べらで抑え込んで強く焼き目を付け裏返し再び押さえつけ焼き目をつけておく。豚バラの塊の両面にこんがりとカリっとしそうなほどの焼き目が付いたらバラ肉をほぐし塩コショウを振っておく。太千切りにしたキャベツを入れ軽く炒め合わせてから日本酒を足しもやしに切っておいたニラにエリンギを入れる。混ぜ炒めながら中華出汁に胡椒、ガーリックパウダーを入れ仕上げに醤油を少し鍋肌に垂らす。醤油のアルコール分を飛ばす分だけ炒め火を止め蓋をする。
「レンゾを呼んで」
後藤は一人そう言って揚げた鶏肉とピーマンにニンジンをファンタを煮詰めたフライパンに入れる。鶏肉の衣にファンタのソースが絡めばいい。軽く混ぜれば出来上がりだ。
冷蔵庫からタッパーを二つ取り出し小皿に甘酢に付けた生姜とミョウガを盛りつけていく。もう一つのタッパーから白出汁に付けたセロリを添える。
そこへ岸がキッチンのドアを開け入ってくる。
後藤は汁椀に卵スープをよそいた豚バラの肉野菜炒めとファンタチキンを皿に盛りテーブルに並べた。
岸が炊飯ジャーから飯をよそい、後藤も同じくする。岸は冷蔵庫からペットボトルの緑茶を取り出し後藤はコップに牛乳を注ぐ。
岸の前には肉野菜炒め、後藤の前にはファンタ味のチキンが置かれている。
岸くんは二日同じ物を連続で食べるのは嫌みたいだからね。
岸は手を合わせ軽く頭を下げて箸を手にした。
後藤のヤツが昨晩、太陽軒で食った橙汁炸肉を作るのは分かってはいた。それを今日も食うのは俺が嫌がるのと分かっていてわざわざこの野菜炒めを作ってくれたのか。さすがに少しだけ申し訳ない気もするが普通はそうだろ?二日連続で食べてもいいのはカレーくらいの物だろ?
岸はまず卵スープの入った汁椀を手にし箸を差し少しばかり啜ると直ぐに肉野菜炒めに箸を伸ばす。
旨い。お上品な感じはまるでなくまさにメシのオカズ、男の料理といった味付けだ。思わずもう一箸差し豚肉を摘まんでから飯を掻き込む。この肉野菜炒めの汁ごとメシにブッかけて食いたくなるがそういう食い方は後藤は嫌がる。「下品だ」と口に出したり眉をひそめるようなことはしないんだが後藤がそう言った食い方を嫌うってのは分かっている。
箸休めの生姜に箸を伸ばす。これも旨いがやや上品だ。ミョウガにも箸を差す。一本乗った鷹の爪を箸で避け少し茶色に漬かったセロリも口にする。もちろん旨い。丁度いい箸休めだがやはり上品だ。
セロリは鷹の爪でほんのわずかに辛味があるがもっと塩辛くて良いし、生姜とミョウガの甘酢漬けはもっと甘くていい。よく言えば上品、言い方は悪が少し物足りない。まあ旨いんだけどな。
しかし今日は卵スープに肉野菜炒めにこの箸休めか。後藤にしては少なめな品数だな。
そうなるとどうしても後藤の前に置かれたオレンジ色の皿が気になる。
俺の視線に気が付いたのか、後藤のヤツが言ってくる。
「これ?昨日の太一おじさんの料理を真似してみたんだ。味見してみる?」
後藤はわざわざ箸を逆さに持って一つ摘まみ上げると肉野菜炒めの上に乗せた。
そう言えば後藤は男のくせにこういったところを気にする奴だ。
後藤の作る晩飯で鍋が出ることは無い。スキ焼なんか今の時分には心惹かれるところではあるのだが後藤のヤツはスキ焼を作って皿に取り分けて出してくる。その理由は分かっている。
俺が鍋に箸を突っ込むからだ。後藤はこれ見よがしに鍋に菜箸を差すのだが俺がそれを使わずについ自分の箸を鍋に差すのが心底イヤなようだ。世の中には鍋を食い終えた後に椀に残った汁を鍋に戻して雑炊を作るような奴がいて、俺もその一人なんだが後藤にしてみればそんなことは狂気の沙汰なんだろう。
俺にしてみれば昨日太陽軒で食った料理を今日にまた作ってみる後藤の方がおかしな奴だと思うんだがな。
まあ食ってみるか。岸は肉野菜炒めの上に置かれた肉に箸を差した。
衣がしっかりと付いていてカリッとした食感が残っている。噛むと甘い汁が溢れ出してきた。
オレンジジュース?それにこれは鶏肉だ。柔らかくジューシーで昨日食べた橙汁炸肉とはだいぶ違うがどこか上品だ。
後藤がもっと食べる?と言った顔を向けるが小さく首を横に振って答えた。酒のつまみにはいいかもしれないがメシのオカズには少し物足りないし、後藤のオカズを奪うのは気が引ける。
岸は炊飯ジャーに残っていた飯も平らげると箸を置き両手を合わせた。
ペットボトルに残った緑茶を飲み干しゴミ箱に投げ入れ御馳走様とばかりに後藤に小さく頷きキッチンを出ようとするとまだ食事中の後藤が箸をこちらに向け嫌なことを言った。
「そうそう、昨日の二人が絡んできたよ」
「昨日の二人?」それが誰を差すのかは分かってはいるが(もしかして・・)と言う微かな希望には縋り付きたい。
「太陽軒に行った後にコインパーキングで絡んできたのがいたでしょ?あの二人だよ」
「そうか」岸は辛うじて返事をする。
なんてバカな奴らだ!後藤に指を折られ俺に首を殴られたというのにまだ付きまとってくるつもりか。
「デカい方はおそらく殺されてるけど、ちっちゃい方がオザキでスマホを向けてきていた。あの二人を仕向けたヤツがいるみたいだね」
「どうする?」
「うーん、まだどうしようもないよね。気を付けてね」
後藤のヤツはメシの時間になると本当に人が変わる。自分の事を「ぼく」と言い俺の事を「岸くん」と言う。
だが分かっている。男を吊り下げて殴る殺すのも女を切り刻んで優しい言葉をかけるのもすべて後藤なのだ。
そして後藤をそうした世界に引きずり込んだのは俺なのだ。この糞みたいなゲームに後藤を招いたのは俺なのだ。
「分かった」
岸は言ってキッチンを出た。
「岸くん本当に分かっているのかな、けっこう限界なんじゃないかな」
「限界だったらどうする?次を見つけるか。そんな奴がいればいいけどな」
「次とかそういう意味で言ったんじゃないよ」
「ならなんだよ、くだらねえ愚痴ならやめておけ」
「愚痴じゃなくて、なんていうかその・・フォローって言うかさ」
「フォローしたければお前がやれよ俺は御免だぜ。あと岸くんとか僕って言うのは止めろ」
「なんで、いいじゃない別にさ」
「よくねえ気持ち悪いんだよ、僕とか言うのは頭の潰れた女と乳繰り合ってる時だけにしろ」
「・・・・」
「あら逃げちまったよ。どうするよドラグ」
「これまで通りだ」
「そうか、まあいいけどなしっかり頼むぜ」
「ああ、後は頼むぞ」
キッチンには後藤しかいない。
「え?俺が皿洗いすんの?あの野郎!!冗談だろ!糞!」
後藤は一人ブツブツと文句を呟きながらも食器を洗い終えるとキッチンを出て自室へと戻った。
テーブルの上に置かれたタバコを手に取りそれがマルボロであることを確認すると引き出しを開けそこに放り込み代わりにクールブースト5を取り出し咥えるとベランダに出て火を点けた。
紫煙を燻らせながら小田と言う小者を使う相手の事を考えていた。
何も知らない一般人を使うのは便利な面もある。
自分で動くことなく安全に敵の情報を仕入れることが出来るのであればそれは確かに便利ではある。だがサヴァイバーである後藤もそしてハッカーズの連中も自分たちが大量殺人犯であるという事を誰かにでも知られたら即ゲームオーバーなのだ。
小田と言う男がネストに出入りしていた以上、少なくとも両者は顔を合わせているはずだ。
オレが小田を捕え拷問し相手の風貌を聞き出すのならまだいいだろう、伝聞では限度がある。
しかしオレが小田を警察に出頭させたら?適当な罪をでっちあげ小田を容疑者に仕立て上げることはそう難しいことではない。その時に「お前に指示を出したヤツを売ればお前の罪は軽くなる」と言い含めて小田の後ろにいる何者かを警察に売る様に仕向けたら?そいつは警察にマークされることになるわけだ。これは非常に危険だ。
今日のうちに小田を確保して半地下の作業室に入れることが出来ればよかったのだが、人の多いスーパーマーケットの前で堂々と一人の男を捕え拉致することは出来ないし、バスでの移動でもそうだ。それらは敵の指示だったのだろう。
後藤は今度の敵が小田を使ってきた理由を考える。
それは簡単だ、オレの顔を知りたかったのだろう。
もちろん狙いは岸の方だろうが、その隣にいるオレの情報を集めようとしていたのだ。小田は愚かにもスマホを自分の眼前に掲げてオレたちを撮影していたからフロントカメラにそのマヌケ面が映っていたわけだ。ネストに出入りできるほどのハッカーズであれば一般人のスマホを容易にハックできることなど当然知っているはずだ。
だが今度の敵は小田にオレを撮影するようには命じたがそこで気を付けるべき点、自分の顔の前でスマホを構えていたら相手に自己紹介しているようなものだぞと言う忠告はしていない。
つまり小田は使い捨てという事だ。小田はまたオレたちに近づいてくるだろうがそうと分かってはいてももう小田を殺すことは出来ない。敵はオレ達に使い捨ての駒の始末をさせるつもりだろうがそれだけではない、おそらく次に小田が来るときにはヤクの売人であるなどとタレコミされた上で警察にマークされた状態でやってくるだろう。それは殺しやすい人目の付かない夜間。そして手を下しやすい場所、エビス屋の近辺だ。
バカな奴だとオレ達が小田を始末したらそれを警官が見ているだろうし、仮に見ていなかったとしてもマークしていた容疑者が消えた現場を見逃すはずがない。
今度の敵は厄介だ、ネストに出入りできる様なヤツが岸を狙いその横にいるオレを警戒している。今までのようなやっと人を殺し慣れたようなヤツじゃあない、進んで人を殺そうとするやつだ。
そういったヤツが岸を狙っている。ネストに出入りできるレベルのヤツが受ける仕事では間違っても岸を何も知らない酒屋の店員だと思うことは無いだろうし、その隣にいるオレの事も同じだ。だからオレの事を少しでも知ろうと小田を使ってきた。
小田は厄介だがその扱いは難しい。放置するのはマズいが殺すわけにもいかない。
後藤は引き出しからスマートグラスとブレスレットを取り出し装着し、小田のスマホをハックした。
文面を打ち込み小田のスマホのフロントカメラの映像を映しだした。
天井が映っていた。小田のスマホの位置は分かるが本人に位置が分かるわけではない。風呂にでも入っていたら面倒だ。
後藤は小田のスマホを鳴らした。着信音ではなく、けたたましいビープ音だ。幸いにも小田はスマホを手にした。
小田の驚いた顔をがスマートグラスに映った。
「近寄るなと言ったはずだ」
後藤がそう告げると映像は勢いよくグルグルと回り、そして真っ暗になった。
「おい、投げるな。スマホを拾って顔を見せろ」
「なに!?なにこれ!?えぇ!?」
そうか、実際にスマホをハックして見せたのは崎谷とか言う威勢のいい方だけだったな、教えなかったのか。まあいい。
「いいからスマホを拾え、そして顔を見せろ。言っただろ、お前らのスマホはハックしてあると」
「うそ、だろ・・これなに?」
「なあ、時間の無駄だ。お前らがあの後にネストに行ったのは分かっている、オレ達に絡んでくるように命じた奴がそこにいたんだろ。で、そこで左手をロボットみたいにしてやった崎谷ってのは殺されたか?全部分かっている」
「あなたは?あの?」
「そうだ、お前らが絡んできた酒屋だ。お前が今日スーパーマーケットの前でオレ達を撮影していたのも、その後にご丁寧に電源を切ってバスに乗ったのも、もちろん今お前がどこにいるのかも分かっているからな」
小田は半口を開けてマヌケな顔でスマホを見つめている。画面が小刻みに揺れるのは震えているのだろう。
「おい、落ち着け。画面が揺れて気持ち悪いだろ、スマホを置け。顔が見えるようにだ」
「は、はい」
小田は怯え切っていて右に左にと視線を背けている。異常な状態のスマホを見るのが恐いのだろう。
「お前にも分かるように言ってやる。ネストにいたヤツにオレを撮影してくるように言われたんだろ?」
「・・・」小田は目をむいた驚いた顔をスマホに向けた。
「オレの質問には素直に答えた方が良いぞ。そいつは場所と時間も指定してきたし、その後にスマホの電源を切りバスで移動するようにも指示してきた。違うか?」
小田の目が更に大きく見開かれる。
「それはな、オレ達に気が付かれてもあそこでは手が出せないからだ。電源を切ったりバスに乗ったりは無駄だがな」
「手、手が出せない?」
「そう、殺せなってことだ、あの場ではな。だが警告を無視したお前はもう何時でも殺せる。今から行ってやってもいいが明日でも明後日でも、来週でも来月でもいい」
「待って!止めて!」小田はスマホに両手を向け震えているように小刻みに首を振った。
「お前は今、ネストにいたヤツに助けてもらおうと思っているだろう?止めておいた方が良いぞ、そいつは次に深夜に探ってこいと言うだろう、なぜだか分かるか?」
「え、えっと、見つからないように、ですか?」
「見つからないわけがないだろう、今のお前の居場所も分かっているんだぞ」
「じゃあ、なんで?」
「オレ達にお前を始末させるためだ。お前、ネストのヤツと会っただろう?そいつとオレ達は分かりやすく言えば敵同士、お前はその間に入り込んじまったわけだ。ヤツは顔を見られているお前をそのままにはしない。だからオレ達がお前を殺しやすい深夜に近寄る様に指示を出すだろうし、その時に警察を背後に付かせるだろうな」
「け、警察!?」
「ああ、お前がヤクのプッシャーだとか適当なタレコミを入れて警察の前でお前を殺させるつもりだろう」
「そ、そんな!助けてください!二度と近寄りません!本当です!」小田がスマホに顔を近づけて必死に訴えてきた。
「オレ達を撮影した動画か、写真かを送ったのか?」
「え、それは・・あの・・」小田はスマホから顔を逸らす。
「送ったのか、まあいい。お前はオレ達と向こうの両方から命を狙わているんだ」
「許してください!もう近寄ったりしません!本当です!止めて、死にたくない・・」とうとう小田は泣き出し始めた。
「ハッキリ教えてやる。オレ達は警告を無視したお前は許さないし、ネストの奴は顔を見られているお前を殺すだろう」
「やだやだ・・イヤです・・・死にたく・・・ないです」小田は跪きスマホを手に掲げるようにしてボロボロと涙を流し始めた。
「オレ達は無駄な殺しはしたくない、それはヤツも同じだろう。今すぐにスマホを壊して東京から去れ。そうすればお前は助かるかもしれないな」
「は、はい!はい!」小田がスマホを持ち上げたのだろう、画面が部屋の壁を映した。
「待て。お前がネストのヤツに連絡を取ったら次は深夜に向かうように言われるはずだ。その時はお前は何らかの容疑者として警察にマークされる。それでもオレ達はお前を殺すのは簡単だし、そこでお前がやっと自分のバカさ加減に逃げても警察からは逃れられないだろう。お前が選べる選択肢は三つだ。スマホを壊して今すぐ逃げるか、オレ達に殺されるか、警察に捕まるかだ。警察に捕まっても安心しない方が良いぞ、ヤツにしてみればむしろ殺しやすいからな。あとは好きにしろ」
「え?ええ!?どうすればいいですか!?」
「自分の命をどうするかくらい自分で選べ。ただスマホを壊すなら徹底的にやった方が良いぞ。画面が映らなくなったくらいではGPSも通信機能も生きているからな。あと一つ、スマホを壊してもオレ達はお前を探知できる。スマホを買い替えたり、デジカメにしても無駄だ」
後藤はそこまで言って人差し指を太腿に押し付けてから勢いよく振り通信を切った。
小田の後ろにいるヤツ。ネストに出入りできるヤツ。
そんなヤツが岸を狙い始めた。当然、岸の事を何も知らない一般人だとは思ってはいないだろう。そして岸の横にいるオレの事も同じだろう。
小田のヤツからオレと岸を撮影したデータを受け取っただろう。岸はともかくオレのデータを変更しておくことは可能だがすぐにバレる、下手なことはしない方が良い。
いよいよだ。後藤は漸くゲームのゴールが見え始めたことを感じる。漸く、あの女の敵に手が届くところまで来たのだ、ゲームのゴールはその先にある。




