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第五十一話 フラグ職人田中さん

田中は石垣島に向かう飛行機に乗り窓から外を見ていた。

小さな窓の外を見ると眼下には青い海がどこまでも広がっていた。

「すごい!ずっと海だよ!ほら!母さんも見てみなよ!」

田中は母に窓際の席を譲ろうとするが母は「いいのよ」と首を振った。

「カナは飛行機初めてでしょ?母さんは何度か乗ったことがあるからいいのよ。それに窓際は日差しが強いからね」

田中は少しホッとした。この凄い景色を母さんにも見て欲しかったが遠慮してくれたことに。

そう、遮るものが何もない飛行機の窓から差し込む日差しは確かに強かった。初めての飛行機での興奮なのか強い日差しのせいなのか、田中の顔は火照るようだった。

勢いよく流れていく電車の窓からの風景とは違い、飛行機の窓の外は時折雲が流れていくくらいの物で遥か眼下にどこまでも広がる海があるに過ぎず特段の変化はない。

だが田中はいつまでも窓から外を見ていた。

時折、田中が思い出したように振り返ると母は嬉しそうな笑顔を田中に向けた。

機内食が振舞われた。メインはトマトソースのかかったチキンステーキで、ボイルされた緑黄色野菜が添えられサラダにプリンまでついていた。

すごい!ごはんまで出てくるんだ!

赤いスカーフを巻いた上品な佇まいのスチュワーデスに「お飲み物は?」と聞かれ咄嗟に母に顔を向けた。

「いいわよ」と母がまたにっこりと微笑んだ。杉並の豪邸でも江東の団地でも田中はコーラを飲める機会は多くはなかった。だが母は許可してくれた、特別な日だから。

「コーラをください!」そう言う田中にスチュワーデスは「良かったね」と言う笑みを浮かべてプラスティックのカップにコーラを注ぎ、それを母が「はい、どうぞ」と微笑みと共に置いてくれた。

正直に言えば機内食は美味しいとは言えない物だった。杉並の豪邸に住んでいた頃に食べていた食事に比べたら。

だが田中にとってもは機内食はそれ以上の御馳走だった。生まれて初めて乗った飛行機の中で食べる食事は特別なものだった。ピラフと言うより洋風炊き込みご飯を温め直しただけの物にさえ興奮した。

「すごい美味しいよ!!」田中がそう言って母を見ると、母は田中が選んだチキンステーキではなくビーフシチューを選んでいた。しかし母はビーフシチューには手を付けずにフォークでブロッコリーを口に運び、パンにバターを塗って食べミネラルウォーターを飲んでいた。

母は「そう?良かったね。でも足りないんじゃない?」そう言って自分の前に置かれていたビーフシチューを田中の前に置いた。

「いいの!?」そう驚く田中に母はまたにっこりと微笑んだ。ビーフシチューも美味しかった。

母が「お野菜も食べるのよ」と言ってサラダにドレッシングをかけてくれた。

田中は二口ほどでサラダを食べ終えパンをビーフシチューに浸してから口にした。

「美味しいよ!母さんも浸けてみなよ!」

母は「そう、じゃあ少し貰っちゃおうかな」と言って手にしていたパンを田中の前に置かれたビーフシチューに浸けて口に運んだ。

「美味しいね」

「だよね!」

分かっている。母は田中に譲ったビーフシチューがやはり惜しくなったわけではない。それくらいは当時の田中にも分かる。

そして、今の田中は当時の母の気持ちが分かる。母は田中の喜びを共有することでまた田中を喜ばせようとしたのだ。


母は杉並の豪邸から所沢の別荘に逃げ、そして江東の団地に身を潜めた時にはまだいくつかの貴金属にドレスも持っていた。

授業参観の時に着てきて欲しかった青いドレス。ミルクキャンディーのように甘そうな真珠のネックレス。お姫様が着けそうな大きなダイヤモンドのペンダントの付いたネックレスに、金とプラチナのブレスレット。そしていくつかの指輪。

今の田中には分かる。母はもっと多くのアクセサリーを持っていた。だがその中でも特別な物だけを片手で持てる程度のいくつかを選んで杉並の豪邸を後にしたのだ。

だが母はそれらを見せつけるように身に着けることはなく、いつも大事そうに小さな箱にしまっていた。

その中でも母がいつも身に着けていたものと言えば大きなサファイアのはめ込まれた指輪だった。青く輝く小さな海のような指輪はいつも左手の薬指にはめられていた。

そこが母の女性の部分だったのだろう。


中学生だった田中は南国を堪能した。母はあまりに強い日差しに辟易し、突然のスコールに驚いていたが田中はそれら全てが楽しかった。母が運転するレンタカーで島内をめぐり島の北にあった灯台から見る海は母のあの青いドレスのように綺麗だった。

だがあのドレスはもうタンスにはなかった。そして母が大事そうにしていた箱の中身は空っぽだった。母は女性としてのそれらを一つづつ捨て去り、金に換え田中に与えていたのだ。そして母が最後まで大事にしていたサファイアのはめ込まれた指輪が左手の薬指から無くなっていたことに田中が気が付いたのは石垣島から帰りさらに数年の後だった。

だからこそ田中は公立高校へと進学し警察官としての道を選んだのだ。大学への進学などはなから考えてはいなかった。


ピーピーと騒ぎ立てるスマホのアラームで田中は目を覚ました。

母の夢を見ていた。時折見る母と行った石垣島の夢。

現実の母は今、フランスにいる。スマホを手にすると今日はルーブル美術館に行く予定のはずの母からメールが来ていた。

「今日からフランスです。チーズとパンが本当に美味しいです。次は一緒に来ましょうね」

すぐに返事を送ろうとしたが今ここでメールのやり取りをする時間はあまりない。

「おはよう、今から家を出るところです」長々とメールのやり取りをする時間はないとでもいうかのような端的な返事をすることに少しの罪悪感を覚えたが時差を考えると母はこれから眠りにつくところだろうと自分を納得させた。


田中はベッドから降りてキッチンへと向かうとトースターに二枚の食パンを放りタイマーを捻るとシンクで寝起きの顔を洗った。一つ大きな欠伸をしキッチンペーパーで濡れた顔を拭ったところでトースターがチーンと「これ以上は焦げるぞ」と鳴った。

トースターの中の一枚にはスライスチーズを乗せ、もう一枚は取り出しバターを塗りたくってから更にイチゴジャムを乗せた。

バタージャムトーストにかぶりつきながらカップを置き冷蔵庫から牛乳パックを取り出し注いだ。バターの塩味とジャムの甘さの乗ったトーストを牛乳で流し込みながら冷蔵庫からトマトを取り出す。バタージャムトーストと牛乳を胃に流し込んだ後はトースターの中でチーズがいい具合に溶けたチーズトーストを取り出す。

チーズトーストをかじり、トマトにかぶりつく。胃の中に入れば同じだなどと言うつもりはないが口の中で噛めば同じようなものだ。

だが田中は思わず瑠衣が作ってくれたサンドウィッチを思い出す。スクランブルエッグとまではいかなくともハムくらいは焼いておけばよかった。

田中は雑な朝食を終え洗面台の前に立ちもう一度顔を洗い丁寧に歯を磨き髭を剃りワックスで髪を整えた。

鏡の前で首を振り出来栄えを確認した。問題ない。ノンアルコールの洗口液を口に含み口中をすすぎスーツに着替え家を出た。


交番勤務であっても直接交番へと出向くわけではない。まずは所轄署へと「出勤」する。署でスーツから警察官としての制服へと着替え朝礼を受けてから派出所へと向かうわけだ。

田中はいつものように隅田川署へと向かい制服へと着替えた。しかし今日は派出所ではなく署長室へと向かった。

しかし一介の交番勤務のハコ長がそのまま署長室のドアを叩くことは出来ない。他の所轄ではどうなのかは知らないし、高橋新署長以前の隅田川署がどうだったのかも知らないが少なくとも今現在の隅田川署では署長室のドアをくぐるためには署長秘書に取り次いでもらう必要がある。

「署長に進言したいことがあるのですが」田中は秘書に言った。

「どのような?」秘書は田中とは目も合わさずに言う。ここ隅田川署のトップである高橋署長に仕える秘書からすれば見覚えのない制服警官である、つまりは交番勤務である田中に対しあからさまに見下すような態度だ。

そうは捉えても田中はそんな雰囲気はおくびにも出さずに丁寧に答える。

「山井那奈と言う失踪女性の捜査に関する事なのですが」

秘書が内線の電話をかける。

しまった!と田中は思った。

高橋署長に山井那奈の捜査を一課に移すように進言する算段は付けていた。高橋署長が渋ったら渡部との密約をほのめかすつもりだった。「八つ目」と呼ばれていた渡部が「逃がし」と揶揄されることになった一件の事だ。いや二件か。

だが田中は「会わない」という当然の選択までは考えていなかった。

秘書越しに「逃がし」の一件をほのめかすわけにはいかない。一課の渡部を介しておけば確実だったのだろうが今ここで三人が顔を合わせるのは非常にマズいだろう。当然渡部が首を縦に振ることもないはずだ。

どうする?何かカードはあるか?

だが秘書は内線電話で一言二言署長と話し、許可を得たのだろう、交番勤務の万年巡査部長に初めて顔を上げて「どうぞ」と告げた。


助かった。だが意外だった。田中の高橋新署長に対する印象は一言で言うなら良い家柄のボンボンと言った物だった。もちろん話したことはないし就任式の挨拶の時に顔を見たくらいのものだが、あの後に渡部に誘われた風神での話。父親は検察庁で兄は警察庁というキャリア一家。もちろん田中もその後に高橋新署長の経歴を調べ上げている。一流の私立高校を経てもちろん東大へと進学。敷かれたレールの上を走りこれからもそこから外れることはないのだろう。

そんなエリートが人には漏らせない密約があるとはいえ朝っぱらからたかがハコヅメの万年巡査部長の為に時間を割くことに少しばかり驚いた。

田中は署長室のドアを開けた。


高橋署長は小柄な男だった。就任式の時はもう少し大きく見えたのだがそれはキャリアのエリートと言う威厳のせいだったのか。

高橋署長は所長らしい革張りの立派な椅子に座り肘を机に突き両手を組んで田中を見据えて待ち構えていた。

組んだ両手の人差し指で椅子を差した。すわれと言っているのだろう。

田中はまた意外だった。どうせ忙しそうに書類から目を離さずに田中の言葉を聞き流し適当に対応するのだろうと思っていた。

そこで埒が明かないようであれば例の密約をほのめかすつもりだったのだ。

だが高橋署長は口元を隠すよう両手を組みながらにハッキリと正面から田中を見据えていた。

田中は椅子に付いた。

「失踪女性の捜査に何か進言したいことがあるとか」

また意外な言葉だった。面倒ごとはさっさとすまそうというのか。

だが話が早い。

「ええ、女性の捜査を刑事課から捜査一課に移していただきたいのですが」

「君はたかが巡査部長のハコ長だろう。署の捜査方針に口を出せるとでも?」

あの両手で隠れた口元は笑っているのだろう。

「ただの進言です」

高橋署長は視線を落とし少し考え込んでから言った。

「なぜ?なにか情報でもあったのか?」

「いえ、捜査資料に目を通したのですが」

田中は通報してきた女性の身元を急いで確かめる必要があるという事、それについて刑事課が動いている様子が無いこと(これは田中の憶測で、端的に言えば嘘だ)それには一課の捜査権限を使った方が進展が早いのではないかという事を説明した。

高橋署長は、交番勤務の巡査部長がなぜそういった捜査資料に目を通すことが出来たのかなどとは聞かなかった。そのルートは分かり切っているからだ。そう、渡部から流されたのだろうという事を。

高橋署長は頭を下げ組んだ両手を額に当て考え込んだ。

しかしそれはほんの十数秒、すぐに顔を田中に向け言った。

「分かった。一課に移そう」

ボンボンかと思っていたが決断が速い。田中が署長室に入ってからまだ五分も経っていない間に田中の願いは叶った。

「ありがとうございます」

田中が礼を口にし頭を下げると高橋署長は初めて怪訝な表情を見せた。

「なぜ君が礼を言う?女性の関係者なのか?」

田中も驚いて田中署長を見返した。

鋭い。思わず返答に詰まる。

「どうした?」高橋署長がさらに詰める。

「いえ、それが。私の部下が、いえ元ですが。失踪した女性の友人、いや、親友なのです」

「その部下の名前は?」

「谷リュー巡査部長。交通機動隊の白バイ隊員です」

田中がよどみなく答えた事にとりあえずは納得したようだ、あとで調べればすぐにわかることなのだ。

「分かった、捜査は一課に移しておこう。捜査の進展は彼に聞けばいい」

彼と言うのはもちろん渡部警部補の事だろう。

「しかし、それは」まさか高橋署長の方からそんなことを言われるとは思ってもみなかった。

「かまわん、何かあったら彼に言え。些細な・・イヤ、言うまでもないな」

予想以上の話の速さと状況の好転に田中は驚かずにはいられなかった。

「どうした?彼にも伝えておく、予行演習のようなものだ」

予行演習。それが田中が次の昇進試験で警部補になり渡部のいる捜査一課に移ることを意味しているのは分かるが、今それを周りに見せるのが得策かどうか。

「他には?」

高橋署長の中ではもう話が終わっているようだ。

「いえ、ありません」

高橋署長は小さく二度頷くとまた人差し指を小さく立てた。

出て行け、と。


田中はどこか腑に落ちない気がするが山井那奈の捜査が一課に移り、その捜査状況にアクセスできるという結果に胸をなでおろし署長室を出た。


田中は今とても細い道を歩いている。

そしてその細道の先にはあの青い箱が蓋を開けて田中が落ちてくるのを待っている。

運命と言うもの、未来と言うもの。

人には本当に選択肢があるのだろうか。あるのかもしれないし無いのかもしれない。それは自分で選んだ未来なのか、運命に選ばされたものなのか。

田中は前に進むしかない。

田中は今、山井那奈と言う死の天使に手招かれ、後藤と言う死神が待つ青い箱に歩みを進めている。

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