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第四十八話 山井那奈には救いがない!

「リューさん、カッコよかったなあ・・」

那奈は一人呟いた。

もう何日寝ていないだろうか。那奈はもう眠ることが無くなっていた。

睡眠というのは休息であり癒しだ。

だが那奈にはもう癒しも休息もない。使い古されバッテリーの弱ったスマートフォンの電源がいつの間にかシャットダウンしているように気を失うだけだ。そして僅かに充電されるとまた人知れず起動する。

気絶していたというのは何となく分かる。組んでいたはずの腕や、膝に乗せていたはずの手がダラリと垂れているからだ。

気絶していたことは理解できてもどれほど気を失っていたのかはわからない。ほんの一瞬なのか数時間なのか。

しかしそれが例え数時間であったとしてもそこには癒しはなく休息でもない。

みんなわかっている、この女はもうすぐ死ぬ。


那奈は白バイの横に立ち敬礼する谷にスマホを向けていた。

普段はおしゃべりでイタズラ好きで少し意地悪なリューさんがピカピカの白バイの前で笑みのかけらも見せずに口を一文字にして敬礼している。時折、那奈を急かすように小さく頷いていた。

那奈は、共に出かけたりするとほんの些細なことだが何かしらのイタズラや意地悪を必ず仕掛けてくる谷にたまにはちょっと意地悪を返したくなり、わざとらしくスマホを傾けてみたり、少し横に移動したりした。そんなことをしていると直ぐに他の白バイ隊員たちがやってきて谷をからかい始める。

「普段と違い過ぎるから彼女も戸惑っているんじゃないか?」

「いつも俺に敬礼するときとずいぶん違うんじゃないか?」

早く!とばかりに谷がつま先で地面を叩く。それでも那奈は構図が悪いと言わんばかりに後ろに下がったりする。するとまた一人隊員が来た。

「おお、谷。友人か?妹みたいだな」

谷をからかっていた隊員たちの年齢は谷と同じくらいかそれより少し上といった感じだったが、この隊員は一回りほど上のようだ。

「隊長!ちょっとこいつら静かにさせてください!!」

思わず谷が隊長と呼んだ男性に振り向き苦情を上げると同時に那奈の手にしたスマホがフラッシュした。

「え!?」と谷が驚きの表情を那奈に向けた。

「撮ったの!?今の?なんで!なんでよ那奈ちゃん、酷い・・・」

「いくらでも撮れるだろ」と隊長が言うが谷は今にも泣きそうな表情だった。

「記念すべき一枚目なんですよ!?」

那奈は少しやりすぎたかと思いさすがに素直にスマホを谷に見せた。谷は多くの日本の若者と同じように信心深い方ではなかったが意外と験担ぎというかこういった「初物」にこだわるところがあった。

「もう撮ってましたよ」

谷がスマホを受け取るとそこには白バイの前で敬礼する凛とした谷が映っていた。

隊長が谷の肩越しにスマホを覗くと他の隊員も集まりスマホを覗き見ていった。隊員たちが先ほどまでのからかい口をひそめ次々と谷に祝いの言葉を送った。

「決まってるな谷」

「おめでとう!」

「これからもよろしくな!」

周りを囲む隊員たちの祝辞を受けて谷は感極まって涙を溜めた。

「馬子にも衣装ってやつだな」と隊長が締めくくった。


谷は白バイ隊員としての初勤務を終え那奈と祝杯を上げに居酒屋へと向かった。那奈はそこで何度となく聞いてきた谷のこれまでの苦労話や愚痴の聞き役となっていた。そして三杯目のビールジョッキを空けながら谷が言った。

「でもさあ、さすがに私も隊長の孫ってほど若くはないよねえ?」

谷は晴れて白バイ隊員になっていた。


あの日。那奈が田中部長の鼻から血を出させたあの日。田中部長が谷の意図を悟り苦い顔をしながら自転車にまたがり派出所を出て行ったあの日。


派出所を出る田中を見てついて行けばいいのか分からない那奈を両手に無料の晩ご飯を手に持つ谷が呼び止めた。

「那奈ちゃん、こっちこっち!」

理解の及ばない那奈に谷はちゃぶ台に料理を置きながら言った。

「部長は署に戻るから、ほらこっち!」そう言って那奈を呼んだ。

谷はちゃぶ台に置いた二皿に掛けられたラップを剥がしながら言う。

「部長はほら、もう退勤時間だからさ署に戻って色々面倒な手続きがあるのよ、今日は何があったとかあれこれね」

「それって・・・」と言いかける那奈を防ぐ様に谷は続けた。

「那奈ちゃんの事はないって!部長はバカみたい優しいんだからさ。とにかくね!那奈ちゃんはここでもうちょっと待ってればいいの!あ!ゴメンちょっと待ってて!」

そう言って谷は立ち上がり部屋を出て行った。

どうすればいいのか?那奈が考えている間に谷はすぐに戻ってきた。手には醤油のボトルがあった。

「私、ラー油苦手なのよねー」そう言って谷は出前の餃子に醤油を垂らした。

「那奈ちゃんは餃子にはお酢とかラー油をかける派?私は醤油だけかな!」

「あの、部長さんは・・・」

「え?部長?だから部長は署に戻って退勤の手続きをするの!それが終わったら那奈ちゃんを送ってくれるからもう少し待っててね!」

那奈は今日の勤務を終えた田中部長がこのまま那奈を送ってくれると思っていたのだがどうやら違うようだ。

「ああ、那奈ちゃん。お巡りさんはハコに・・・あのね、派出所に直接出勤するんじゃないのよ。まず署にいくのね。そこで制服に着替えて朝礼とかを受けてから派出所に来るの。で、帰る時もまず署に戻って色々と報告して色々と書類を書いてから帰るってわけ。地方の警察署とかは知らないけど、ここ隅田川署ではそうなの。大丈夫、ほら署までは二キロも離れていないしすぐに戻ってきて送ってくれるから。ね?」

「え?わざわざ戻ってきてくれるんですか?」

那奈が申し訳なさそうに言うと谷はそれに気にも留めないかのように箸で餃子を一つまみし言った。

「そう、だからもう少し待っててね!10分か15分か。まあ20分はかからないと思うよ。ね?那奈ちゃん太陽軒って知ってるでしょ?地元だもんね!ねえねえ那奈ちゃんは太陽軒よく行く?私はこのハコで晩ごはんを頼むときはいっつも太陽軒なの」

「私は、まあママと出前をたまに頼むくらいです・・」

那奈はどうしても田中部長の事が気になるのだが谷はそんなことはお構いなしに餃子をつまみ天津飯をレンゲで掬っていく。

「那奈ちゃんはいつも何頼むの?私はねこのベジ餃子は外せないかなあ。これってあのケイちゃん・・あの子知ってるよね?台湾の女の子!あの子が考えたらしいよ!ベジ餃子って言うからてっきり肉無しの餃子かと思っていたのにちゃんとお肉は入っているし(あれ?)って思ったらニン「ニク」抜きって意味なんだって。ケイちゃんそこを違いしていたいみたい。あの子さあいっつもカタコトで話すけど実はもう日本語ペラペラなんだよね。知ってた?お店でさあわざとカタコトで話しているとチップを一杯もらえるんだって!なんか出入りの酒屋さんにアドバイスされたみたい。ね、今度一緒にご飯食べに行こうよ、どこかおススメある?ワタシさ、最近の流行りのお店?あんまり知らないんだよね。那奈ちゃんはOLさんでしょ?9時5時?ねえ行こうよーこんな仕事しているとさー周り男ばっかりじゃない?そう言う事に疎くなっちゃってさあ。太陽軒とかお蕎麦屋さんしか知らないってヤバいじゃん?なんかこう、美味しいのとかさ那奈ちゃん詳しいんじゃない?どう?」

「あのー、リューさんは・・・」那奈は谷がレンゲで掬った天津飯を口に運んだ瞬間にようやく口をはさむことが出来た。

「ん?はに?」谷がモグモグと口を動かしながら答えた。

「白バイ隊員になりたいんですよね?」

「うん!絶対なる!そのために警察官になったんだからね!」

「その理由とかって、あるんですか?」

「うん、もちろん。憧れの人がいるの」

谷はそう言ってレンゲを置いて語り始めた。


私ね、高校のときから渋谷に行き始めたけど、大学の時はもう毎日渋谷だった。

渋谷って街が好きで渋谷にいる自分が好きだった。

気が付いたら正義の味方の真似事をしていてさ、何かと頼られるようになってた。

調子に乗っていたんだと思う。自分がみんなを助けているんだってね、勘違いしていた。

ある日ね、変なオッサンに腕を掴まれて引きずられていく女の子がいたの。女の子は泣いていてさ、それでもオッサンは構わず引きずっていった。ワタシはもちろん止めた。

「いい年したオッサンが何やってんだ!」ってさ。

「なんだぁテメエ・・・」そう言って振り返ったオッサンの胸元には金バッジが光っていてその下には入れ墨がびっしり入っていた。ワタシの後ろには富樫ってチンピラがいたから大抵のヤツは私の顔を見ると逃げて行ったんだけど、ヤクザは違った。別にワタシに手を出すような真似をするわけでもない。脅すような事を言うわけでもない、ただ睨んできただけ。それで十分だった。ワタシはそこで初めて自分が偉そうにしてきたのは富樫ってチンピラがいたからだったってことに気がついたの。でもワタシはそこで頭を下げて逃げるほど賢いわけでもなかった。震えながらさ、その子を放せってイキがってた。

ヤクザはそんな私を鼻で笑った。お前に何ができる?ってね、出来るもんならやってみろって笑っていた。ワタシは出来もしないくせに、どうにかできる力もないくせに逃げもせずにヤクザのオッサンを必死に睨んでいた。

そこにね、ヤクザのオッサンの遥か後ろに一台の白バイが来た。たまたまだろうね。

ワタシは必死にその白バイ隊員を見た。助けて!って。だけどヤクザのオッサンは私に手を上げていたわけでもない、ただ可哀相な女の子の腕をつかんでいただけ。ワタシは声を上げることもなく必死に白バイ隊員を見ていた。でも白バイ隊員は去ってしまった。ワタシは(なんだアイツ!)って思ったけどどうしようもなかった。ヤクザに手を出すほどの度胸もなかった。女の子はヤクザに腕を掴まれ攫われようとしていたけどワタシには何もできなかった。女の子はワタシに(助けて!!)って目を向けていたけどワタシはただ引きずられていく女の子の後を何もできずに追い歩く役立たずだった。

そこで女の子の目が輝いた。その目はワタシの事なんか見ていなかった。ワタシの後ろに向いていてそこにはさっきの白バイ警官がいた。

「ちょっとアンタ、何してる?」白バイ警官は女性だった。

ヤクザが振り返った。

「あ?てめえには関係ねえだろ、この女にホストクラブのツケを払わせるんだ。民事だ」

「民事?その子はどう見ても未成年だろ、民法第5条くらい知っているでしょ、ヤクザなら」女性の白バイ警官がバイクを止め降りて女の子を掴むヤクザに腕を伸ばした。

「現存利益だ!返還義務があるだろ!」ヤクザが返す。

「未成年の女の子がホストクラブに現存利益もクソもないだろ、その手を放しなさい」女性警官がヤクザの腕を掴み言う。

「てめえ、俺が誰か分かってんのか?」

「ははっ、神泉組でしょうが?警察官相手に金バッジを見せびらかして何言っているんだよ、こっちは円山署の東だ」女性警官がそう言うとヤクザは女の子から手を放し「顔、覚えたからな」と捨て台詞を吐いて去って行った。連れ去られかけた女の子もヤクザの手が離れるとすぐに走って逃げて行ってしまった。

二人残された谷と東という女性警官。東と谷は逃げて行く女の子を見送っていた。

「お礼も言えねーのか」

東という白バイ警官はとても女性とは思えない言葉遣いだった。

何にせよ助かった。そう安堵している谷に東は振り向いて言った。

「アンタに言っているんだけど?」

「は?」谷はたった今(助かった・・・)と思っていたのに女性警官の意外な言葉に言葉を詰まらせた。

「礼も言えないのかって言ってんだよ」

女性警官は左手を腰に当てて谷を睨んだ。

「そんなの、困っている人を助けるのは警官の仕事だろ・・」谷は消え入りそうな声で辛うじて言った。

「ああ、よく知ってるじゃないか。そう、だからあの女の子を助けてやった。でもイキがってヤクザに絡む正義の味方ゴッコをしているバカを助けるのはアタシの仕事じゃないんだ」

正義の味方ゴッコと言われ谷は思わずカッとした。

「誰も助けてくれないんて言っていないだろ!」

「よく言うわ。さっき泣きそうな目でこっちを見ていただろ?」

そうだ、やはりこの女性警官は分かっていて離れたんだ。谷は東を睨んだ。

「正義の味方ゴッコは止めておけよ」

「ゴッコなんかじゃない!!」谷は声を荒げた。

「ゴッコじゃないならなんでさっき助けを求めなかった?手を振ってお巡りさんこっちでーす!って泣きを入れればよかっただろ。ヤクザを前にビビっていたくせに」

「分かっていて通り過ぎたの!?警官のクセに!」分かっていて。という言葉は自分の情けなさを認めたようなものだが言わずにはいられなかった。

「アンタ、谷って言うんだろ?聞いてるよ、ここらで有名らしいね」

谷は自分の名を言われハッとしたが東は構わず続けた。

「ゴッコじゃないならなんでさっき助けを求めなかった?アタシがあのまま通り過ぎていたらあの女の子はどうなっていた?アンタにどうにかできたか?」

できない。出来なかった。

だがそれを素直に認め口にすることが出来るほど谷はまだ歳を重ねてはいなかった。

「だからゴッコだって言ってるんだ。アンタが本当にあの女の子を救けたかったんなら警察官に助けを求めればいいだろ?でもそれをやらなかっただろ。なんでだ?当ててやろうか?カッコ悪かったんだろ、正義の味方が警察官に助けを求めるなんてカッコ悪かったから手を上げなかった、助けを求めなかった。違うか?」

その通りだった。あの女の子を助けたいというより、自分が助けたかったんだ。

谷は唇を噛んで下を向くしか無かった。

「認めるか?」東は追い打ちをかけてきた。谷は悔しかったが唇を更に噛んで小さくうなずいた。

東はそれを見て鼻で笑った。谷はバカにされたと思ったが東が続ける言葉は違った。

「アンタのことは署でも噂になってる。女の子が一人で渋谷を守ってるってさ」

谷は思わず顔を上げ東を見た。

「おい、勘違いするなよ。誰もよくやってるなんて思っていないぞ。心配しているんだ。で、案の定これだ」

「女の子を助けて何が悪い!」期待されていたのか、感心されていたのか。そう思っただけに東の言葉は余計に辛辣だった。

「あのな、アンタ一人で何ができる?さっきのヤクザは円谷組の下っ端たけど荒っぽいやつだ、下手に手を出していたらアンタもあの子と一緒に連れて行かれてたぞ」

「見捨てろっていうの!?」

東は呆れた様子で返す。

「だからさ助けを求めればいいだろ、アタシがいたんだ。手を上げて助けてって言えば良かっただろ。そういうところをみんなが心配してたんだよ、ゴッコだってさ」

「余計なことはするなって言うの!?」

まだ谷は素直には頭を下げることができない。

「わからず屋だな、素直に助けを求めろって言ってるんだよ。あの女の子を助けたかったのならワタシに助けを求めるべきだったろ?アンタのやってることは立派だよ、みんな大したもんだって思っている。でも一人じゃどうにもならないことだってあるだろ。アンタ一人で 渋谷を守るつもりか?無理に決まってるだろ、それがわかっていないからゴッコだって言ってるんだ」

谷は何も言い返せなかった。泣きそうなほど悔しかったが東は止めなかった。

「で、礼は?まだ聞いてないぞ」

谷は悔しさがよくわからない怒りとなり声も出せなかった。

「これだけ言っても礼の一つも言えないか。ならあの女の子の面倒を見とけよ……そうだな3日くらいでいい」

「なんで私が!?」

「あの子を助けたいんだろ?あのままじゃまたすぐあのヤクザに捕まるぞ。アンタ、礼も言えないならそれくらいやれよ」

「3日で……」たった3日。警察官にすら脅し文句を吐き去るあのヤクザがたった3日で諦めるとは思えなかった。私にあの子が守り切れるだろうか?無理だ。相手はヤクザなんだ・・・。

「三日でいい」東は最後に念を押すように言って去って行った。

谷はすぐに逃げた女の子を探し始めた。幸いすぐに見つかった。ヤクザに怯えた様子の女の子は細道の奥でうずくまっていた。

谷は女の子に三日だけだからと言い自宅にかくまった。三日間は谷も少女も一歩も外には出ずに過ごした。だが四日目の朝、谷が起きると少女はいなくなっていた。憧れて渋谷にやってきた年頃の女の子だ、三日も家の中で耐えていただけでも大したものだろう。谷は自分もあのヤクザに狙われているんじゃないかという恐怖があったがそれよりも女の子が心配で探しに出かけた。行き先は分かっている、当然渋谷だろう。

だが今回は女の子を探し見つけるのは無理だった。この渋谷という街でどこに行ったか分からない一人の女の子を見つけるなんて不可能だ。

だが交差点に止まっていた一人の白バイ警官を見つけた。東だった。谷は恥も外聞もプライドも捨てて東に駆け寄った。

「あの子が、いなくなっちゃって!」叱責を覚悟していた谷だったが東は落ち着いていた。

「いつ?」

「それが今朝、起きたらいなくなってて!」

「なら、大丈夫だよ」

「え?」

戸惑う谷に対し東はようやく振り向いた。

「もう大丈夫だ、今回はね」

一緒に探してほしいという懇願の目を向ける谷に東は説明する。

「神泉組のあのヤクザとは話を付けておいた、あの子はもう大丈夫。まあもちろんアタシの手柄じゃないけどね、円山署の暴対課に頼んでね、あのヤクザに事情を聴いた。あの子はホストクラブで掛け飲みしまくって当のホストにヤクザに売られたんだ。あのクソヤクザはホストに掛けの代払いをしてあの子を手に入れたつもりだったんだろうな」

「あんな子供を?どうするつもり?」谷は半ば分かっていながら聞いた。東も分かり切ったことだと答える。

「手っ取り早いのは援交ビデオ。マスターデータさえあればそれを売って儲ける奴、買って楽しむ奴が捕まっても痛くもかゆくもないからね。昔のVHSテープと違ってコピーは簡単だけどリスクはないからね。未成年を売春させるのは客は付くかもしれないが管理の手間があるしリスクが大きい」

東はそう言って数百の人が歩き行く渋谷の交差点に目を向けた。

「あの子、またやるからな」

谷が驚いて東を見たが、渋谷の交差点ではなくどこか遠い所を見つめていた東は続けて言った。

「今回はアンタのおかげであの子を助けられた。運が良かった。でも次も、その次も幸運が続くわけないだろ。そうなる前にあの子が自分でそれに気が付けばいいんだけどね」

無理だろうな。と東の表情は語っている。

「アンタのせいじゃない」

東は谷の顔を見て言った。


「その東さんって言うのがリューさんのヒーローなんですね」那奈が聞いた。

「そ、まだお礼は言っていないんだ。白バイ警官になってお礼を言いに行くの!」谷は天津飯にがっつき始めた。


谷が四杯目のビールジョッキを受け取ると那奈が聞いた。

「東さんに報告しに行った方が良いんじゃないですか?」

だが谷は首を振った。

「東さんは・・・」

「え、まさか・・・」

那奈は谷の表情が暗く落ち込むのを見て聞くべきではなかったと思ったが谷の答えは違った。

「東さんね、結婚して警察官を辞めちゃっているんだ。あと二年早ければね!そうなの!本当はワタシもっと早くに白バイ警官になれていたはずなのよ!白バイ隊員の資格って大型バイクの免許だけなんだけどさー、総合的な判断って言うの?そう言うのがあるのよ!」

「えー、リューさんは素行が悪かったとか?」那奈が意地悪っぽく言うが谷は素直に答える。

「まあそんなとこ。ワタシみたいな大卒って警察学校を出たら本当は巡査部長から入るんだけどさ、警察学校時代の指導教官のオッサンがさ何かとワタシの肩とか髪とかお尻とか触ってきてさ。ワタシも我慢していたつもりなんだけどね、胸を触られた時はさすがにキレちゃってさ、ふざけんな!って教官の腕を捻り倒しちゃったのよ。そしたら教官の肩が外れたって大問題!たかがセクハラにやりすぎだってワタシは警察学校を除名処分になるところだったんだけど、ワタシはセクハラじゃない痴漢行為だ犯罪だろって抗弁してね、訴えてやるって息巻いたらその教官はワタシの目の届かない遠くに行ってワタシは大卒の準キャリアなのに警察学校を卒業したら巡査になっていたってわけ。白バイ隊員は巡査部長以上じゃないとね、そのー総合的な判断ってヤツ?それが通らないのよ!本当だったらあと二年は早く白バイ隊員になっていたのよ!」

那奈は笑ってグラスを口に運んだが、谷はそれが気に入らない様子だ。

「なによ那奈ちゃん!ワタシは悪くないでしょ!?」

「いや、リューさんらしいなって」

「なにそれ。わけわかんない!」そう言って谷は四杯目のジョッキを半分ほど飲み干した。


谷はその後、警察官を引退した東の元を訪れたらしい。

そこでどんなやり取りがあったのかは那奈には知る由もない。

「リューさんカッコいいな・・」


そうだ、つい最近だ。

那奈に谷から連絡が来た。

「今から飲むからすぐに来て!」泣いているような、怒っているような声だった。

那奈は30歳、いやもうすぐ31か。谷は34歳。

谷には半年ほど前に大学生活以来の彼氏が出来たと散々那奈に自慢してきていたのだ。

その男の事は那奈も多少は知っている。半年ほど前に谷から連絡があったのだ。

「那奈ちゃん、ちょっとさ、今度の週末なんだけど空けてくれないかな?いや、ちょっと飲みに行きたいんだけどさ。ほらキミちゃん、覚えているでしょ?ギャルカフェのさぁキミちゃん。あの子がなんて言うの?あのさ、飲み会開いてくれるって言うの。ねえ?分かるでしょ?那奈ちゃんもさ、彼氏いないじゃん?キミちゃんがね・・ほら・・・」

さすがに分かる。キミちゃんが男の子を紹介してくれるってことなのだ。もちろん那奈にではなく谷に。だがギャルカフェ111のメンツの中に一人警察官で34歳の谷では不安なのだろう。

そこで同じく30を超えている那奈に同席して欲しいと言う事なのだ。

確かに那奈も今、彼氏と言える男性はいない。男性と付き合ったことが無いわけではないのだが、長くは続かない。

その理由は自分でもおぼろげには分かっている。どうしても夢の中に見るような完璧な夏奈と比べてしまうのだ。それに最も近いのは田中だった。

それはもちろん田中さんと付き合いたいというわけではないのだが、あの大きく那奈の至近距離の正拳突きを交わすほど強くて、でも当たってなどいないと強がって、そして心底嫌そうな顔をしつつもおんぶをしてくれた田中と比べてしまうからなのだ。中空にタバコを掲げ「あなたのお兄さんもこれを吸っていますよ」と言ったマルボロマン。

那奈にとって理想の男性とは田中であり、それは兄であり、父なのだろう。

「いいですよ、週末ですね」那奈は快く答えた。たまには男性とお酒を飲むのも良いだろう。

もちろん、キミも那奈も分かっている。今日は、ヤル姉のための日だという事くらいは。

キミと那奈が上手く盛り上げたこともあり谷は一人の男と手を繋いで帰ることにはなった。

歳は那奈よりは上だが谷よりは下の32歳。まあ一つ二つなら大した問題にはならないだろう。一番の問題は谷の警察官と言う職業に引かないという事だ。しかも女だてらの白バイ警官。だがその男性もバイク好きという事もあり上手くいくだろうとキミと那奈は胸をなでおろしていたのだ。

谷は数少ない日曜の休暇が取れる日には必ずと言っていいほどに那奈に電話をかけてきていた。どこそこに新しいカフェが出来とか今度あの店に飲み行こうよとかと言った連絡だった。

だがあの日は違った。

「那奈ちゃん!テル君の友達がさぁほらあの時のさ、那奈ちゃんの事が気になっているみたいよ?那奈ちゃん的にはどうなの?悪くないんじゃない?」

テル君と言うのは谷を見初め手を繋いで帰って行った男性の事だ。

「リューさん、用事は何ですか?」半ば分かってはいたが那奈は敢えて聞いた。谷が言いたいことを言わせてあげるというわけだ。

「え?用事って言うかさぁ、今度の週末はテル君と温泉に行くことになってさ」

「ついてきてってことですか?」那奈はいつもの意地悪をする谷に少しばかりの仕返しをしてみた。

「いや、うん・・・。だからさ、分かるでしょ?その・・・ね?」

「分かりました!週末ですね開けておきますよ!」

「那奈ちゃーん、ごめんてぇ・・」那奈をからかういつもの意地悪な谷とは違うどこか情けない声が返ってきた。

「分かりましたよ、温泉デートを楽しんできてください」

那奈はそう言って送り出したつもりだった。

しかし今まさに温泉デート中のはずの谷から飲みに行こうと誘いの電話がかかってきた。

「今から飲むからすぐに来て」と。

谷は飲めればどこでもいいという様子だったが、そうもいかないだろう。那奈はすぐに個室のある店に予約を取って谷に返したのだ。


那奈が店に着くと予約しておいた個室へと通されるとすでに谷はいた。そしてその目の前のテーブルに置かれたジョッキはすでに空になっていた。

那奈は谷の前に座り「生レモンサワーで」と店員に伝えると谷も「中生追加で」と言う。

どうしたんですか?とすぐには聞きにくい。

「何か食べました?」那奈はとりあえずはメニューへと逃げる。

谷が「これ」とばかりに空のジョッキを持ち上げた。傍らのお通しは手を付けた様子もない。

これはすぐにでも何かお腹に入れた方が良さそうだ、那奈は急いでメニューをめくり続けた。

すぐに店員がジョッキとサワーグラスにレモンにガラス製のフルーツスクイーザーに那奈の分のお通しを置いた。

那奈は端末を手にして待つ店員にすぐに注文を始めた。

「チキンエッグのサラダと、鉄板焼きのステーキ。えーとソースはおろしでお願いします。あと茄子と豆腐の揚げだしを」

店員がそれを繰り返すのを横目に谷はジョッキを半分ほど空け「あと中生を一つ」と言う。

那奈がお願いしますと控えめに頭を下げるのを見て店員は察してくれたようだ。

店員が空になったジョッキを手に個室を出て行き一息ついたところで那奈はレモンを絞りサワーに注いだ。

「リューさん、少しお腹に入れてからにしましょうよ」と言う那奈に谷はジョッキの残りを飲み干し「入れてる」とばかりにジョッキを那奈に示し置いた。

谷の酒癖は、まあ良くはない。絡んだり悪態をついたりするようなことは無いのだが只管にジョッキを空けるのだ。その機嫌によって空のジョッキが五つも六つも並ぶこともあったがはたしてそれが酒に強いと言えることなのかどうか。那奈は何度かそこまでジョッキを空にした谷を肩に自宅まで送ることがあったからだ。

なるべくすぐに用意できそうなものをチョイスしておいたことと那奈の「出来れば急いでください」と言う思いをくみ取ってくれていたのだろう、料理はすぐに二人の前に並べられ谷の三杯目のジョッキも置かれた。那奈がありがとうございますと頭を下げると店員は大丈夫ですと優しい微笑みを返してくれた。

那奈はすぐにジョッキに手を伸ばす谷を抑えるように「ほら、今取り分けますから」と言って取り皿にサラダを分け始めた。ロメインレタスにスライスされたトマト、細切りのキュウリに竜田揚げの鶏胸肉に味付け卵が乗っている。

ドレッシングは二つ添えられている。一つは白くシーザーサラダにかけるようなチーズソースでもう一つは棒棒鶏ソースだった。

「リューさん、ドレッシングはどっちがいいですか」

だが谷はそれには答えずに愚痴を始めた。

「那奈ちゃんはいいよね」

「え?何がです?」

「普通にそういう事が出来るんだもん、アタシは無理!」

サラダを取り分けていることを言っているのだろう。今時はこういったことを女性の役割だとする風潮も廃れつつあることはもちろん那奈も知ってはいるが、警察機構と言う男性社会に生きる谷にはまた別なのだろう。谷は警察機構と言う職場の中で気の許せる友人と言うものを作れないでいるようだ。

たまに取れる日曜の休暇には必ず那奈が呼ばれ、それ以外の時では渋谷時代の仲間、主にキミを頼りにしているようだった。

だが那奈はそんな谷を面倒に思うことは無かった。谷は那奈の事を妹の様に思っていてくれているのは分かっているし、那奈も谷を少し手間のかかる姉と思っていた。

今日の愚痴はそう言った「女らしさ」というところで温泉デートでちょっともめた話なのだろうか。

「ドレッシングはどっちにします」

そう聞く那奈に谷はふてくされたように答える。

「どっちでも良い」

那奈は取り分けたサラダにチーズソースをかけて谷の前に置き、残ったサラダに棒棒鶏ソースをかけ自分の前に引き寄せた。

豆腐のステーキと茄子の揚げだしをそれとなく谷の前に押し出すことも忘れない。

谷は構わずにジョッキの手を伸ばそうとするが那奈が少し咎めるかのように首を傾けると素直に箸を手にしサラダを摘まみ始めステーキを口に運んだ。

谷が少なからず胃にビール以外の物を収めるの見て那奈は愚痴を噴き出させる口を切ってやった。

「リューさん温泉デートはどうしたんですか」

谷はそれを受けて憤懣を吐き出し始めた。

「聞いてよ那奈ちゃん、アイツ最悪!」

たった昨日までテル君と呼んで手を繋いでいた男性を「アイツ」と言うのはただならない事だ。

那奈は今日も泥酔した谷を家まで送り届ける事を覚悟した。

「そうよ、温泉行ったわよアイツと、ワタシのバイクでさ。そしたらアイツはさガソリン代は出すとか高速代は払わせてよなんて言ってくるのよ。でもさバイクのガス代なんて大したことないし高速代だっていいわよ、ワタシはそれほどお金に困ってないしさ。そしたらあいつさ、高速のパーキングに寄るたびにコーヒーとか買ってくるのよ。なんか嬉しそうにフランクフルトまで両手に買って来てさ、お腹空いてない?とか言ってくるのよ」

「え?いいじゃないですか。リューさんコーヒー好きじゃないですか」

「うん、いいわよ、良いんだけどさ。ホテルに着いてさ、そりゃあ良いホテルだったよ。晩ごはんは部屋まで持ってきてくれたし、鹿肉の鍋まであったんだよ。どれも美味しくてさ、お腹いっぱいになってじゃあ温泉に入ろうって思ったらさ、プライベートの露天風呂もある部屋でね。最高だったよ、ホテルはさ」

一台のバイクで二人で温泉に向かって、食事も美味しく温泉にも入ったというところまで聞いたら・・。

後はあまり聞きたくはない。誰だって姉妹や兄弟のそういったところを知りたいとは思わないだろう。

だが谷は話を続ける。

「個室の温泉も良かった。でもアイツさ、お風呂から出たらなんて言ったと思う?」

「えー・・・・なんです?」

「アイツ、これ着てよなんて言って婦警の制服を出してきたの!!しかもミニスカートなの!そんな制服無いでしょ!」


那奈には分かるところもあり、分からないところもある。男性がある種の制服に性的興奮を覚えることがあると言うのは知っている。それは女性警官であったり、女性看護師だったり、女性キャビンアテンダントだったりするそうだ。

それをセーラー服に向けるのは確かに気味が悪いとは思うが、婦警のなら・・とは思う。なぜ結局はどれも実在しないミニスカートの制服なのかは分からないが。

「いや、そういうのが好きな男性もいるんじゃないですか」

「絶対ヤだ!最悪!気持ち悪い!」

「それで帰ってきちゃったんですか?テルさんは?」

「おいてきた……」谷はすこしばかりバツが悪そうに答えた

「え?えぇ!?置いてきたってホテルにですか?テルさんを置いてきぼりにしてリューさん一人で帰ってきたんですか?」

「うん……」

これは、那奈一人では修復は難しそうだ。

那奈に咎める視線を向けられ谷が言い訳をする。

「だって気持ち悪いじゃない!」

「まあでもそういう男性は多いんじゃないですか?それで外を歩こうって言うわけじゃないですよね」

「やめてよ那奈ちゃん!外を歩くなんて最悪!」

まあ、分からないでもないけど、結局はどうやって寄りを戻したらいいのかというところなのかな。こういうところはキミちゃんの方が良さそうなのだけど。

那奈は荷が重いと思いながらも提案はしてみる。

「とりあえずテル君に電話してみればいいんじゃないですか?」

「やめても那奈ちゃん!もうアイツとは会わない!アドレスももう消したし!!」

「ええ?早くないですか?そういうのを・・その、コスプレって言うんですか?それを止めてもらえばいいじゃないですか」

「やだやだ無理無理!!だってアイツは警察官をそういう目で見てるってことでしょ?私が白バイに乗ってる姿を見たら、そういう目で見てるってことでしょ?最悪!キモ!!!」

谷はそう言ってまたジョッキを空にして店員を呼び、那奈は今日も谷に肩を貸して家まで送り届ける覚悟を決めた。


リューさん、カッコいいのになあ・・・。

那奈は両手で覆った小さな火にまた呟く。

もう那奈に残ったのはこの小さな火だけだ。その小さな火を覆う手に当たるかすかな温かみだけが那奈だ。

それ以外の那奈が呟いた。

「夏奈兄ちゃんの方がカッコいいよ、ほら助けに来てくれる」

だがそう言われても那奈はドアを見ない。開くはずのないドアに希望の目を向けては最後の那奈が折れてしまう。

那奈はドアに目を向けずに必死に耐える。最後に残った、今にも消えそうな火をそのボロボロの両手で必死に覆う。もうそれしか残っていない。

いつ消えるとも知れない小さな火とそれを覆う両手。それだけが最後に残った那奈だ。

それ以外の那奈。暗闇を覆う死にたがりは分かっている。

その小さな火はもうすぐ消えると。




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